青い時分の歩き方

翠雪

青い時分の歩き方

 真昼の都心をその身で断ち割る鉄の蛇に、三年目の付き合いとなるスニーカーで包んだ右足を乗せた。


 鈍行のダイヤを選んだことに、何、という明確な意図があったわけではない。芸能人が途中下車を楽しむ某ご長寿番組のように、あてどなく旅をするという行為がぼんやりと豊かなものに思えてきて、ふと、散歩がてら試してみたくなっただけである。祝日もなければイベントも遠い、六月の平日の昼間ともなれば、朝の通勤ラッシュで押しつぶされていた乗客たちは、各々の仕事場や、観光スポット足り得る華やかなどこかへと姿を消してしまった。今ならば、二列に向かい合った座席のどこにでも、大胆に寝転がることができる。それを咎めるのは、身のうちに根付いた、世間のマナーだけだ。


 破戒の気概がない私は、クッション材が薄い青のシートに行儀よく腰を下ろして、部屋の隅から持ち出した文庫本の表紙を捲った。帯に書かれた煽り文句に吸い寄せられ、四年前に手に取ったタイトルは、実写版の映画が先週に封切りされたばかりだ。原作では昏い眼のアウトローとして描かれている主人公の青年は、配給会社か監督かの采配により、彼を演じる男性アイドルの甘いマスクがよく目立つ、ひねくれた若者へと変貌を遂げたらしい。荒れに荒れる映画の評判に気後れして、本棚で眠るばかりだった一冊を今日の旅の伴に選んだが——恐らく、私は劇場に行かない方が心穏やかでいられるだろう。


 オレンジ色の横線を胴体へまっすぐに引かれた車両は、品川駅を出発してから九分後、川崎駅で一分ほど停車した。東京と神奈川の県境は、私が第二章の中盤を読んでいるうちに、いつの間にか越えていたらしい。ほのかに酔った三半規管を慰めるべく、「角川文庫」と野太い角ゴシック文字が印刷された掌サイズの栞を本のノドへ挟んで、次の駅を待つ。この東海道本線を任された運転手の運転技術は中々のもので、進行方向に対する左右の揺れが少ない上、踏切で緊急停止ボタンが押されたことに伴う急ブレーキの反動も、ほとんどなかった。車窓の外側には、梅雨の時期には珍しく、雲一つない青空が佇んでいる。


 JR横浜駅と直結している、西口のジョイナス、東口のそごうやポルタのいずれにおいても、客足はまばらだ。人混みが苦手なこちらとしては大変助かる通路の広さに感謝しながら、ウインドウショッピングを嗜む。なお、美容部員の方々が微笑み誘う化粧品売り場は全てスルー。ユニクロのマネキン一体分をほぼそのまま買ったコーディネートと、不織布マスクで辛うじて保たれている体裁の粗を、スカーフの角度まで美しく装った方々へお見せするわけにはいかない。一瞬だけ見遣ったジルスチュアートの口紅は、軸部分へ宝石風のアクリルパーツが嵌め込まれていて、魔法少女の変身アイテムのようだった。脳裏には、私がまだ一桁台の齢だった二十年前、スーパーの玩具売り場における密かな憧れだった、セボンスターのラインナップが浮かんだ。


 北海道の和洋菓子が立ち並ぶ物産展は気楽に見て、グラム売りの惣菜売り場で空腹を思い出し、帽子から靴まで服飾系の全ての店舗を目のみで味わうという快挙を遂げ、最後に足を向けたのは書店だった。紀伊國屋や蔦屋書店などの有名どころを押しのけて、神奈川県では一強状態となっている有隣堂は、横浜駅の地下に構えられた支店さえも地層のよう。地下水脈よろしく、絶えることなく行き交う人々を、泰然たる態度で待ち受けている。


 神保町に軒を連ねるような従来通りの古本屋と、新品のみを取り扱う全国チェーンの書店を隔てるもの。それは、付録つき冊子の有無ではないか……などと考えているうちに、児童書の平台を過ぎかけた。境界線がバツ模様となるように交差された、黒とオレンジの組み合わせが特徴的なマルマンのスケッチブックの図案をポーチにしたムック本に、少しばかり心が揺れる。未就学児向けの『幼稚園』などの学習雑誌をはじめとする、男児向けの『てれびくん』、『ちゃお』や『りぼん』といった女児向け雑誌に付録が欠かせないことと同じく、大人向けの書籍であっても、おまけ付きの一品には抗い難い魅力がある。けれども、自分の日常にA5サイズのポーチへ収納する品があるのかと問われると、お薬手帳の他に考えつかないのが手痛い。緩みかけた財布の紐をすんでのところで引き締めて、文庫の棚へと避難した私は、頭の中で部屋の本棚の景色を思い浮かべながら、フキダシ型のダイカットカードを使った手作りポップが指し示す「書店員おすすめ」な「ベストセラー」を手に取る。その一冊が、物書きの端くれでもある己のデビュー作の文庫版であることに気付いたのは、さらに一拍遅れてからのことだった。

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青い時分の歩き方 翠雪 @suisetu

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