ナチュラルメイク創作論

 義理の弟の結婚を機に婚活について調べていたら、そこにも創作論がありました。



————以下、引用文


 では、男性の思う「ナチュラルメイク」とは一体何なのでしょうか?「男性が考えるナチュラルメイク」とは、「女性が考えるナチュラルメイク」とは違い、実は「計算されたナチュラル風メイク」なのです。


 決して自然のまま、ありのままの自分を出せば良いという事では無いのです。こんな事を書くと「それってウソじゃない」と思う方もいらっしゃると思いますが、それがモテるための方法だとしっかりと受け止めていきましょう。


————以上、《男性の好きな「ナチュラルメイク」でモテ顔に – 婚活を成功に導くブログ》( https://whitekey.co.jp/wp/2634/ )より引用



 どう見ても創作論です。

 〈ナチュラルメイク〉といえば純文学の王道ですし、有無をいわさぬ説得の仕方はラノベ系(商業(大規模投票)前提系)の投稿サイトでよく見るやつです。


 婚活における人生論と確率論の調和不調和についてはさておき、純文学といえばナチュラルメイクです。さらに主語を大きくして言うところの「男社会はなぜ「ナチュラルメイク」が好きなのか?」という巨大テーマは、当然のことながら日本の近代文学100年あまりの伝統と無縁なものではありません。

 時代が進むにつれ純文学についての価値観も多様化してはいるのでしょうが、18~19世紀の西ヨーロッパのインテリにとって重要なキーワードだった「自然」という言葉の影響力は、現代の日本にも残っています。今でも文学の人たちは、〈自然〉と触れ合おうとしていますし、〈高貴な野蛮人〉を探しています。〈生きた言葉〉も求めています。〈現実〉の〈人間〉は意外に(意外に?)、昭和平成の歌からの引用でしゃべったり、古いフィクションの決まり文句の引用の引用で語ったりもするものですが、そういう〈現実〉は求められていません。ナチュラルメイクではないからです。

 ヨーロッパの自然主義とロマン主義、そして日本型の自然主義とロマン主義の時代を経て、今でもまだ「不自然」「あざとい」「わざとらしい」「書割」「人工的」「作り物めいている」「人物が人形じみている」「登場人物が作者の傀儡に堕している」といった言葉は小説を評価する言葉として普通に使われていますし、しばしばそれは特定の小説を低い位置におくための便利なレッテルとして運用されています。


 では〈自然〉とは何か。どこをどう見ても作者が並べた文字列でしかない小説が「自然である」とはどういうことか。

 議論のテーマとしては面白いものですが、 面白い議論というものは、一言でいえば「弱い」ものです。複数の力が打ち消しあい、外部の人間を動かす力は弱くならざるをえません。やはり強いのは〈権威〉( https://kakuyomu.jp/works/16817330659884875261/episodes/16818093080868055474 )と団結です。


 権威の側に立つことができれば、話はとても簡単になります。

 まずは、自分が(あるいは自分たちが)「自然」だと思うものを指して「自然である」と言います。

 そしてそれだけでは、「ただの文字列が自然とかおまえ何言ってるの?」「〈現実〉の〈自然〉や〈人間〉についての〈解像度〉が〈低い〉だけでは?」といった外部(小説の伝統との関わりが薄い人たちがいるところ)からの疑念だけを招いてしまうので、最低限の一手間を加えます。別の小説を指して「これは不自然である」と宣言し、そこには厳然たる線引きがあるのだという態度を示しておくのが、その一手間です。

 さらに、「意図的に作ったものを「不自然」と感じさせないのが技であり芸である」と芸道論(内部の伝統を知らない人間の声が小さくなる議論)に持ちこんでしまえば完璧です。外部にいた人たちの一部は、なるほど小説とはそういうものかと価値観を会得して、新たに内部の人間となり権威を支える側に回ってくれます。

 このようにして、いくつもの小説を「自然」/「不自然」に振り分けながら、〈第二の自然〉は拡大し安定していきます。(※「でもやっぱり、ただの文字列でしょ」「「作為が透けて見える」のはどの小説も同じだよ。何らかの政治的な理由で、一部の作品を薄目で見ているだけなのでは?」という外部からの邪推を完全に消し去ることはできませんが、ひとたび安定した権威と「自然」を、そのていどのつぶやきが揺るがすことはありません)


 こんな馬鹿馬鹿しいお話のようなことが日本で本当にあったのかどうかは知りません。

 しかし私たちワナビは、最悪のケースにできるだけ近いものを想定しておくべきです。上記のような最悪の流れで確立された権威と「自然」は、簡単に崩壊するものではありません。つかみどころが無く、どこをどうすれば覆せるのかわかりません。従っておいたほうが無難です。実際は上記よりもちょっとマシなのかもしれませんが、それでもちょっとは従っておくべきです。


 まずは権威に嫌われないこと。

 そして「自然」に見せること。

 これが重要です。


 書くものがライトノベルであっても、ナチュラルメイクは重要です。ナチュラルメイクを軽んじてはいけません。あざとメイクの2010年代を経て、ナチュラルメイクはむしろ磐石になりました。

 「純文学の伝統? 知ったことかよ」というライトノベル過激派の創作論は、当然のことながらエクストリーム系のメイク論と似ているところが多く、「眼球はいくつにするべき?」くらいのところから話が始まったりもしますが、それでもやはり友人知人や親族に紹介してもらうためには、ナチュラルメイクに寄せておいたほうが有利です。「純文学は無視でいい」「そもそも今の読者はジャンルの伝統なんか気にしない」と言う作者や「今の読者」の脳内にも、むしろ逆に古い時代の権威と「自然」——純文学と大衆小説が(互いに意識しあう)二大ジャンルだった時代の権威と「自然」が、どこからともなくインストールされていたりするものです。


 そもそも純文学の伝統を無視するという暴挙が許されるのは、ライトノベルの中でも特に勢いのある中央勢力だけです。

 私たちライトノベルのワナビがいるライトノベルの辺境は、純文学の辺境や、わりと重いエンタメ小説の辺境と重なっています。その領域では、いわゆる「文芸部の王」や「小小林秀雄」や「デファクト辺境伯」がそれなりの権威をもって君臨しており、旧態依然とした「自然」の価値はむしろ純文学の中央より高いかもしれません。価値観の変化には、中央からの距離による時間差があります。まずは地域ごとの権威と「自然」を知り、それに従わなければ、好評をいただくことはできません。


 権威を有する個人や集団がすでに形成している独特な免疫システム自体の学習と模倣。

 それが小説家になるための方法だとしっかりと受け止めていきましょう。



 【余談1】

 むかし読んだ『ぼくは勉強ができない』や『放課後の音符』にも実は創作論的・批評的な含意があったのではないか、と今さらながら思うようになりました。


 【余談2】

 〈現実〉の〈人間〉の〈人間性〉や〈自然〉な〈発話〉がむきだしめいてるっぽい感じになっている小説は、「実験的な作品」「実験作」と呼ばれることが多いようですが、この「実験」というのも不思議な言葉です。自然科学の「実験」とはずいぶん違うように見えます。実験ノートはもちろん、論文や実験結果が外部の人間に向けて公開されることのほうが珍しい。おそらく文学的な「実験」とは「実際に体験してみること」という意味の「実験」であり、その成果は作者と読者の体内にだけあるものなのだと思います。とはいえ、後日に一部だけ条件を変えて行なわれた2回目以降の「実験」が「陳腐」「パクリ」「徒労」とされてしまうのはやはり不思議なことです。

 ここには何か、16世紀にまでさかのぼらなければ見えてこないような、科学史と芸術史の面白い綾があるような気もしますが、正直よくわかりません。とりあえずは、文字列だけの一致にすぎない、と割り切ってしまうべきなのかもしれません。

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