第2話

からから、ふさふさ、ぬたぬた、みまみま、ぽかぽか、ぷへぷへ、どたどた、うなうな、るたるた、五周くらいしたところで、すっかり電話をはじめて一時間ほど経っていたこと気がついた。途中で耐えかねて冷房を入れたけど、なんだか窓を閉める気にはならなくて、もったいないと分かっていながらも、ほんの少しだけ隙間風の通行人を許した。雲は相変わらずゆっくり漂っていた。

「少し休憩しますか」

 言い出したのは向こうからだった。ちょうどわたしもへとへとし出していたのでちょうど良かった。向こうからまたのむ音が聞こえてきたので、わたしも一緒にのむことにした。

「最近は、どうですか」

「悪くないよ」一息ついて、向こうが言った。

 わたしは答えながら、左手に持っていた受話器を右手へ持ち替えた。話しながら持ち替えたから、きっと向こうにはそのこともばれているはずだ。

「君は?」

「同じですね。まずまずって感じです」

「まずまずのまずってなんのまずなんだろうね。まずって言ったらまずいのまずしかなくない?」

「最初最初のまずかもしれませんよ。序盤の滑り出しみたく良くも悪くもないって意味かも」

「調べてみよっか」

「曖昧で済ませておくのもありです」

「たしかに。あえて曖昧に済ませておこう」

 まずまずのまずがなんのまずなのかは分からないままにしておく。いつの日か、今?みたいなところで知ることになるだろう。そしたらまた教える電話をかければいい。

 とはいえ、そろそろ誤魔化しが利かなくなってきた頃だ。何かを誤魔化そうと思うと、わたしはたぶん、液体を口にしたがる。そのことはきっとばれているから、電話をしているときに飲み物をのむのが気乗りしなかったんだ。向こうから何か聞いてくることはない。今になって誤魔化しを後ろめたいと思う関係性でもない。でも、のみこみたいことはいつも粘土が高い。ゆっくり下っていく。それを飲み下すために、何か液体へ手を伸ばしてしまう。

「あのさ」と、口にするとき、それはいつも二度目のあのさ、のような気がする。一度目は、どこか聞こえないところで鳴っている。

「どうしました」

「雲、晴れないね」

 向こうが窓辺にいるのかは分からない。どのくらいの広さの部屋にいるのかも知れなかったから、鉄道の走る音が聞こえても、窓のそばにいるのか分からなかった。でも向こうはきっと、そう言えば窓の近くまで行ってくれるだろう。そういう部分で甘えていることに、いま気がついた。

「晴れませんね」

 銀河鉄道は停まらない。アルタイルとベガには停まらない。そのすぐ傍に線路は走っているけれど、いつだって停まらずに走り去っていく。だからカササギに頼むしかない。それなのに曇り。一年に、一度しか会えないというのに。

「晴れないまま夜が明けるのかな」

 わたしはそれが恨めしくて、線路沿いの部屋に住むことはしなかった。向こうは逆で、いつでも鉄道の灯りが見えるように、線路沿いに住んでいるらしかった。停まらないのに。停まらないのに。

「明けるかも知れませんね。そうしたら、部屋の壁に橙色の灯りが明滅を繰り返すこともなくなります」

「君の部屋では灯りがちかちかしているの?」

「ふわんふわんって感じですよ。通っていく鉄道の灯りが、ゆっくりと壁を照らして、ゆっくりと消えていくのを繰り返します」

 そのとききっと、窓掛けも揺れているんだろう。

「そっか。そうなんだね」

「はい。そうです」

 そっかも、そうなんだねも、同じ意味しかないはずなのに、繰り返されると、二つは同じことを意味しなくなる。何が変わるのか、言えないけれど、変わる。双子だとしても、趣味が全然変わってくるみたいに、まるで別人みたいに──実際に双子は別人だけど──違う意味になっていく。

 いまのこと、言えばきっと笑ってくれるだろう。言えば良かったなと思いながら、口では別のことを話し始めていた。

「君が送ってくれたカードはさ」はい。と答える声がする。向こうの言う、はい、には色々な種類がある。たった二音なのに。

「見ればすぐに分かるんだよ」

「端っこが折れてないから、ですか?」

「うん。君は本当に見えているみたいだね」

「そのくらいのことは分かるつもりです」

 少し失礼な話ではあった。でもわたしの保管がずさんなことも事実だ。少し失礼なところまで知られているのだった。

「端っこ、折ってくれても良いですよ」

「どうして?」

「同じ見た目になるじゃないですか」

「そっか」でも折るのは無理だ。

 天気が悪くてぐずぐずするだなんて、まるで子供みたいだ。だけど仕方ないだろう。仕方ない。

私は机の上にある、角が折れていない方のカードを撫でた。そこに書いてあったことを心の中で朗読した。流石に、心の中までは読めないはずだ。たまに覗かれているんじゃないかと思う瞬間があるけれど、いまはきっと無理だ。すごく遠い距離、離れているのだから、分かるはずがない。

「あの」

 向こうの声が聞こえる。合わせるみたく鉄道

の走る音が聞こえる。本当に意地悪な列車だと思う。それが八つ当たりであることも知っていた。

「もしかして、泣いていますか?」

 そうだ。たとえカードの中身だけを見ても、向こうが送ってきてくれたものはすぐに分かる。角を確認しなくても、わかる。

「うん。泣いてるよ」

 笑うことの擬音だけ書かれているから、わかる。向こうが寄越してたカードの中に、泣くことの擬音が書いてあるものは一枚もなかった──。

「やってみただけ」少しおどけてみよう。

「さて、問だいです。これはどんな泣きかたでしょうか。本当はないてないけど、せい解できたら、雨でもあいに行くから」

 列車が走り去っていった。また、向こうの小さな吐息だけが聞こえてくるようになる。背の低い草の鳴く声に似ている。凪が来たら縮こまって、それから声になっていく。

「やってみただけ、ですか?」

「うん。やってみただけ」──いや嘘だ。

 一枚だけ混じっていた。

「それなら、安心ですね」

「うん」

 だけれど、向こうは正解を口にしなかった。安易にそういうことはしなかった。だから曇りなんだと思った。こうして困らせるからいけない。わたしは二年前に見た向こうの大きな翼を思い出していた。小柄なのに、下手すればその身体よりもずっと大きく見える、向こうの翼だ。七夕が曇りで、困るのは織り姫と彦星だけじゃない。二人を運ぶカササギのわたしたちだって、会えなくて困っているのだ。

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