3.僕の未来

 卵は微かに震えると、それを合図に表面に亀裂が走った。空調の放つ重低音の中、殻の割れる乾いた音が響く。晴翔は唾を飲み込んだ。両手はしっとりと汗ばんで、胸の内に期待と不安が膨らんで行く。


 殻の欠片が剥がれ落ちると、後はもう一瞬だった。

 竹を割ったように一気に殻が割れて、中から小さな生命が生まれ落ちた。


 その姿を見た瞬間、晴翔は奈落の底に突き落とされたかのような絶望に襲われた。砕けた殻の破片の中、未知の生命体が産声を上げる。


 それは、羽化不全を起こした昆虫の幼体のような不気味な生命体だった。ふやけた白い体は蝋のように溶け、肉は垂れ下がり、産声とも鳴き声とも付かない低い声が響き渡る。手の平程の悍ましい生命体は、視力が無いのか辺りを見渡しては鳴き声を上げる。瞼らしき肉は垂れ下がり、背骨ばかりがごつごつと浮かんでいた。


 晴翔は短く悲鳴を上げ、咄嗟に距離を取った。

 大事に温めた卵の中から生まれたのは、蕩けた肉の塊のような気持ちの悪い生き物だった。




「ああ、生まれたな」




 背中で兄が冷静に言った。

 距離を取った晴翔とは対照的に、その生き物を興味深そうにじっくりと観察している。それは低く嗄れた声で何かを求め、やがて静かになった。兄は生まれたばかりの生命体を丁寧にタオルで包むと、晴翔に向き直った。




「生まれたぞ、お前の未来」




 無感情な声で兄が言う。その腕の中にはあの不気味な生命体がいて、時折、鳴いた。晴翔の足元が震えた。醜く悍ましいこの生命体が、僕の未来?


 残酷な結末を突き付けられ、晴翔は悲鳴のように叫んでいた。




「こんなものが、僕の未来な筈無い!!」




 叩き付けるように叫ぶと、兄は切れ長な目を細めた。晴翔は扉の前まで後退り、兄の腕の中にいる生命体から可能な限り距離を取ろうとしていた。


 皆の未来はもっと格好良くて、綺麗だった。

 それなのに、どうして僕にはこんな不気味な生命体が孵るんだ。それではまるで、僕の未来は。




「こんなのは僕の未来じゃない!」




 晴翔が再度叫ぶと、兄は黙ってその生命体をタオルの中に包み込んだ。微かに聞こえる不気味な声が悪夢のように耳の奥に残っている。


 お前みたいな弱虫の未来なんて、きっとダサくてくだらないだろうさ。


 クラスメイトの声が耳の奥で再生される。

 晴翔は耳を閉ざし、壁に凭れ掛かると、ずるずるとその場に蹲み込んだ。蛍光灯の明かりばかりが白々しく、まるで世界中にお前は落第者だと言われているような気がした。


 兄は何かを言おうとした。

 けれど、晴翔は逃げるように自室を飛び出した。怖かった。あんなものが、僕の未来だって?


 きっと、何かの間違いだ。祈るように、縋るように家を飛び出して、あの夜店へ向かって走った。夕闇に染まる神社の境内に人気は無く、竹林は凡ゆる音が吸い込まれて行くかのような静寂に満ちている。


 晴翔はいつかのように走りながら、あの店を探した。けれど、その店は何処にも見当たらない。まるで夢を見ていたかのように、煙のように消えてしまっていた。


 全力疾走したせいか、肺が痛かった。口の中に血の味がする。それでも、誰かに否定して欲しくて懸命に探し続けた。気付けば竹林は闇に沈み、衣服は着衣水泳でもしたみたいに汗で濡れ、膝が震えていた。


 あの夜店は、ついに見付けることはできなかった。









 未来の飼い主

 3.僕の未来










 帰宅した時には焼き魚の香ばしい匂いが漂っていた。何処の家も夕食の時間だ。晴翔は汗とも涙とも付かない雫を袖口で拭い去り、重い足取りで帰宅した。


 恐る恐ると自室の扉を開けるが、其処にはもう、あの悍ましい生命体はいなかった。晴翔はほっと胸を撫で下ろし、酷い疲労感と共に食卓へ向かった。


 焼き鮭に豆腐の味噌汁、青梗菜の炒め物。

 食欲を唆る匂いに釣られて席に着くと、廊下の向こうから足音がした。兄はリビングの扉を開けると、腕の中にタオルを抱えていた。晴翔はなるべく目を逸らしながら、掻き込むように夕食を食べ終えた、


 兄は何も言わなかった。

 晴翔はそれを良いことに、逃げるように早々に席を立った。背中に兄の視線を感じたが、気付かないふりをして自室に篭った。就寝時間にはまだ早いけれど、もう眠ってしまいたかった。悪い夢を見ているんだと、起きたら卵はまだ生まれていなくて、きっと、皆みたいに格好良い未来が――。


 遮光カーテンの隙間から朝日が零れ落ちる。

 夜明けと共に起床した晴翔は、顔を洗うとリビングに向かった。学校の皆に見せなくて良かった。あんな気味の悪い生き物を連れて行ったら、僕は学校中の笑い者だ。


 リビングの食卓には、既に兄がいた。

 タオルに含ませたミルクを与えると、その生命体は弱々しい力で餌を取り込もうとしている。晴翔にはそれすら我慢ならなくて、朝食を平らげるとさっさと家を出た。


 あの生命体の寿命は二日か三日。

 正直、二度と見たくない。あれを見ていると、まるで僕の未来はお先真っ暗で、どんなに足掻いても毛嫌いされるような陰鬱な未来しかないんだと言われているみたいだった。


 日直であることを良いことに、晴翔は遅くに帰宅した。リビングはバラエティ番組の空虚な笑い声に包まれており、リビングテーブルの席では、兄が相変わらずあの生命体の世話をしている。


 会話も無く、僕は勉強すると言って自室に篭った。けれど、宿題を開いてもあの不気味な生命体と、暗示される不吉な未来が頭の奥にこびり付いていて、勉強はちっとも捗らない。


 そんな生活を二日程続けていた頃、自室にノックの音が転がった。僕の返事も待たず、兄はタオルを腕に抱いて立っていた。その目は伽藍堂で、まるで人形のようだった。




「晴翔。こいつもう、ダメらしい」




 兄が言った。

 僕がおざなりに広げていた教科書の上にタオルを乗せて、兄はゆっくりとそれを開いて行った。


 初めに現れたのは皮膚の無い蕩けた肉塊だった。耳らしき器官は垂れ下がり、弱々しく鳴き声を上げる。まるで助けを求めているようで、逃げ続けて来た罪悪感が棘のように胸に刺さった。


 兄はその生命体を指差すと、穏やかな声で語った。




「こいつ等は、本当の飼い主じゃないとダメなんだ。俺が世話したけど、もう無理みたいだな」

「無理って」

「寿命だよ。……まあ、お前がちゃんと世話してやっていたら、もう一日くらいは生きられたかも知れないけれど」




 僕が世話をしていたら、あと一日くらいは長生き出来たのかも知れない。逃げ続けた僕への罰だと思った。だから、僕の未来は誰にも見せられることのない醜悪な姿をしていて、他の未来よりも長生き出来ない。




「なあ、晴翔。俺、最初に言ったよな? こんなもの、くだらねぇってさ」




 兄は、言葉とは裏腹に優しく凪いだ声で問い掛ける。

 タオルの中では僕の未来が虫の息で、僅かな命を燃やし尽くそうとしていた。




「未来なんてさ、誰にも分かりはしないのさ。どんなに格好良い未来も、綺麗な未来も、やって来るまでは分からない。鳥だって最初から飛べた訳じゃねぇだろうさ」




 兄はそう言って、小さな生命体の背中を指差した。背骨が浮き上がり、白濁した眼球はもう何も見えてはいない。僕は促されるまま、兄の指先へ視線を送った。


 醜く不気味な生命体だ。朝を迎えることは出来ないかも知れない。弱り切った体はもう身動ぎ一つせず、気紛れに鳴き声を上げるだけだった。


 だけど、晴翔はその背中を見た時に驚いた。

 何処にも行けないようなひ弱な僕の未来。その背中には、折り畳まれるようにして小さな七色の翼があったのだ。


 鳥類とも昆虫類とも付かない小さな翼では空を飛ぶことなんて出来やしない。いや、僕が逃げ出さなかったら、青空を羽搏くことが出来たのかも知れない。


 僕の未来は、断末魔のように翼を二度、三度と開閉させると、後はゆっくりと息を引き取った。たった二日の生命。僕の未来。


 空を飛ばせてあげることも出来ず、抱き上げてあげることも出来なかった。静かにこの世を去った未来を思って、僕は泣いた。無責任な僕を恨んだだろうか。それとも、憎んだか。眼中にも無かったか。


 僕は、タオルで温めて続けた日々を思い返して、庭の片隅に墓を建てた。


 確かに、僕の未来は死んだ。

 だけど、それでも僕は生きている。

 僕の未来はまだ、やって来ていない。

 青空を羽搏けたかも知れない僕の未来を思って、涙が零れ落ちる。けれど、やり遂げる意思があれば、どんな夢も実現出来るのかも知れない。




「お前の未来は、お前が決めろ」




 兄は野花を供えると、ポケットに手を突っ込んで空を見上げていた。僕は小さな墓に手を合わせた。突き抜けるような蒼穹に雲は無く、南風が柔らかに吹き抜けていた。

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未来の飼い主 mk* @mk-uwu

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