第3話

ゲームには、もう一つ大切なルールがある。それは、やってみただけ、ということだ。ゲームの中では、全部やってみただけになる。そのことに、それ以上、踏み込んではいけない。そのルールを守れるときに、擬音を使って再現するゲームをはじめる約束だった。

「無理にでも笑わなくちゃいけないときとか」

 でもいつか、

「無理にでも泣いてやらないと自分がだめになってしまうときが来たら」

 そんなこととは関係なくこの遊びがやれたら、

「この遊びをしましょう」

 それも楽しいですね。

「そうしたら、今まで誰もやったことのないやつを探そうよ。わたし達だけの笑い方を見つけるんだ。泣き方もそうだよ。嬉しいときの泣き方に擬音をあてて、そうしたら言葉が出せなくても伝わる。でしょ?」

 確か、それも二年前だ。去年も曇りだった。今年も曇りだった。地上に向かって雨が降っていない曇りのとき、雨粒は空へ向かって降っている。その向きが入れ替わると地上に降ってくる。七夕の日は、曇りだといけない。晴れてないといけない。宇宙のカササギはとてもとても雨に弱いのだ。万が一にでも翼を濡らすわけにはいかないのだ。織り姫と彦星の付き人であるカササギもまた、一年に一度しか会えない。会えないのか。

「貴方はうっかり、彦星のことを好きになったりしませんか」

 まだ向こうがわたしより小さい背丈だったころ、裾を引っ張られながら言われたのを思い出した。

 自分は心底面倒なことを言い出している、分かっています、といった顔をしていて、わたしはとても驚いた。そういう顔もするのかと思った。いや、きっとわたし達が離れている間に、わたしの知らない顔を沢山しているんだろう。

「どうだろうね」向こうだって同じはずだ。わたしの方からだって、うっかり織り姫のことを好きにならない?と聞くこともできるはずなのに、まさかそんなことを聞かれるとは思っていないのだろう。ずるいやつだ。自分だけが、一方的に想っていて、想われていないと考えている。

 少し意地悪がしたくなった。そのことが伝わるように、わたしは突き放すような言葉に反して、やさしく、覗き込むように言った。

「彦星と」僅かな沈黙を挟んで、向こうが言い出した。うっと消える煙みたいな細い声だった。

「織り姫の仲は堅いですよ。いつも、彦星の話を聞かされています。だから、彦星を好きになっても、不利です」

 あまりに情けない作戦過ぎて、わたしは笑ってしまった。きっと織り姫の話す彦星の話を聞いて、自分との違いが嫌になってしまったのだと思った。わたしが笑ったのを見て、向こうは少し驚いているようだった。わたしもわたしで、肝心なところが抜けているから、そこで撫でるなり抱きしめるなりすれば良かったのに「冗談だよ」と言って触れられなかった。もう触ったら崩れてしまいそうだった。あの頃からしてみれば、ずいぶんとお互い変わったものだ。今ではわたしが愚痴を言って、向こうになだめて貰っている。

「本気で飛んだら、どのくらい遠くまで逃げられると思う?」

 昔のことを思い出すのはやめにして、泣き止んでから聞いてみた。すると向こうは「どこまでだって」と答えた。どこまでだっていけるのか。いけるだろうな。いけるだろうなって思った。

 でも、わたしも向こうも、逃げようとは言い出さない。わたしと向こうがいなくなったら、織り姫と彦星は足を失ってしまう。一年に一度も、会えなくなってしまう。もし立場が逆だったら?当然、逃げ出せるはずもなかった。会いに行こうと思えば、今すぐにだって飛んで会いに行ける。アルタイルとベガのちょうど中間くらいにある停留所で落ち合うことができるはずだ。

「もう一回やろうよ。ゲーム。今度は笑うから」

「笑い声が聞こえるからって、泣いていないかどうかは分かりませんよ」へかへか笑う声が聞こえる。あのへかへか笑いは、いつもちょっとだけ寂しそうな匂いがした。それがちたちたした。胸の奥を突くのだった。

「今度はこっちからいきますよ」

「はい」わたしは地べたに座り込んで、ぺたりと両足を伸ばした。壁に寄りかかって、翼が潰れないように気をつけながら、行儀良く太ももに両手を置く。受話器を耳と肩で押さえて、少しめり込んでくるのが痛かったけどそれで良かった。

 口をほとんど、閉じて、ちょうどあの窓みたいに、唇をほんの少し浮かせて、みじん切りにした空気を吐き出すような笑い方。いま、そんな笑い方はやめてほしい。しょうがないな、って直前に言っていそうな笑い方をするのはやめてほしかった。

「わかんない

「わかんないよ、モクメ」

「いまのは、ゆたゆたです」

「ゆたゆた?」

「そうです。ゆたゆた。電話が鳴ったり、電話を終えた後とか、郵便受けの中を覗いたときに、ゆたゆた笑います。ねえ、ネンリ。ぼくはこんな風にも笑いますよ」

 そのときどんな顔をしているのだろう。

 そのとき両の手は、どこにあるのだろう。口元を隠すようにしているのだろうか。だらりと腰の隣で垂れているのだろうか。昔は尻尾があったあたりで、緩く結ばれているのだろうか。

 これは遊びだから。という形をした息を吸い込む。そうすると、やってみただけだよ、という形の息と一緒に、優しく笑ってみせることができた。悩みはちっとも良くならないし、明日は平気でやってくるけど、ちょっとやってみただけ、笑ってみただけ、泣いてみただけ、だから、それで少しだけ、落ち着ける気がした。

「ネンリもゆたゆた笑ってみて」

 そうか。

 泣いているのはモクメも同じか。

 だから私は、せめて私は、ゆたゆた笑ってみた。左手で受話器を持って、絶対に見えるわけがないけれど、せめてモクメのいる方角へ笑ってみせた。

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やってみただけ 雛野かなえ @hinanokanae

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