リコリスの花束

花野井あす


 しゃわしゃわと熊蝉の声が辺り一面から鳴り響く。

 

 入道雲の登る青い空は夏の其れで、じりじりと陽の光が照りつける。時折吹く風は生暖かく、不快な気分にさせた。

 

 墓石の前に、親子のような男女の姿があった。白いワンピースを着た美しい女と、喪服を着た小さな少年。少年の手にはリコリスの花束があった。

 

 汗の滲むような暑さの中、二人は長い間ずっとそうしていた。だが然し、ずっとそうしているわけにもいかぬであろう。少年は嘆息を漏らすと足元に置いておいたバケツを片手で手繰り寄せた。中には既に汲んだ水が、なみなみと水面を揺らし、陽の光を乱反射させている。

 

 少年は立て掛けておいた杓子で水を掬い、墓石へ水を浴びせた。墓石に小縁付いていた土汚れと共に、其の表面を歩いていた蟻が水で流されていた。何とも滑稽な姿なのか。


 少年は足を滑らせていた其の蟻を摘み、濡れていない地面の上へ離してやった。蟻は混乱したように彷徨いていたが、暫くするとまるで何事も無かったかのように呑気に土のある方へ歩いて行った。

 

 一通りの手入れを終えると、少年は抱えていたリコリスの花束を墓前に添えた。黒い墓石に真っ赤な花弁のよく映えること。少年は表情のない眼でじっとその墓石に書かれた名前を見つめ、そしてすっと目を逸らした。

 

 暑い。

 

 頭の奥まで茹で上がるような暑気。

 

 気がどうにかなりそうだ。


 いや、どうにかなっているのか。

 

 こんな中でも、あの女はずっとにたにたと嗤っているのだから。

 

 後ろへ振り返ると、白いワンピースを着た女が、貼り付けたような薄気味悪い笑みをたたえて立っていた。死人の如く白い肌に艷やかで長い黒髪の女だ。


 女の黒い瞳は何も映していない。目の前にいる自分を通り越して、その向こうをじっと見ている。少年に寄り添うように其処に居ながらも、少年を其の瞳が映すことはない。そしてきっと、一生女の目に少年は映ることはない。

 

「僕は」

 少年は徐ろに、口を開いた。

「僕は、あなたの死神だ。」

 

 女は変わらず、口の端を上げただけの笑みを浮かべている。視線も此方へ向けられることはない。女はただずっと何かを見ている。少年は真っ直ぐに其の虚ろな黒い眼を見つめた。

 

「僕は、あなたを殺さねばならない。」

 少年は淡々と続ける。

「僕は、あなたの死神なのだから。」

 

 すると女は薄っすらと目元を緩めた。女は微笑んでいた。



 墓場を後にすると、少年たちは、墓所近くにあるアパートを目指して坂道を歩き始めた。

 

 永遠にも等しい、気の遠くなるような長い長い坂道。黒い喪服が陽の光をくまなく吸収して、汗だくの肌に追い打ちをかけた。揺れる木々の葉の作る疎らな影だけが茹だる思考を冷やしてくれた。

 

 ――夕方には降るかもしれない。

 

 空を見上げると、入道雲が厚みを増し空高く登りつつあった。通り雨――其れも激しい豪雨が予感された。

 

 周囲を見渡すと、車の通りは無く、人の往来も少ない。此のような田舎町ならば致し方あるまいが、其れでも、もの寂しさのある光景だ。

 

 一度だけ、自分たちの横を子どもたちが通り過ぎて行った。半袖に半ズボンを身に着けた幼い子どもたちは、暑さなど知らぬといった様子で、楽しげに虫取り網を振り回して声を張っていた。

 

「最後に林に付いた奴が荷物持ちだぞ。」

 

「ずるいよ。僕の足が遅いの知っているのに。」

 

「待ったは無し!」


 彼らは近所の樹林で蝉取りでもするのであろうか。からからと笑い合いながら、無尽蔵の体力を無駄に浪費をしながら駆け抜けていった。

 

 ――自分にもあの子達のように無邪気な頃が在ったのだろうか。

 

 不図、そんな思いが脳裏をよぎった。記憶にはない。きっとそんな過去は存在し無かったのであろう。記憶の中の自分は何時も無感情に黙っているか、声を押し殺して泣いているかのどちらかだ。声を上げて笑ったことなど、きっと一度たりともないのだ。

 

 付き合いも悪く、学校に友人も居なかった。寧ろ其の見窄らしい身なりから、同級の者たちからは嘲笑われる対象であった。

 

「臭い」

 

「髪を洗ったのは何時なの」

 

「貧乏菌が感染る」

 

 嫌ならば関わらなければよいのに、態々わざわざ近寄って来て、こういった言葉を浴びせてきた。子どもたちは時として残酷である。オブラートというものを知りながらも、敢えて知らぬふりをしてありのままを伝えるのだから。

 

 ――くだらない。

 

 少年は足を止め、服の裾で額の汗を拭った。こんなものを着て、こんなにも暑い所為だ。余計なことばかりが頭の中で沸き起こっては消えていく。感傷的になる。もう過ぎたことなのだ。考えても何も変わることはないのだ。

 

 ちらりと女の方を見ると、女は汗一つかかず、能面のような無機質な白い肌に口角の上がった形の唇を貼り付けていた。

 

 ――僕は死神

 ――彼女のための、死神

 

 少年は少し乾いた唇を動かした。

「僕は、お前を殺さねばならない。」

 

 そして再び、ゆっくりと坂を登り始めた。

 女は嗤っていた。 



           ✚




 つと、少年は足を止めた。目前には古びたアパートがあった。

 

 築五十年の鉄筋コンクリート造で、外壁の塗装が少し罅割ひびわれている。此のアパートは四階建てであるが、上へ上がるには階段を使う以外の手立てはない。


 途中、ベビーカーを抱えた妊婦が自分の足で三階まで登っていく様子を少年は見届けた。手助けをしても良かったのだが、兎に角彼女が真剣に一歩一歩確かめるように登るものだから――声を掛ける機会を失ってしまったのだ。妊婦の姿が見えなくなると、少年は再び階段へ足をかけた。

 

 405号室。此処が、少年たちの目的地である。扉の隙間からぷうんと漂う生塵臭で鼻をつまみながら、少年は部屋へ足を踏み入れた。

 

 部屋は凄惨たるものであった。床一面に散らかった衣服や化粧品のたぐい。幾つものの空になったカップ麺の器や菓子の袋が転がり、その近くを数匹の蝿が羽音を立てて旋回している。積み重ねられた塵袋に穴が開き、其処からは名状しがたい異臭を垂れ流されている。玄関で嗅いだのはこの臭いであろう。

 

 ――これは、ひどい。

 

 少年は顔を顰めた。此れは酷い。此れは人の住む場所では無い。何をすれば此れ程までに荒れるのか。否。何もしていなかったから、こうなったのであろう。

 

「さて、何処から手を付けたものかな。」

 

 と少年は呟くと、此の籠もった異臭を何とかしようと、窓を開け放った。生温い風がカーテンを揺らし、室内の臭いを外へと誘っていく。

 

 換気扇を回すと、少年は手始めに蝿の集る物を片付けることにした。未だ中身の入ったものもあった。食べかけのチョコレート菓子が蟻を呼び寄せたらしく、部屋に蟻の列が形成されていた。小さな黒い蟻たちがベランダの扉の隙間を縫って、部屋の中央辺りまで隊列を組んで行進している。

 

 ――まったく。

 

 呆れて物が言えないとは此のことであろう。此れ程までに散らかった部屋を見て、一言二言は言ってやりたいのに、言葉が思いつかない。

 

 少年は床に落ちていたものを片端から塵袋へ放り込んだ。何となしに女の方へ視線を向けると、女は窓際に座し、外を眺めていた。まるで涼やかな秋の風を堪能しているかのような風に生暖かい風にあたっている。

 

 徐ろに、女が此方を向いた。虚ろな黒い瞳は顔にぽっかりと空いた穴のようで、じっと見詰めていると吸い込まれそうになる。

 

「あなたは、死神」

 女は微笑んだ。

「わたしのための、死神」


 少年は答えた。

「そうだ。だから。」

 僕はお前を、殺さねばならない。

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