【現状】 私たちはどこへ行くのか?

嫌われる言葉づかい――特に「エセ方言」について

 落語の力を借りたともいわれている言文一致運動の時代から100年以上が経った現在、少なくとも日本語小説の読み書きについては、「標準語ではないから減点」という謎基準も力を失い、むしろ「方言は有利アド」とまでいわれるような環境が大きく広がっています。

 とはいえ、日本語の全力投入がこのまま時代の流れになっていくかというと、それはまだ予断を許しません。


 たとえば、いわゆる「エセ方言」の問題。大きく言うなら「マイノリティの中のマイノリティ」の問題でもあります。こういう問題は話がずっと複雑になるので、日常会話の速度域では、そもそも問題化すること自体が好まれません。一切は流れていきます。


 しかし、小説や創作論などの、比較的スローライフな書き言葉を一生やっていく永世ワナビたちの間では、「音韻ヘイト」や「語彙ヘイト」の問題(まとめて平たく言えば「嫌われる言葉づかい」の問題)についての活発な議論が交わされており、最近では「方言」「エセ方言」の問題の深刻さについても理解が深まりつつあります。

 中でも特に活発なのは、「外見ヘイトの表明に比べて音声ヘイト・音韻ヘイトの表明は許されがち(なのか否か)」というテーマをめぐる議論です。目と耳の閉じやすさの違いや光と音の性質の違いを考慮に入れると、単純にどちらがどうという話にはならないと思いますが、歯切れが悪くならざるをえない中でも議論を続けていく価値はあるテーマです。「ヘイト」一般の辞書的な定義を把握しておくことも重要ですが、「ヘイト」の細かい分類と比較から始まる細かい新しい話をしておくことも、負けず劣らず重要です。


 現在の私の個人的な感想を言うなら、人間の顔に対する「見苦しい」「目障り」と比べて人間の声に対する「聞き苦しい」「耳障り」という素朴な感想の率直な表明は、社会的許され度が高いように感じられます。

 「肌の色が不自然」は論外ですが、たとえば外見についての「メイクが不自然」「整形が不自然」という発言よりも、発音についての「アクセントが不自然」という発言は許されている感じがします。「表情が不自然」と「アクセントが不自然」は今のところ互角ではないかと思いますが、誰かの談話動画のアクセントだけを改変して不自然ヘイトを誘い込むような細かいフェイク仕事の危険度を考えると、後者に対するヘイトの方によりいっそう注意を向けておくべきとも言えそうです。


 「日本語」「公用語」「標準語」が「自然」ではないように、「方言」も「自然」ではありません。方言Aと方言Bの境界線をどこに引くか。方言らしきものαを「方言」であるということにするか否か。学術的な議論はどこまでも続いていきそうですが、その時々のヘイト暴力的に重要なのは集団内・集団間の暴力バランスです。暴力で決まります。暴力で決まるべきではないと思います。


 世の中には、いろいろな人がいます。

 大阪の学校に溶けこもうとしている千葉県出身の少年。

 日本列島各地を転々としてきた韓国人の母親。京都市上京区人の父親。そして両者の間に生まれた娘。

 兄弟の人数と多様性が限界な炊事係。

 新参者が片言の≅弁を使うことには寛容だが∽国元首の顔をテレビで見た時には「エセ∝人」という直球の差別発言をしてしまう∞州人。

 すべてが人間です。

 あらゆる個人の使う言葉は、それぞれが固有のポジションに身を置く〈真似のネットワーク〉の中で習得されるものです。有力なネットワークへの接続時期や近隣ノード(家族・友人・YouTuberなど)の状態は、人によって違います。

 真似のネットワークから受ける影響は、DNA継承のツリーから受ける影響に比べれば、個人的(後天的)に操作しやすいものではあるでしょう。

 しかし、だからといって、「整形が不自然」という発言はNGで「アクセントが不自然」という発言はOKだと単純に割り切れるものでもありません。少なくとも、あれはNGこれはOKという社会的線引きに対する警戒は常に必要です。


 外見に対するヘイトと音韻に対するヘイトについて同時に考える時、あるいは反省する際には、両者を一括りにする抽象的なキーワードが役に立ちます。

 中でも比較的わかりやすいキーワードは、やはり「似非エセ」だと思います。似て非なるもの。完全に「非なるもの」とされているものよりも、気軽な攻撃を受けやすいポジションにあります。

 「意識的に真似ようとしている」状態は、精神的弱さ・未熟・寡兵の証だと見なされる場合も多く、そういう点でも暴力を誘発しがちです。特に、「不自然な表情」や「不自然なアクセント」に対する違和感・嫌悪感は、単なる個々人のネットワーク環境の違いによるものとして穏便に処理されずに、表情やアクセントの背後に「信用できない人格」や「媚びる必要があるほどの戦力格差」があるのではないかという推測(邪推)にまでたどりついてしまうことが多く、そこからさらに進んでヘイトの表明や暴力の行使に到ってしまうことも珍しくありません。


 現在はもう、「人間」と「エセ人間」を外見で区別するような人間は少数派になりました。紛らわしいもの・似て非なるものを根絶やしにしていくプロセスがある程度(どの程度かは暴力で決まりました)進んだところでようやくヒューマニズムが多数派の思想になりました。外見上「人間と紛らわしい何か」は、この世にいなくなったように見えます。「人間とは似て非なる顔」「見る者に恐怖を感じさせるほど歪曲した顔面」も、何らかの人工物か、あるいはホラー作品に挿入されている画像・映像でしか私は見たことがありません。


 しかし、「人間かどうか」よりも高い解像度による差別が無くなったわけではありません。自分には「エセ」を発見し糾弾する能力と権力があると思うようになってしまった人間は、その力を行使する機会をスルーできなくなってしまうようです。

 これは私も、身に憶えがあります。気をつけないといけません。茶道具の似せ物に対する指摘はセーフ。どこそこの土はクソだよ発言はぎりぎりセウト。個人や人間集団に対するヘイトの表明は完全にアウト。人体に対する暴力は、「完全」という言葉すらも超えた言語道断のアウト。エセ方言呼ばわりは、かなりのアウト。「お国言葉」に関してだけは思わず純血主義のようなものが発動してしまう罠には特に注意。しかし小説の中には、どんな人間の声であっても登場する可能性がある。今後は、そういう基準でやっていきたいと思います。



【余談】

 芸能人が使う言葉の問題については触れませんでしたが、小説家のそれと共通する部分もあり、さらに一段階複雑な問題もあると考えています。

 代理と代表と表現の問題。決まり文句や役割語の許容範囲の問題。伝統芸能と近代芸術の間で、どこに身を置くのか。岡本綺堂を読め細雪を読め米朝を聴け圓生を聴け的なカリキュラムをどのタイミングでどこまでやっていくのか。心地良さと迫真インパクトのバランスをそれぞれの場でどう設定するか。このあたりは小説と話芸に共通する問題ですが、小説の中では表面化していない音声の問題が人体化のタイミングで噴き出してくることもよくある話なのではないかと思うので、これについては自分の書いた小説がアニメ化・実写化される時によく考えてみます。

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