やってみただけ

雛野かなえ

第1話

#やってみただけ


「あー、あー。きこえてますか」

 声がする。一度目のあー、よりも、二度目のあーのほうが少し抜けていた。わたしは「聞こえてますよ」と答えて、右手から左手へ受話器を持ち替える。

「ちょっと遅刻気味?」そうだったけ、と思って壁掛けの時計を見た。むしろ普段より早いくらいだ。

「そんなことないですよ」そっか、と笑い声が聞こえる。

 わたしは机の上に置いてあったコップを取って。お茶を一口分のみこんだ。あんまり多いと、何か飲んでいるのがばれる。別に悪くないけど、なんとなく、ああ、いま何か飲んでるんだなあと思われるのが気恥ずかしかった。

「飲み物用意するの忘れました。取ってきます」

 いや、わたしの健闘むなしくどうやら聞こえていたらしい。一息しかのんでいないはずなのに、どうして分かるんだ。いつもそうだ。まるで隣で見ているみたいな反応をされる。耳が良いのだ。

 しばらくして戻ってきた。そういう、電話の相手が席を外している間、どこに視線を置いておこうか迷う。今日は窓の外を見ていた。月もないし、星もない。少し曇っていて、よくある夜空。

「何を持ってきたの?」

「今日はぶどうです」

「いいね、わたしものみたい」

「一口上げられたら良いんですけどね」

 よくあるんじゃ困るんだけどな、と思いながら、わたしは帰ってきた声に耳を傾けた。ぶどうと言われて、ほんの少し味が口の中に広がる。あの声で発せられた名前をきくと、それに触れている感じが僅かに広がるので不思議だ。

「貴方は?」

「わたしはお茶。緑茶」

「赤茶と黄茶も欲しいところですね」

「君はすぐ信号を作りたがるな」

「信号は青ですよ」

「この前は緑だって言ってた。裏切り者め」

「熱心緑に会うのは初めてです」

 向こうでものみこむ音が聞こえた。わたしも一つ飲み込む。少し蒸し暑かった。でもなぜだか、冷房を入れたり扇風機をつけたりする気にはならなかった。もう少し、もう少しだけ。壁により掛かって、窓の外が見える位置に陣取る。

「準備はいいですか?」

「いいよ」わたしはもう一度、机に視線を下げた。そこには何枚かのカードが置かれている。画用紙で手作り感漂う、ホームパーティーっぽいカードだ。端っこの方が折れているものもある。わたしが不器用に保管していたせいだ。

「先攻と後攻、どうやって決めましょうか」

 せんこうとこうこう。線香と煌々。話に集中していないわけではないんだけど、なぜだか頭の中で正しくない漢字に変換する遊びをはじめてしまうことがある。その話はあとでしようと思って、わたしは「エアじゃんけんでもする?」と返した。「デモンストレーションで一回やってみましょうよ。勝ったほうが先攻です」

「そうしよう。じゃあ、デモンストレーションの先攻後攻はどうする?」

「それを決めるデモンストレーションが必要ですね。どっちが先攻になりますか?」

「それもデモンストレーションで決める必要があるかも」

「デモンストレーションってこんなに言うこと、たぶんネイティブだってありませんよ」

「悪魔が実演してくれるのは?」

 声が一瞬途切れる。小さく息を吐くのが聞こえた。ため息だったのか、別の何かだったのか、ため息だったにしてもどんな色をしていたのかはわからない。でも絶対乗っかってくるのは確かだ。

「デーモンストレーションですね。酔っ払ってますか?」

「酔っ払ってません」割とはっきりとした口調で返しておいた。肩慣らしは十分だろう。「わたしから始めるね」わたしは机の上に置いてあるカードを一枚ひっくり返す。そこには──「もう一回お願いして良いですか?」──と、いうので、わたしはもう一度繰り返すことにした。

 喉の奥、そこにある小さなお皿に「は」の字と空気をいくらかおいて、さきの丸い木製の棒でゆっくり潰す。それを出す。そんな風にして笑う。

「へたへたって感じがします」

「へたへたか」

「違いますか」

「カードには違うことが書いてあるね」

 うーん、とうなる声が聞こえる。そう。わたしたちが始めたのは、擬音当てゲームだ。カードには「からから笑う」だとか「ふなふな泣く」だとか、聞いたこともないような擬音と一緒に、笑う、泣く、のような動詞がついている。それを思うように再現してみて、カードの擬音を当てられたら勝ち、という遊び。向こうが考えて、わたしがカードを作った。もうずっと前にカードを交換して、最初はわたしの作ったものだけだったけど、向こうが作ってくれたものもある。同じ画用紙でできていたけれど、見分けるのは簡単だった。

 ゲームをするのは三度目か四度目で、同じカードを引くこともあったけれど、毎回微妙に表現が違うので、全然飽きることもなかった。

「ふさふさ」

「惜しいかも」

「ふまふま」

「あとでやりたい」

「ふぬふぬ」

「ふ攻めがすごいね」

「外れてますか?」

「いや。あってる」勘が鋭い。

 最初の方は少し照れくさくて難しかったけれど、だんだんと慣れていくうちに面白くなってきた。正直言って、この遊びでしか見ない表現も多いけれど、こんな風に笑ったり、泣いたりするとしたら、どんな感じだろうと想像するのは良かった。「ふはふは!」かなり自信満々な勢いだった。

「正解!」私も負けないくらいの調子で言った。

 わたしは割と結構簡単に折れるけど、あっちが自分から「正解を教えてください」と言ったことはなかった。正解するまでこの世に存在する擬音を言い続けるし、それが尽きたらあの世でしか使われていない擬音を片っ端から当たり始めるだろう。負けず嫌いで引かない性格なのだ。

 だから勝った方が先攻、というルールではじめて、わたしからデモンストレーションをはじめたら、十中八九、向こうが本番の先攻になる。すると結局、わたしからはじめて、向こうが後手に回ったのと同じになるので、収まりが良いのだ。

「よし。今度はこっちからいきますよ」

「はい。いいよ」

 流石にカードをめくる音までは聞こえない。代わりに鉄道の走る音が聞こえる。一度だけ聞いたことがあった。線路沿いの小さな部屋に住んでいるということを。だからそれに紛れ込まないように、わたしは精一杯、耳を鋭く立てた。

 舌の上に丸くて柔らかい「ふ」の字と「へ」の字の隙間を置いて、その付け根から小さく風を吹かせる。ほんの少し犬のへへへっぽい感じのする笑い方で、わたしはすぐさま「へはへは」と答えた。「惜しい。近いですよ」と向こうが言う。

 最初の方は当てられそうになると「やり直して良いですか?」とだいぶずるめな避け方をしようとしていたのに、今では割と素直に「近いですよ」とか「惜しいですね」とか言うようになった。「ふはふは」

「遠ざかりました」

「うそ。どう遠ざかったの?」

「そこまでは言えません」

「だよねー。ほはほは?」

「ほはほははいつも聞いてるやつです」

「わたしっていつも、ほはほは笑ってるの?」

「そう聞こえてます」

 ほはほは笑っている自覚がなかったのでびっくりだ。向こうはいつも、どんな風に笑っていたっけ。笑い方って思い出せない。でも聞けばすぐに分かる。そうだ。こういう風に笑うんだった、って思える。

「君はいつもへかへかって感じかな」

「へかへかですか?」

「うん。へかへか。でも聞いたら変わるかも。笑ってみてよ」

「自然な笑い方って再現できませんよ。何か笑わせてみてください」

「わたし秘伝の一発ギャグを披露するときが来たようだね」

「絶対やめたほうがいい前振りですよ」

「ほら」へかへか笑ってる。

 へかへかであっていたようだった。少なくともわたしの中ではへかへかに聞こえる笑い方だ。そして向こうがいう──やっぱり、ほはほはって感じですね。

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