スエテナター

 私は先生と同じ、人間の形をして生まれてきた。でも、自分が人間であるかどうかは分からない。言葉も喋れるし文章も紡げるし、手足も使える、食べ物も食べられる。でも、私の体は先生の体とは何かが決定的に違うらしかった。

 小さな一軒家で先生と二人で暮らしている。先生はいつも白衣を着て、書類と原稿と本に囲まれた埃っぽい書斎にいた。週に一度私が掃除をするけれど、床にも本が山積みになっていて、それには触れないように言われているので綺麗にできるのはほんの一部分だけだった。

 書斎机の奥にある大きな窓からは庭が見えた。特に何か育てているわけではないけれど、雑草の刈り取られた小ざっぱりとした庭の隅に、もみじの木一本と紫陽花が一株植えられていた。毎年この時期になるともみじは緑色の葉を茂らせ、紫陽花は青色の花を咲かせた。私はその二つの植物の様子を手帳に記録していくことが好きだった。何年何月何日、今日はこんな天気と気温で、植物の様子はこうだったと簡単に書き記していく。先生はそれを見ながら顎を撫で、「ずいぶん真目に書くんだなぁ」と感心するらしかった。


 *


 何日も続くじめじめした梅雨の空気にうんざりしてきたころ、ふと、右手中指の先に、海蘊もずくのような糸状の汚れがついていることに気がついた。すぐに石鹸で洗ったけれど、何度洗っても取れない。爪の先で引っ掻いてみても消える気配はない。痛いわけでも痒いわけでもない。ただ無感覚の汚れがぴったりと皮膚に貼りついている。今までこんなものはなかったのに、これは一体何なのだろう。不思議に思いながら、しばらく様子を見ることにした。

 そうはいっても新しくできた謎の汚れに私の頭はなかなか順応しなかった。家事の合間も指先の汚れが気になって、じっと観察してみたり爪の先で擦ってみたり手洗いのたびに汚れが薄くなっていないか期待してみたりした。何をやっても糸状の汚れは取れず、指先に残っていた。

 三日間悩んだ挙げ句悩み疲れた私は、先生に相談してみることにした。一人で考えていても埒が明かない。

 重厚なドアをノックして「どうぞ」という軽やかな先生の返事を聞き、失礼しますとお辞儀をしながら埃っぽい書斎に入る。

 先生は書斎机に肘をつき、オフィスチェアの柔らかな背もたれと座面に体を沈め、上品そうな分厚い本を読んでいた。私を見ると顔を上げ、「やぁ、どうしたんだい」と言って栞もなしに本を閉じた。そんな閉じ方をしたら読書を再開するときにどこから読み始めたらいいのか分からくなって困るのではないかな、とふと思った。

 右手を出して指先の汚れを見せ、三、四日前からこの汚れに悩んでいるのです、これは何なのでしょうか、と訊ねる。

「どれどれ」

 そう言いながら先生は私の指先を見た。

「ああ、確かに何かできているね。何だ、これは」

 先生は私がここ三日間繰り返していたように、爪の先で軽く汚れを引っ掻いた。汚れはくっきりと皮膚に残ったままだった。

「これはもしかしたら……」

 先生は思案顔で細い顎を撫でた。

「ちょっと待って。ドクターにも意見を聞くから写真だけ撮らせてくれ」

 先生は散らかった書斎机からスマホを取って、私の指先にかざした。ぱしゃりぱしゃりとシャッター音がする。

「これでよし」

 先生は角度を変えながら何枚か写真を撮ると、スマホを白衣のポケットに仕舞った。

「その汚れが何なのか、分かったらすぐに教えるから、少し待っててね」

 先生はにこりと笑ってそう言った。


 *


 次の日、先生が懇意にしている恰幅のいい年配ドクターが訪ねてきた。帽子を取りながら「やぁ、こんにちは。先生はいらっしゃいますかな」と明るい笑顔を浮かべて挨拶をする。白いワイシャツにイエローオーカーのループタイをつけ、艶やかな白髪はくはつを七三分けにした気品ある人だった。梅雨の中休みで空は青々と晴れ上がり、蒸し暑い日だった。ドクターは白いハンカチで顔の汗を拭いていた。私が案内するまでもなく、玄関の物音を聞きつけた先生が書斎から飛んできて、自らドクターを客室へ案内した。

 すぐにもてなしのお茶を入れて客室に運ぶと、先生から「ドクターと大事なお話をするから下がっているように」と命じられた。そう命じられたときには客室に近づいてはならないし、会話を聞いてもいけない。昔、先生にきつく躾けられたことだった。客室は玄関脇から伸びている左手側の廊下の先にあるので、その廊下にさえ入らなければ会話が聞こえることはない。私はお辞儀をして退室した。

 お客様がいらしていても、やるべきことはたくさんある。客室へは近づかないよう気をつけながら、台所の片付けをしたり、宅配便の荷物の受け取りをしたり、居間の埃取りや不用品の選別をした。

 ドクターがいらしてから二時間ほど経ったころ、先生がひょっこりと居間へ顔を出し、私に手招きをした。ドクターとの話は終わったのだろうか。誰も盗み聞きする人なんていないはずなのに、先生は私に身を寄せ、小声で耳打ちした。

「悪いんだけど、庭の紫陽花を三つほど取ってきてくれないかな。ドクターがあんまり花を褒めてくださるものだから、持って帰っていただこうと思って。君が綺麗だと思うものを取ってきてくれればいい。お願いできるかな」

 私はうなずいて押し入れから古新聞を出した。いつ何がどう必要になるか分からない。細々したものをきちんと整理しておいてよかった。そう思いながら玄関へ行き、道具棚から剪定鋏を取って庭に回った。毎日観察している紫陽花の花を切ってしまうのはもったいないような気もするけれど、株についていようが切花になろうがゆくゆくは枯れてしまうのだから、庭の隅で咲いているよりは、誰かに愛でてもらう方がいいのかもしれない。

 私の顎のあたりまで背高く育った大きな株だった。早くに亡くなった先生のご両親が三十年ほど前に植えたというのだから、結構な年代物だ。何十年経っても元気に花を咲かせ、今、私の目の前でも三十とも四十ともつかない夥しい数の花を咲かせている。私は一際大きな花に目をつけ、茎に鋏を入れながら、ふと不思議な気持ちになった。

 鋏を動かしてしまったら、もうこの茎は元には戻らない。私達は普段、区切りようのない連続した時間の中で生きているけれど、この花を切ることで、今まで積み重ねてきた膨大な過去と、これからを生きる未来の継ぎ目までばちんと切ってしまい、大切なものまで失うのではないか。そんな気がした。

 それでも私は自分に与えられた仕事をこなさなければならない。太くしなやかな茎を二つの刃で挟んでいき、力を込めて、ぱちん、と切り離す。私の手元に、支えを失った花がはらりと倒れてきた。

 あと二つ。ドクターならきっと大切にしてくださるだろうから、大振りで色づきのいいものをお渡ししたい。ちょうどてっぺんから顔を出している二つの花が、特別元気できらきらと輝いているので、それを選んで切り落とした。茎についている葉は、花脇の二枚を残して取り除いた。

 美しい花が三つ、私の腕に抱えられた。静物画のモデルのように湿気を帯びた色彩を放っている。よく見ると花びら――本当はがくらしいのだけれど、小さな萼片がくへんは、青から紫へグラデーションに染まっていた。それがたくさん集まって、私の目には青く見えていたのだ。

 私は玄関へ戻り、上り框の先に置いていた古新聞で紫陽花を包んだ。赤ん坊のように包まれた花々は、緊張した面持ちで新たな持ち主を待っているようだった。

 私はその場で先生を呼んだ。まだ「下がっているように」の命令が解除されていないので、客室への廊下へは立ち入れない。

 客室のドアが開き、先生が顔を出した。

「取ってきてくれてありがとう。悪いね」

 そう言いながら、先生はドクターと一緒にこちらへ来た。私の抱えている花束を見るとドクターは目を輝かせた。

「やぁ、本当に綺麗な花ですね。私なんぞがいただいてしまってもいいのかな」

 私が花を差し出すと、ドクターはそっと腕に乗せて受け取った。

「ありがとう。大事に飾らせていただきますよ」

 ドクターはにこにこしながら先生の方へ振り向いた。

「それにしてもあなたも立派になりました。昔はこんなに小さかったのに」

 ドクターは腰の辺りで右手を地面と水平に広げ、いかに先生が小さい人であったかを示した。先生は笑った。

「よして下さいよ。大昔の話です」

 ドクターと先生はしばしばこうした話をする。私は黙って二人のやり取りを聞いていた。

 先生があんなに小さかったなんて信じられない。私が先生の存在に気がついたとき、先生はもう、大人というものになっていたから。


 *


 その日の夜、ベッドに腰掛けて指先の汚れをじっと見ていた。

 先生の幼少期の話は少しだけ聞かせてもらっていた。ご両親の写真も見せてもらった。先生が子供だったころ、家族三人で撮った写真で、先生は別人のように小さかった。『写真の中の先生はなぜこんなに小さいのですか』と訊ねると、先生は教えてくれた。

「毎日この家の前をランドセルを背負った子供達が通っていくだろう? 僕も昔はああだったんだよ。あの子達も時間と共に背が伸びて、やがて大人になっていくんだ」

 先生は二十年近い時間をかけて今の背丈になったというのだ。『私もそういう風にして育ったのですか』と訊きたかったのだけれど、ぐっと呑み込んだ。私が先生と同じプロセスで成長したとはとても思えない。自分の体が小さかったという記憶もないし、二十年も生きてない。植物日記もようやく三年目に入ろうとしているところだ。私には最初から大人の姿の記憶しかない。なぜ人間の形に生まれながら人間と同じ成長過程を辿らないのか、私には分からなかった。

『先生にも、こんな汚れがつくことがあるのですか』

 指先の汚れを見つけたとき、私は先生に訊いてみたかった。でも、先生は答えるだろう。

「いいや、僕にはこんな汚れはつかないんだよ」

 と。

 この汚れは一体何なのだろう。

 先生はこの汚れをどうするつもりなのだろう。

 今日、先生とドクターは何の話をしたのだろう。この汚れの話だったのだろうか。

 色んな疑問が夜中の闇の中でぐるぐると回った。


 *


 ばたばたと騒がしい大雨が毎日のように庭の植物や家の屋根を打った。テレビでは大雨による浸水被害のニュースが流れていた。

 雨に濡れる植物の様子を日記に記録する。艶々と茂るもみじとは反対に、紫陽花は青い花の中にちらほら枯れかけの花が見られた。

 今年も花の終わる季節が来たんだなと思いながら日記を閉じ、自室を出て台所仕事に入った。

 もみじは秋になるまで涼しげに葉を揺らしてくれているけれど、紫陽花は一瞬の煌めきを終え、眠るように花を枯らしていく。しかも自力で花を落とさないから、剪定してやらないといつまでも枯れた花をぶら下げている。天気を見ながら枯れた花を切ってあげないとな、そう思いながら出窓の棚で乾かしていた皿を食器棚に片付けていると、先生がふらふらと入ってきた。あの話し合い以降、先生はドクターと頻繁に連絡を取り合っているらしく、少し疲れが見えた。

「ごめん、水を一杯もらうよ。――ああ、自分でやるから大丈夫」

 先生は食器棚から透明なグラスを出し、蛇口から水を注いで一気に呷った。グラスを取ることも水を注ぐことも普段なら私の仕事だけれど、先生は時折私を使わずに所用を済ませる。先生の身の周りのお世話をすることが私の仕事とはいえ、手を出しすぎるのはよくないらしい。時と場合によって求められることとそうでないことが違って、匙加減が難しい。

 先生は水を呷るとシンクに手をついて項垂れ、大きな溜め息をついた。これは、悩みや苛立ちを感じたときの所作だ。

 先生は首だけ動かして横目で私を捉えると、もう一度溜め息をついて言った。

「君の指先についたあの汚れ、正体が分かったよ。あれは錆だ」

 錆――それは、腐食した金属の上に現れるもの。ということは、私の体は腐食しているということだろうか。でも、生き物の皮膚に錆が出るなんて聞いたことがない。本当の意味での錆ではなく、比喩か何かの錆だろうか。どういうことなのか分からない。

「ドクターとも相談して、君の体がどうなっているのか詳しく検査しようと思っている。君には検査の間、眠ってもらうことになると思う。けど…………」

 先生はさらに何か言いたげに口を動かしたけれど、私にかけるべき適切な言葉が思い浮かばないらしく、何も言わなかった。先生の様子から察するに、私の体には重大なことが起こってるようだった。先生を疲労させるほどの、何か嫌なことが。

「なぜ君の指に錆が出たのかは調べてみないと分からない。もしかしたら、あまりよくないことが起こっているのかもしれない。でも――」

 先生はシンクから手を離し、私の方へ体を向けた。

「どんなことが起こったとしても、僕は君を守る。大事な家族だからね」


 *


 梅雨の晴れ間、空は塵を落としてくっきりと澄み渡っていた。庭仕事をする絶好の機会だ。鍔つきの帽子を被り、大きなゴミ袋と剪定鋏を持って手袋をはめ、紫陽花の手入れをする。

 青かった花は茶色に枯れ、僅かに項垂れていた。生育のいい株で放っておくとすぐに大きくなってしまうから、花だけでなく、根本から枝を切り落とす。ぱちんぱちんと鋏の弾ける音がする。練り上げられた濃密な白い雲まで一緒に切れていくようだった。

 先生は検査の準備で忙しいらしかった。私は検査の間寝ているだけでいいから今は何もすることがない。

 無心で鋏を動かしているうちに強い日差しで体が暑くなってきた。帽子の下から流れてくる大粒の汗を拭いながら枯れた花を切り離していく。

 そういえば、初めて先生を見たとき、先生は微笑んでいたな、と、ふと古いことを思い出した。それは、頭の最下層に眠っていた記憶だった。

 三年前、初めて目が覚めたとき、私はここがどこで自分が誰なのか分からなかった。目にかかっていた靄がだんだんと晴れ、部屋の中のものが輪郭を現す。目を動かして周囲を窺うと、ベッドの傍らに立っていた先生が視界の端に映った。面長の頬を緩ませてにこりと笑い、少し腰を屈めて私を見つめる。目が合った瞬間、どきりと心臓が跳ねた。

「やぁ、初めまして。僕のことが分かるかい?」

 先生の口から私の耳へ、柔らかな声が届いた。呼応するようにそっと手を伸ばすと、先生はその手を握ってくれた。

 その日から、私は先生の家族になった。たった一人の家族に。

 それが、植物日記をつけ始める数ヶ月前のことだった。それ以前の記憶はない。

 私はこれからどうなっていくのだろう。あまりよくないことが起こっているかもしれないと先生は言っていたけれど。

 物思いが途切れると途端に蒸し暑さが蘇り、一度作業を止めて帽子と手袋を外した。汗ばんだ掌を見る。やっぱり指先の錆は消えない。いつの間にかゴミ袋は枯れた花でいっぱいだった。まだ株には切り離していない花も残っている。指先の錆と同じ、茶色に枯れた花――。

 私は急に底知れぬ愛しさに襲われ、素手のまま鋏を持って茶色の花を切り落とし、両手でふわりと抱き締めた。

 先生のそばにいられる時間はそう長くはないのかもしれない。そう気づいたのは、このときだった。

 庭の片付けもそこそこに枯れた花を持って先生のもとへ走っていく。先生は忙しいのだから邪魔をしてはいけない。そんなことは分かっている。庭仕事を済ませるのが先だ。それも分かっている。家の中を走ってはいけない。重々承知だ。でも、体が勝手に動いた。同じ敷地内にいるのだから会おうと思えばいつでも自由に会えるのに、無性に先生の笑顔が見たくて書斎へ駆けた。ノックもせずに乱暴にドアを開き、驚いて突っ立つ先生の気持ちも考えずに、喘ぎ喘ぎ言葉を紡ぐ。

 私は先生のもとに生まれ落ちて幸せだった。こんなに敬愛を抱ける人はいなかった。家族になれてよかった。これからもずっとあなたを支えていきます。命ある限り、私は永遠に先生の味方です。

 そんな脈絡のないことを、先生の目の前で弾丸を吐くように言ったのだった。目が熱くてたまらない。

 先生は目を見開いて私を見ていたが、やがて、慈悲深い目をして微笑み、うなずいた。

「僕も嬉しかった。君がこの家に来た日、幸せでいっぱいだった。君は何にでも一生懸命で聡明で優しくて、心密かに尊敬していた。見るもの全てに目を輝かせる柔らかな感性も好きだった。僕のところに来てくれてありがとう。君を守ることが僕の使命だ。――それにしても」

 先生はすくりと笑った。

「泣かなくたっていいじゃないか。どうしたんだ、突然」

 先生は右手の親指で私の目を拭った。目が熱かったのは涙のせいだった。私も涙を拭って照れ笑いをした。こんな風に泣き笑いをしたのは初めてだった。思わず持ってきてしまった茶色の紫陽花も何となく笑っているように見えた。

「準備ができ次第、検査に入るから。そのつもりでいてね」

 私はうなずいた。

 この検査が何をもたらすのかは分からない。でもきっと、全ては成るようにしかならないのだ。

 雨粒として降り注いだ水が川の下流に流れ、やがて、海へ辿り着くように。


 *


 ドクターの立ち会いのもと、検査は五日間かけて行われた。その間、私は眠っていて何も記憶がない。それでも時間感覚はおぼろげに残っていたようで、目を覚ましたとき、ずいぶん久しぶりに先生を見たような気がした。

 検査の結果、すぐにどうこうなるような重篤な状態ではないものの、体内のあちこちに錆が見られ、今後注視していく必要があるとのことだった。指先の錆は拭われて、汚れのない綺麗な皮膚に戻っていた。

「そういえば、あなたに選んでいただいたあの紫陽花、ずいぶん長く私の目を楽しませてくれました。本当に綺麗だった。どうもありがとう。図々しい物言いですが、できれば来年もあなたの選んでくださった花を楽しみたい。どうか元気でいてください」

 検査結果の報告の後、ドクターはそう言ってくれた。重篤な状態ではないというけれど、体の中にまで錆が出ているということは、あまりいい状態でもないのだろう。来年まで意識を保っていられるかどうかは分からないが、ドクターは私を励ますつもりで来年の話をしたのかもしれない。


 *


 検査で眠っている間、当然植物日記は書けなかった。記録の途切れてしまった手帳をぱらぱらと捲っていると、先生がスマホを差し出してくれた。私が眠っている間、庭の様子を写真に撮っておいてくれたのだ。

「代筆することも考えたんだけど、勝手に書くわけにもいかないし、君も自分の手で記録をつけたいだろうから、写真と天気だけ資料を残しておいたんだ。こんなことしかできなくてごめんね」

 私は嬉しさのあまり、文字通りぴょんぴょん飛び跳ねた。すぐに手帳を広げ、記録をつけていく。先生はにこにこしながらそれを見ていた。

 先生がコーヒーを啜る。香ばしい香りが私の鼻をくすぐる。

 梅雨も終盤。本格的な夏がもうすぐやってくる。

 その日、私は蝉の鳴き声を聞いた。一年ぶりの夏の音だった。


(終)

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