終章 

 その時は、きっと…久しぶりの安心感に、少しぼーっとしていたんだ。

 少女は回想する。

 最初は何だったっけ?

 あたしが憎まれ口をいったのを、先生が冗談で誤魔化して…あたしが部屋を出て行こうとして、その腕を先生が掴んで…。

 気付いた時には抱きすくめられていた。

 先生の腕は大きくて重たくって、あたしが少し動いたくらいじゃビクともしなくて…でも、暫くジタバタしてる間、先生はそれ以上は何もしなかった。

 何も言わなくて、ただあたしを抱きしめていた。

 そういえば、昔、同じようにした同級生を突き飛ばした事があったな。腕を解いて簡単によろめいた相手に、なんか急に醒めちゃったっけ…。

 何でだろう?

 先生は何が違ったっけ?

 いや…その時は多分…あたしも、もう少しそうしていたかったんだ。

 もう少し、あの安心感に浸っていたかった。

 二人ともが、じっとしてた。

 どれくらいの間だったかは覚えてない。でも、その事は今もはっきり覚えてる。

 少しして顔を上げたとき…先生の、目を閉じて、眠ってるみたいな表情に…あたしはつい、手を伸ばしちゃったんだ。


 先生とはそうして、キスをした。


 甲斐があたしのこと好きだって言ったのは、そんな事があった、少し後のことだった。

 周りの同級生とは、少し違う奴だとは思ってた。喋らないし、何を考えてるのかも良く判らなかったから、告白されたときは戸惑った。

 勿論、先生のことがあったし、応える気があったわけじゃないけど、どんな奴かって少し興味があったから…。

『友達からってことでどう?』

 そう言ったときのリアクション薄かったなぁ…『わかった…』って納得したのか良く判らない反応で…でも、その後から、一緒に帰るようになったのか…。

 意外に素直。そして、意外に不器用。

 少し一緒にいて抱いた印象はそんな感じ。

 いい奴かも…って、思った。

 甲斐は女子には結構モテてたから、クラスの反応は煩わしかった…香織には悪いって思ったけど、甲斐も煩がってたから、振る為の理由作りしたっけ。

 ひと芝居打って…あの娘のことについては、それで済んでよかった。正直、クラス内グループの立場ばかり気にしている娘はあたしも嫌いだったから。

 でも、色々拙くなったのは…それが原因でもあるな…。

 甲斐は、そのことで、もう一度あたしとの関係を気にしてたし…そのとき、あたしはあたしで、先生のことで少し焦ってた。

 連絡がちょっとおかしくて…訊ねてもはぐらかされて。

 調べている内に薄々、相手が鍋島さんだって…わかって…。


            *


 外の風景が見慣れたものになってきた。

 降りる駅が近づいてきた事に気付き、回想を中断…何となく腕時計で、時間と日付を確認する。

 五月二十九日

「あれから二週間。か…」

 呟きが、駅に着く直前の様々な音に遮られた。

 滑らかにホームに入る列車、その扉がぴたりと予定された位置に着く。扉が開いた。牧野翔子は鞄を抱えると、ホームへ踏み出した。


 自分の身に起きた事。それを起こした犯人の事。

 二週間前の月曜日に、翔子はそれらの説明を受けた。

『なにそれ?』

 説明を聞いて、出た言葉はその一言だけだった。

 彼女にとっては無論、すんなり理解できる話ではなかった。が、その事に激昂するようなことも無かった。

 実際、それを聞いた自身の感情は良く判らないものだった。

 多少ヒステリックに振舞っても良かったんじゃないか? と彼女は後になってから思った。それくらい聞いたその時は、脱力していた。 


 事件の翌週から夏樹は都合で学校に来なくなり、一週間後、彼は転勤になった。その間、翔子には何の連絡も無かった…勿論、他の生徒が呼び出されることも無かった。

 別に構わない、そう思っていた。その一週間、翔子自身からは連絡を取ろうとは思わなかったからだ。

 後にメッセージが届いていたようだったが、翔子はそれを読まずに彼をブロックした。


 そうして、事件から二週間。

 翔子の周りに、変化は無かった。ただ、少し経って内面は落ち着いた。

『きっと、そう思いたかったもの』

 それが翔子の中には沢山あって、その中の一つとして夏樹との関係に夢見たものはその実、彼女個人のものだった。と、そう気付いたのだ。

 単純に言ってしまえば、未だ子供だった。そういうことなのかもしれない。相手に過度の期待をぶつけてしまったこと、そして、理想との違いにあっさり幻滅してしまったこと…。

 

 通学路、学校まで続く長い坂道を登る。

 未だ時間が早いので、生徒の数は少ない。

 なぜか、足取りは軽い。

 他の生徒を追い抜いていくのが清々しいのは、おそらく今日の天気が良いからだろう。

 いつもより早く、校門が見えてくる。道の途中、前方に一人の生徒。

 それより早く門をくぐろう。彼女はそう決めた。

 ――結局、どちらも子供だったってことか…。

 残りの坂を早足に、登る。前方にいた女生徒を追い抜いた直後、翔子は呼び止められた。

 振り返る。聞き覚えのある声だった。

「杉村…さん?」


            *


『おまえも、あいつらと同じ。俺の事が好きなんだろ?』

 さやかは回想する。

 そう、その通りだった。

 ――その通り?

 さやかは自問する。それは事実を思い出すだけでよかった。

 ――確かに、そうだった…と思う。

 さやかはそうだったことを思い出す。が、不思議な事にその感情は思い出せない。それだけではなく、少年の台詞に苛立った当時の感情もまた…。

 ――想い出せなくても…。

 時間が経った今、少しずつ落ち着いて考えることは出来た。それは、プライドのようなものだったんだろう。さやかはそう考えていた。

 好きなんだったら文句はないだろう?

 直前の行動に対して、そう解釈できる甲斐の台詞だった。が、さやかが感じた苛立ちは別のところにあった。それは、別の誰かと同じ様に扱われたように感じたところだった。

 自分が軽く扱われたように思った。もっと単純に偉そうな物言いだとも思った。

 だから…怒った。

 

 それを、少し…残念に思う気持ちはある。何はともかく、そこで憧れは消えてしまったのだ。

 しかし、そう思った今になって判ったこともあった。それはさやかが、甲斐の事を、何もわかっていなかったということだ。

 翔子と夏樹の関係は事件の最中に判明した事だったが、甲斐が翔子のことを好きだったということは事件後に知ったことである。翔子が彼を一度は振ったらしいということも…。

 日頃、一緒にいた甲斐と翔子の二人は文字通り微妙な関係だったのだ。それを知って当時を振り返ると、気になることがある。

 事件当時、甲斐は翔子に呼び出された形で進路資料室にいた。彼はそこで翔子を待っていた。

 実際にはそうはならなかったわけだが、甲斐がさやかにキスしようとしたとき、そこに翔子がやってくる可能性を彼は予想していた事になる。


『男女の間は複雑だからね…』

 これらの情報を提供したのは、事件の犯人、裕美だった。

『甲斐君と牧野さんのことは、知ってた。

 でも、あたしとしてはさやちゃんを応援する気でいたんだ。まあ、焚きつけるって言ったほうが正確だったかもしれないけどね…進路資料室のセッティングはそのためだったんだもん…呼び出しには牧野さんの名前を使ったわけだけどさ…複雑といえば、告白のことだよ…そう、本田君の。

 あの日は、わたしが今と同じ告白をする予定だったんだ。

 さやちゃん、うじうじしてる昔の自分見てるみたいでさ。

 ここを離れる前に、一度びしっと言いたかったんだよ。だから、あれは驚いたね…計画した日にあたしより先に、告白しちゃう男子が出てくるなんて予想外だったよ。

 おかげであの日あたしの計画は失敗。

 それにさ、折角応援する気でいたのに、なんか告白されてまんざらでもないみたいな雰囲気出してたでしょ? え? そんなことない?

 まあ、あれでちょっと火がついたんだわあたしは。だから、その後のことで、少しさやちゃんを困らせてやろうって思ってた』


 あの日、裕美は悪びれずに自らの『動機』をそう告白した。

 屈託なくそれを告げた少女に、不満の声こそ上げたものの、さやかは強く非難することができなかった。

 当時の悩みは悪戯自体よりも、自身の優柔不断から来ていたものが大きい。そう自覚していたし、それにまた、聞いた事実に率直に驚いてもいたからだ。まさか、本田の告白が一番の例外だったとはさやかは思ってもみなかった。

 加えてそれが無ければ、自身にとっての事件は早々に済んでいたのかもしれなかったと考えるとなんともめぐり合わせの悪い話だと溜息をつくほかなかった。しかし、その溜息に少し苦笑が混じるのは全てが明らかになり、時間を空けた今だからなのかも知れない。

 最後の裕美との会話。思い返してみれば、彼女はまるで他人事のように自身の行動を語り、気付けばいつの間にか怒りの矛先を逸らされていた。

 時間が経った今なら、一言。いや、それでは済まないほどに言い返すことが思いつくだろう。しかし、改めてそんな事をする必要は無い。そうさやかは思った。

 最後に少女は謝ったのだ。

『嫌いというのは、好きの裏返しでもあるんだなぁ…』

 そう付け加えて。

 怒るに怒れなかったのはその台詞の所為でもあった。

 ――甘いかな…。


 空を見上げる。

 電車を降りると、家を出るときよりも雲が晴れ、空は澄み渡る青空になっていた。

 いつもなら少し億劫な坂道も、今日は少し気分が違う。

 風に吹かれる髪が軽い。

 早い時間帯の通学路を誰にも遭うことなく、一人歩くのが快い。

 思い返す出来事が何となく…他人事のような、そんな気分になる。


 裕美は居なくなった。

 聞いていた新しい連絡先、それを見せるまでも無く、加奈子は裕美の転校のことを知っていた。訊けば裕美からは居なくなる前日に連絡を受けていたらしい。

『…まあ、なんか、そんな風に居なくなったりするんじゃないかと思ってた』

 …あの子ね、実は頭良いんだ。天才は忙しいらしい。そう言った彼女は、いつもどおりの加奈子だった。

 事件のことも裕美から聞いたのか、その事をさやかに訊いてくることはなかった。彼女は本当にいつもと変わりなく振舞った。さやかはそういった彼女の態度をありがたく思った。事件後、整理しなければならない問題は色々とあったからだ。

 しかし、大変だと思っていたそれらの事は、実際に行動に移してみれば簡単な事ばかりだった。

 新聞部の部員とは、秋津に断ってから一人で会いに行った。今回はちゃんと部室にいたその人物は、想像していたよりも気さくな人物だった。

『後輩が出来た事はうれしいんだ』

 そう言った眼鏡の上級生は、服装こそブログの通りだったが、苦手と思うようなタイプではなさそうだった。先の予定を少し話して、これならやっていけそうだとさやかは安心した。

 先延ばしにしていた本田への返答も無事に済んだ。

 今は誰とも付き合う気は無い。

 そう告げると、彼は残念そうにしながらも納得してくれたようだった。

『謝らないでくれよ』

 返事が遅くなった事をふくめ、頭を下げようとしたさやかに、苦笑しつつ本田は右手を差し出してそう言った。さやかはその手を笑顔で握り返す事が出来た。

 直子と夏樹のこと、それに知らない振りをする必要も無くなった。一週間が過ぎ、夏樹が転勤した日の放課後、直子は夏樹との関係をさやかに打ち明けたのだ。

 二人は近所に住む昔から知った間柄だったらしく。一緒に遊びに行くようなこともよくあったそうで、彼女は彼に憧れていたと言った。

『先生がどう思っていたかはわからないけどね…その…何時からだったかな牧野さんと先生の二人がよく一緒にいるってことに気が付いたの。そのこと訊いたんだけどね…結局こたえてくれなかったの』

 言ったらスッキリしたと言い、直子はその話をそこまでにした。

 これでも、結構立ち直りは早いの…そう言う彼女の素振りには少し強がりが見えたが、それにはさやかも加奈子のように、今までどおり自然に振舞う事が何よりだと考えた。

 そして次の一週間。

 何事も無かったかのように、時間は過ぎた。実際、それまでの出来事はごく限られた人物の周りに起きたほんの少しの変化だったが、その僅かな変化さえ、もとからが無かったかのように、薄れていくのをさやかは感じていた。それぞれの混乱は既に再びの安定に落ち着いていた。


『変わりたい?』


 ふと気付いたとき、既に校門は目の前に見えていた。声が聞こえたのは気のせいだった。そう、忘れていないだけ。

 ――変わったよ、たぶん昨日よりは。

 足を止め、心の中で、去って行った友人にそう言い返した。

 ――!?

 と、直後に何かが視界に入ってきた。それは後ろから自身を追い越していく生徒の姿だった。見覚えのある横顔。

 ――そうだった、未だ先送りにしていた事があったんだ。

 さやかはその人物に声を掛けた。

「牧野…さん?」

「杉村さん?」

「あの…おはよう…」

 ふりかえった翔子はすぐには自分を呼び止めたのがさやかだとは気が付かなかったようだった。彼女は少し遅れて、自分の髪を人差し指と中指で挟むようにしてみせ、問いかえした。

「あんたそれ、切ったの?」

「その…どう、かな…なんて…」

 さやかは前日に短く切りそろえたばかりの髪に手を添えて、問い返した。


           *


 クラスの友人の多くはさやかの新しい髪型を『前より良い』と言ってくれた。

「つまり、前はあまりよくなかったってことかな?」

「いや、そうじゃないけどね…」

 そう言って、加奈子は首を振った。

「まあ、三つ編みとか野暮ったいのは確かだね…」

「…それって、ダサいってことじゃない!」

「いや、それはそれで可愛いってこと…可愛さが別」

 おぼこいとかそういうやつ。と笑いながら付け加える。

「もう…」

 さやかは少しむくれる。二人のやり取りを、直子が可笑しそうに見つめていた。

「でも、すごくイメージ変わったね。いいと思うよ」

「ありがとう直子ちゃん」

 いつも通りの昼食時の会話。そう、それがいつも通りになりつつあった。裕美が居なくなって三人での会話。それぞれにほんの少し役割が変わって、次第に当たり前になっていた。

 箸を止め、さやかは少し教室の様子を観察する。

 いつも通り、うるさい後ろ側の男子の声、ぽつぽつ点在する女子グループのおしゃべり、その内の一つに混じっている牧野翔子がこちらを向いていた。丁度目が合うが、彼女はすぐに逸らした。

『あんた、断り無く髪形変えないでよね』

 朝に翔子から言われた台詞だ。

『折角、前の髪型で描きかけてたのに…あたしも描きにくく変えようか?』

 それはデッサンのことだ。言われたときは少し萎縮してしまったさやかだったが、今考えると少し面白いやり取りだった。その後で、彼女は髪型の感想にこう返してきた。

『まあ、この前言ったの…三つ編みが可愛いって、あれ皮肉だったんだけど?』

 さやかはそれに『知ってた』と苦笑いでこたえた。『酷いよ』というと、翔子は少し笑った。その表情は、皮肉を言ったというその時よりはずっと感じがよかった。

 相手が目を逸らした後も、さやかは暫くそちらを見ていた。次の美術の授業が少し楽しみになる。


「まあ、そうだね…良くなったのは良くなったし…あのさ、今日は暇?」

 声に振り返ると、提案するように加奈子が手を挙げていた。

「え? 何?」

「いや、あたし、今日クラブ休みなんだけど…二人、暇だったら、帰りどっか寄ってかない? さやかの断髪記念だし、なんか食べて帰らない?」

「わたしは…良いけど、わたしも丁度今日は休みの日だから」言って直子はさやかを見る。さやかは斜め上を見上げるようにして言う。

「あ、えっと…放課後か…」

「なんかあんの?」

「いや、あの、用事はすぐ済む事なんだけど…じゃあ、今ちょっと済ませてくる」

「なに?」

「すぐ戻るから…」

 さやかはポケットの紙切れを確認すると、手を振って小走りに教室を出て言った。

 廊下を折れ、食堂の方へ続く渡り廊下へ…と、丁度そちらから来た生徒と擦れ違いざまに肩がぶつかった。

 反射的に頭を下げ、ゆっくりと顔を上げながら謝罪する。

「あ、ごめんなさ…甲斐君…」

 そこに居たのは甲斐由斗だった。彼は食堂から教室の方へ戻ってくる途中のようだった。彼は暫くさやかの顔をみて怪訝な表情をしていた。どうやら、髪型が変わった事に朝からずっと気が付かなかったのか、甲斐は一瞬それがさやかだと判らなかったようだった。

 すこしして、彼は確認するように「…杉村…さん?」と訊いた。

「うん…」小さく頷く。


 事件後、さやかが甲斐と話すのは実はこれが二度目だった。

『顔を張ったことに対する謝罪』を口実に、さやかは一週間前彼に話しかけた。しかし、その時は自分が悪かったといって、甲斐は逆に頭を下げた。

 その時さやかは何とも言い返せず、結局そのままになっていた。

 話しかける事で関係が悪くなる事は防いだつもりだったが、もう少し話をしておきたかった。さやかはその時のことをずっと考えていた。

 クラスメイトとして、普通に会話が出来るようになること。目的としてはただそれだけ。でも、それをどういう風にすればいいのかさやかにはわからなかった。

「あの…さ…」

「…?」甲斐は首を傾げた、話しかけられたことに対し、少し意外そうにはしていたものの、相変わらずの無表情は以前より落ち着いているように見えた。それをみて、さやかも少し安心する。

 ――よし…。

 肩がぶつかった事、それに…

 さやかはこれがチャンスだと思った。

「気付かなかったかな…その、この髪型変?」

 甲斐は何時に無く困った表情をしていた。少し言葉を探している様子で、瞳を逸らす。

 少年は結局、視線を逸らしたまま小さく首を振って、

「いいんじゃない?」とだけ応えた。

「ありがとう」

 じゃあ、ああ、そう言って二人は別れた。


            *


 少年と別れて直ぐに小走りになる。渡り廊下から中館を抜け北校舎に入る。廊下を真っ直ぐ、東の端にある教室へ向かう。部屋のプレートを確認し、軽くノック。失礼しますと扉を引きあける。

 部屋の中、二人の人物が同時に振り向いた。

「え、杉村さん?」

「あら、雰囲気変わったね?」

 意外に広いその部屋の中央、丸型のテーブルに着いた昼食中の二人の上級生、秋津史子と篠宮郁子のいるそこはミステリィ研究会の部室である。

 事件以来、さやかはこの二人の上級生とよく連絡を取り合っていた。そうして、二人はここで昼食をとることがあると聞いていたのだ。いつか一緒にと誘われていたが、事件後一度訪れて以来、さやかがここを訪れるのは久しぶりの事だった。

「いらっしゃい、どうしたの?何かいいことあった?」さやかの顔を見て秋津が言った。

「これ、どうですか? 似合います?」

「ええ」

「うん」郁子はクラブの備品なのか、ポットで紅茶を注いでいる。

「こっちに来たら?」秋津は空いている席をさやかに進める。

「あれ? でもお弁当じゃないの?」

「はい、今日は別の用で来ました」

「…それって、もしかして事件の? 何かあった? あれから、どう?」

「いいえ、違うんです。その事なら大丈夫です」

「そうなの…ああ、杉村さんも飲む?」郁子が紅茶を進める。

「えっと、じゃあ…」

 紅茶を注ぎながら郁子が言う。

「でも、大変だったでしょ? クラスメイトの事とか大丈夫?」

「いいえ、先輩たちにも色々協力してもらえましたから…えっと、今日は、その…」カップを受け取り、礼を言う。

「先輩達には、あらためてお礼言わなくちゃって思ってたんです。それと…」と、そこで、さやかは言葉を切った、見上げた秋津の表情が渋いものになっている。

「んーいや、それなんだけど…」

「どうしたんです?」秋津のおかしな様子に、さやかは首を傾げた。

「いや…なんていうか…」

 その様子に、疑問が残ったものの、さやかは自分の用事を思い出し、ポケットから用意していたものを取り出した。

「そう、あの、先輩…これ…」

「なに? え? これ…いいの?」それを見て、秋津は確認するように問い返した。

「はい…勿論…あの、何かダメなんですか?」

「いや、そう言うわけじゃないけど…その」言いかけて、何かに気付いたように秋津はさやかの後ろ、開いたままの戸口を睨むように見つめる。

「あ…」

「ん?」

 背後から声が聞こえた瞬間。秋津は椅子を立って、さやかの肩に手を掛けぐるりと向きを変え、後ろを向かせると、そこにいた人物を指差した。

「あ、副部長…さん?」指差されていたのはさやかの知った人物だった。

「ん? どうしたの?」

 ミス研副部長大場彰は、前にそうしていたように、戸口に片手で寄り掛かり、戸口の隙間から笑顔を差しこむようにしてそこに居た。

「副部長…」ため息混じりに秋津が言った。

「杉村さん、ごめん。実はあの人ね、全部知ってたらしいの」

「え?」

 さやかは一瞬何のことを言っているのか理解できず首をかしげた。

「何を?」

「その…あの事件のこと、その犯人のこと…」

「ええっ?」

 さやかは声をあげて戸口の大場のほうに振り向いた。

「あ、それはね…まあ、仕方ないじゃない…」

 大場は白い歯を見せ、後ろ頭を掻く様なポーズで部屋に入ってきた。

「ど、どういうことですか?」

 さやかは思わず後ろ二人の顔を見比べるように首をめぐらした。秋津は片手を額にあて、目をつぶっている。郁子は苦笑い。

「そのね…僕。実は彼女を、勧誘してたんだよ…」

 大げさに手を広げると、大場は説明し始めた。


 彼は裕美のことを前歴から知っていた。

「まあ、勧誘しないわけには行かない人材だったわけさ」

 しかし、彼女は大場の勧誘には応じなかった。特に応じない理由が無かった事から、勧誘を続けていたところ、彼は少女の計画を知る事になったらしい。

「なんというか、勧誘のために彼女を追ううちに、彼女が何かやろうとしてることを知る機会があってね。あとは教えてもらったという方が正しいけどね。うん、協力といえばまあ、あそこにいたことかな…進路資料室に。でも、僕自身の証言に嘘は言ってないよ。彼女はあそこから出て行ったわけではないしね、だれも通路は通らなかった。これは本当だ。

 鉄パイプのロックとか、別の仕掛けで何とかしたような偽の手がかりをほのめかしたのは僕だけどね…それは専ら後輩へのプレゼントってところだ」

 秋津は顔を顰めた。

「何がプレゼントですか?」

「まあゲームの難易度を上げるというかね…」

「難易度って…」秋津は不満そうに言う。「事件の…被害者が来てるんですよ。真面目に答えてください…どうして教えてくれなかったんですか?」秋津が不満の声を上げた。

「いや、結果的に悪いことばかりじゃなかったろ? 美倉さんのおかげで、夏樹先生のあれやこれやが明らかになったりさ…それに…だって、折角部活にいそしんでる後輩の邪魔をしたくないじゃない?」

「部活?」

 秋津の剣幕を、さらりと受け流すようなとぼけたような口調で、ミステリィ研究会副部長である彼はこう言った。

「謎の探求…がこの部の意義じゃない?」

 秋津は盛大に溜息を吐いた。続けて、申し訳なさそうにさやかの方を向く。

「こんな先輩のいるところよ?」

 その呆れ顔に、笑顔を返し、さやかは首を振った。

 答えは出ていた。

 裕美の起こした事件は、きっかけを与えてくれた。

 ただ、それを助けてくれたのは…一人ではどうしようもなかった。

 さやかは何も言わず持っていた紙切れ―入部届けを差し出す。

 それを見て、郁子が後ろから首を伸ばして言う。

「でも、そこに入ったのよね? 史子ちゃんも…」

「…いいの?」秋津が確認するようにもう一度訊く。

「入りたいと思ったんです」さやかはそう答え大きく頷いた。

「新聞部は掛け持ち出来ますから」

 秋津はその台詞に眉をハの字にして苦笑いし、後ろの郁子を振り返る。

「そうね、確かにわたしもか…」

「ね、言ったとおりだ、来ると思ってたんだよ」大場がうれしそうに言った。その声にもう一度、溜息を着いてから、ゆっくりと秋津は向きを変えた。さやかから用紙を受け取る。

「じゃあ、よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 真っ直ぐとさやかに手を差し出し、秋津はにっこりと微笑んで言った。

「ミステリィ研究会へ、ようこそ」

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コクハクミライログ 瀬田川一葉 @ichihasetagawa

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