陽が天頂から傾き始めた頃。

 真昼時を少し過ぎた辺りであろう。

 

 外は少し早い夕立になっていた。全てを洗い流さん勢いで、雨水が開けていた窓を打ち付けた。

 

 少年は慌てて窓を閉めたが、時は既に遅く、虚しくも窓際の床はびしょ濡れになっていた。部屋は静かで、窓越しに聞こえる雨粒の跳ねる音と腹の底から轟くような雷の音のみが聞こえる。少年はぺたり、と其の場に座り込んだ。

 

 ――雑巾は、何処にあったか。

 

 床を拭かねばならない。然し何とも言えぬ虚脱感が少年へ降り掛かり、少年の腰を重くさせた。片付けは八割方済まされてはいるが、未だ手を付けていないところもある。

 

「こうして逃避していても、仕方あるまい。」

 

 緩慢な動きで、けれども自分を奮い立たせて少年は重い腰を上げた。こういう面倒なことは、さっさと済ませるに限るのだ。一度少しでもまた明日やればいい等と考え出すと、無限の月日に対してその言葉を発することとなる。


 足を一歩踏み出した。するとその時、こつり、と何かが足で蹴飛ばした音がした。

 

「なんだ?」

 少年は屈んで手を伸ばし、其の蹴飛ばしたものを拾い上げた。そして――瞠目した。

 

 其れは、写真立てであった。幸せそうに笑う親子の写真が貼られている。満面の笑みを浮かべた幼い子どもと、そんな子どもを愛おしそうに頬擦りをする母親。

 

 ――そうだ。

 

 までは毎日が楽しかったのだ。

 

 あまり裕福では無かったものの、朝には美しい母が優しく起こしてくれた。一緒に朝食を作るのが大好きであった。目玉焼きが潰れるのに共に一喜一憂し、パンを焦がして笑いあったものだ。特に母の作るココアは絶品で――頬がとろけるほどに甘かった。

 

 保育園へ行くのは悲しかったが、行き道に近所の田圃で蛙を追うのは楽しかった。あめんぼをじっと観察したりもした。母はあまり得意では無かったようで、捕まえてきた蜻蛉とんぼを自慢気に見せると、叫び声を上げて逃げていった。

 

 同じ保育園の園児たちにはたびたび、

「お父さんはいないの?」

 

「お母さんしかいないってかわいそう。」

 

 等と言われはしたが、淋しくはなかった。自分には自分をあんなにも愛してくれる母がいる。それだけで充分だ。

 

 何故父がいないのか気にならない訳ではない。母は時々、知らない男の写真を見てしくしくと涙を流している。きっとあの写真の男が父親なのであろう。


 頻りに「どうしてわたしを捨ててしまったの。」と泣く姿を見て、幼いながらに、触れてはならぬものに違いないと思い見て見ぬふりをした。

 

 少年は変わらず窓際に座す女を見た。人形のように静かに座す女は、床が雨水で濡れても顔色一つ変えない。にたにた嗤いを浮かべ、宙を見詰めている。

 

「僕はお前を殺さねばならない。」

 少年は小さく呟いた。

「僕は、あなたの死神なのだから。」

 

 女は何も応えない。少年は顔を歪めた。



 いつからだったか。

 母親が母でなく鬼になったのは。

 其の日は唐突に訪れた。


 苦しい、苦しい。

 

 そう思って目を覚ますと、何時も優しく起こしに来てくれる筈の母が、虚ろな眼をして自分の頸をぎゅうぎゅうと締め付けていた。其の細腕からは想像出来ぬ程のありったけの力を込めて、母は僕を殺そうとしていた。

 

「痛いよ、止めてよ。」

 

 恐怖に慄いて言うことを聞かぬ身体をむち打ち、手足をばたつかせて抵抗すると、母は漸く手の力を緩めた。何やらぶつぶつと呟き――其の日は其れで終わった。

 

 朝食を一緒に作ることもなくなった。否、飯を与えてくれなくなったのだ。仕方なくこっそり菓子を掠め取って食いつないだ。保育園へ行くことも無くなり、一日の大半を一人家の中で過ごすようになった。母は、滅多に帰らなくなった。

 

 帰ってきたと思えば、凄まじい剣幕で何やら罵り、僕を打った。他所様に覚られぬよう、のであろう。服で隠れたところばかりを母は打った。


 泣き喚くと、反省させるためと言って押し入れに閉じ込められた。其れは暗くて、酷く恐ろしい時間であった。故に、声を、感情を押し殺すようになった。

 

「お前の所為よ。」

 

「お前の所為で、お母さんの人生、目茶苦茶よ。」

 

「お前の所為で、お母さんの人生は終わったのよ。」

 

「まるで死神ね。」

 

「そうよ、お前はわたしの死神なのよ。」

 

 僕は母を愛していたが、母は僕を愛してはいなかったのか。今迄の母は母ではなくて、僕の中の偶像に過ぎなかったのか。鬼になった母は帰るたびに僕を罵倒し打ち、そして閉じ込めた。


 今迄は母が帰ってくるのが楽しみでならなかったのに、今では彼女の帰ってこないことに安心を感じて止まない。空腹さえ凌げれば、痛くないだけましである、と。

 

「奥さま、少しよろしいでしょうか。」


 ある夏の夜、市の職員と名乗る女が訪ねてきた。ちょうど今朝方に母の戻ってきていた日で、なかなか寝付けぬ熱帯夜だった。

 

「何よ。わたしは忙しいの。そこをどいてちょうだい。」

 

「いいえ、奥さま。あなたには――そう。虐待の疑いがかけられているのです。」

 

「虐待だなんて大袈裟な。躾ですよ、躾。」

 

「それを判断するのはあなたではありません。兎に角、お子さんに会わせてください。」

 

 何やら酷く揉めていて、母の出掛ける気配が無いものだから、僕は自ら様子を見に行った。玄関では顔を真赤にして興奮した母が中年の女に掴みかかっていた。

 

「……お母さん、どうしたの?」

 

 すると母は鬼の面相で、「奥に引っ込んでなさい」と言った。然し母の望みは叶えられること無く、近隣の住民から通報を受けたという二人の警察官に取り押さえられてしまった。其の傍で、近所に住む老婆が携帯電話を握って立ち尽くしていた。

 

 こうして僕はまた、母を死にたい気持ちにさせたのだ。

 僕は彼女のための死神なのだ。



 青年は頭を左右に振り、写真立てを塵袋へ放った。


 ――こんな、過ぎたことを。


 過ぎたことを思い起こしても、何も変わることはない。自分が結局死神になれなかったことも、母が自分の足で黄泉へ赴いたのも。きっと頸を吊る数秒前には、彼女はほくそ笑んでいたに違いない。お前の望み通りにはなってならぬと。


 全くもって腹立たしい。死神として産み落としておきながらも、其の役割を産み落とした本人自ら取り上げるとは。母は最期の最期まで、鬼だったのだ。


 不図、青年は何もない窓の方へ目を向けた。カーテンからは雨水が虚しそうに滴っている。其の傍には薄っすらとほくそ笑む女の姿が在った。


 否。本当は無いのだ。此れは死神になれなかった後悔の念が作り出した虚像なのだ。女は、母は、もうこの世にはいない。自分はすっかり大人になって、妻になる人を見付けて――けれども彼女を迎えに行くことはかなわなかったのだ。


 リコリスの花言葉には、「悲しき思い出」、「あきらめ」といったものの他に、「独立」というものがある。今日この日で、「死神」としての人生に終止符を打つこととなるであろう。


 即ち此れは門出である。自分は死神では無い新しい人生を歩み始めるのである。青年は目を伏せて言った。


「だから、私はあなたを殺さねばならなかったのだよ。」


 そう言って、再び青年は窓の方を見た。


 雨は止み、雲の隙間からリコリスのように真っ赤に染まった空が顔を覗かせていた。其処にはもう、女の姿は無くなっていた。

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リコリスの花束 花野井あす @asu_hana

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