斯く在れかしとは言うけれど……。

トム

斯く在れかしとは言うけれど。



 はじめに断っておきたい。これはあくまで個人の主張であって、唱えたいのではない。勿論、誰かに強要するものでもない、強くその事を理解してからお読み下さい。



 ――れかし。


 まことにそうあることが望ましい。そういうふうになって欲しい……まぁ解釈としてはその様な感じ。現代的にすれば「普通、そうだよね」若しくは「これが当たり前」か「常識じゃね?」……そう、誤訳。誤った解釈。本来は前述した言葉が、最もふさわしい語訳である。



 ――なぜこんな事を思うのか。



 長い間放置していたSNS。何のきっかけで始めたのかさえ、もう覚えていない。登録日を見れば十年以上も前だった。私は現在五十を過ぎた初老である。人生百年時代と言われても、既に折り返し地点を過ぎている。平成生まれを新人類だと思っていたが、今や令和生まれも幼稚園に通っている。自分が小学生だった頃、明治生まれのお爺さんが、「儂の若かった頃は……」などという事を遠い昔話と聞いていた。


 気づけば自分も、同じ立場になっている。


 私は昭和四十年代後半の生まれだが、ここまで劇的変化を遂げた世界を生きた人間は、この世代の者たちではないかと思っている。……まぁ、確かに電気が出来た時や、内燃機関の発明、飛行機の登場……確かに大きな事は今までも在った。だが私が生まれ、たかだか五十年でここまでの進化を遂げた時代が在っただろうか? 近代化は既に進み始め、高度成長期が最も著しかった昭和三十年以降。その発展は凄まじいとしか言いようがない。それまで各家庭に在った三種の神器は、ラジオと冷蔵庫に洗濯機。そこに降って湧いたのがあのテレビだ。勿論だが白黒で音声なんかは聞こえるだけ。それでも誰かの家にテレビが来るとなれば、ご近所さんが集まってテレビを迎える準備までしていたものだ。


 まぁ、私の時代は既に家具調型のカラーテレビが主流になってはいたが。そして生まれたのがクーラー。今で言うエアコンだ。実際、エアコン自体は私が生まれた頃には存在していたが、まだかなり高価で、冷房機能だけに絞った「クーラー」の普及が多かった。昨今、気温はぐんぐんと上がっており、夏場のピーク時には全国的に35度を超える日すら出ているが、私の記憶で昔はそこまでの暑さはまず無かった。真夏に気温が30度などと聞けば、ぎゃあぎゃあ騒ぎ出すくらいだったと記憶している。


 道路全てがアスファルトではなかったし、買い物といえば商店街か駄菓子屋だった。映画「3丁目の夕日」は誇張でもなんでもなく、ただありふれた日常にしか私には見えなかった。そこには郷愁や、懐かしさなど感じなかった。それだけ当たり前にあったから。



 ――それは人にしてもそうだった。



 近所に必ず、誰かれ構わず子供をしか口喧くちやかましい親父が居たし、前触れもなく家に上がり込んできて、ぺちゃくちゃ怒涛の如くマシンガントークをかます、オバサマ方が跋扈していた。昭和50年初頭までは、それが日本中のあちこちにある日常だった。……断っておくが、田舎の話ではない。私は大阪市内の生まれである。


 そうして自分の意識というものが確立し始めた小学生時代。巷でにわかに聞こえてきたのが「マイコン」なる言葉だった。そう聞いてこれを読む方たちがどのくらい正確に当時の「マイコン」を理解できるだろうか? 恐らくだがマイクロプロセッサや、マイクロコントローラの事ではない。この時代のマイコンとは「マイクロコンピュータ」つまり現代のパソコンを指して、呼称したものである。(そもそもパソコン=パーソナル(個人)用コンピュータなどはまだそこまで普及していなかった)曖昧だがパソコンが全盛になるのは80年代中盤辺りくらいからだったと記憶している。


 では何がマイコンと呼ばれ、巷を賑わせていたのか。実は私自身も定かではないのだ。


 ふざけてるのか?! いや、そうではない。「大人」達がそれを言い始めたのだ。テレビや商店街、特に大人の男の人が言い始めたのである。恐らくだが、会社に色々導入され始めた時期だったのだろう。

 

 今でこそ電子機器などは当たり前に、そこら中に溢れているが、たかだか40年もさかのぼれば、レジスターすら店にはない所が大半だったのだ。そうして、それが聞こえ始めたと思ったのも束の間、商店街の一角に怪しげな店が現れた。その店の入口からは中が見えにくくなっており、当時小学生低学年だった私はすぐに入れなかったが、後に高学年になって、近所に住んでいた友人の兄に連れて行ってもらった場所。それが「ゲームセンター」だった。当時は小さな店舗で何台かのテーブルゲーム機しか置いてはいなかったが、それでもそこには沢山の人でごった返しており、特に強面の人たちが奥で固まってタバコを吹かしていたのをよく覚えている。当然そんな中に入って遊べる勇気などはなく、表にあったメダルを左右に飛ばすものや、所謂「十円ゲーム」が小学生のブームになった。


 それからは早かった。……いや、速かった。「LSIゲーム」と呼ばれる、チップを内蔵した液晶型ゲームが発売され、直後にあのゲームウォッチが発表された。そうして「ゲーム」は街にある店舗でする遊びから、家で出来るものに変わりつつあった時、あの「ファミリーコンピュータ」が産声を上げたのだ。


 同時期にパソコンは凄まじい進化を遂げ、普及率もすごかった。どうやってそこまで普及したのかは推して知るべし。エロはいつでもそういった文化を加速させるものだ。ビデオデッキ然りである。


 ――どうだろう? これがたった10年ほどの間に起きた出来事なのだ。それまで計算と言えばソロバンか精々が電卓だった。それが会社にコンピュータが導入され、ビデオゲームの普及とともに一気に電子機器に華が開いた。個人で扱うには当時としてはかなりの高額にも関わらず、作れば売れるという異常な現象が起きるほどに熱狂的になり、NECや富士通等は笑いが止まらなかっただろう。様々な部品が日本製で作られ、どんどんその分野でシェアを拡大していった。


 ――PC/AT互換機とWindowsが出るまでは……。


 1995年……恐らくそれは時代の転換期となった年と言えよう。90年代初めにPC/AT互換機によるDOS/V機と呼ばれるパーソナルコンピュータの出現により、ソフトの時代が始まったのだ。


 同年、Windows95の発売がそれらを後押しする形となり、日本でインターネットが爆発的に普及した。テレビやCMでは「ダブリュ、ダブリュ、ダブリュウ……」等と自社のホームページの宣伝を嫌と言うほど聞いた覚えがある。携帯電話にはまだメール機能すら無く、本当の意味での「携帯電話」だった時代。通話料金も目玉が飛び出るかと言うほど高く、月2~3万円程は当たり前だった時代。パソコンにあった機能「メール」が昔の文通のように流行らないわけが無かった。


 テレホンクラブやQ2ダイヤル等のお株を攫ったそれは、すぐさまそう言うサイトが産まれ、一瞬にして様々な地獄も同時に生んだ。「2ちゃんねる」が出来たのは1999年だったが、その頃には携帯電話からでも「iモード」や「Ezウェブ」など、独自サイトも続々登場していった。



 ――匿名で見ず知らずの人間と交流する。



 ケータイ電話はどんどん普及し、遂には「PHS」が登場し、高校生ですらも持っている時代へと移行する。日本ではガラパゴス化が進み、独自に花開いたケータイ電話文化は凄まじいものがあった。「写真が撮れる」ようになり、「メール」で誰とでも繋がり、「サイト」で見ず知らずの人間とコミュニケーションが取れるようになった。


 「パソコン」に始まった電子文化は、何時しか手元に収まるほどになっていく……。



 ――2007年、アップルが初代iPhoneを発表。


 

 それ以降のデジタル変遷については語るべくもないだろう。世界中でスマートフォンが普及し、情報は瞬時に「手元」で見ることができるようになってしまった。「何時でもどこでも誰とでも」「映像」が共有され、「匿名」で「話す」事ができ、「発信」することが当たり前になっていくようになったのである。




 ――斯く在れかし。




 誰しもが発信でき、それに返信もできる双方向となった今、「文字や言葉」はどうなっただろう?


 映像の方がインパクト有るため廃れたか?



 いやいやとんでもない。


 映像は確かに見る分にはインパクトが有るし、分かり易い。


 では、「文字」で綴られた「言葉」は?




 紙に書かれていた文字には意味があり、言葉には「力」があった。


 

 その小さな画面から飛び出してくる「文字」や「言葉」はどうだろう?



 ……あぁ、ここであの前フリが効いてくるのだな。



「儂の若かった頃は……」



 ――やいばと為らんことを切に願って……。




~了~



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斯く在れかしとは言うけれど……。 トム @tompsun50

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