2.孵化

 祭りの後始末に追われる人々を置き去りに、晴翔は兄の背中を追い掛け続けた。成長期と共に声変わりし、兄はまた一段大人への階段を登った。闇に包まれる竹林の奥、其処にはオレンジ色の提灯に飾られた出店が一件、まるで隠れるみたいに存在していた。


 兄が受付の前に立つと、店の主人が姿を現した。それは狐面を付けた甚平姿の男性で、何処か神秘的で、晴翔は現実感を喪失し、まるで夢を見ているような心地だった。


 狐面の店主は兄を見ると、恭しく頭を下げた。




「これはこれは、珍しいお客様ですね。貴方も自分の未来をお知りになられたくなったのですか?」

「俺じゃない。用があるのは、こいつ」




 そう言って、兄は後ろに立つ僕を親指で指し示した。狐面の男は合点行ったかのように何度か頷くと、僕を店先へと促した。


 店先に並んでいたのは、乳白色の卵だった。

 殆どの卵は売り切れてしまったのか、残りはたった一つだった。僕はすっかり温くなってしまった硬貨を握り締め、残された乳白色の卵を指した。




「一つ、ください」

「へい、毎度あり」




 狐面の男は飄々と代金を受け取ると、品物を丁寧に梱包した。竹林に囲まれた店先は現実と乖離し、提灯が煌々と灯火のように辺りを仄かに照らしている。


 梱包を終えた店主が品物を手渡す時、その軽さに驚いた。こんな卵から生まれる僕の未来。手の平に乗る程度の軽い生命、でも、此処には僕の未来が詰まっている。


 狐面の店主は、品物を手渡すと口元に指を立てた。




「これは、正真正銘、貴方の未来です。孵化するまでタオルにでも包んで温めて、三日程経てば孵化するでしょう。その時、貴方は何を思うでしょうね?」




 意味深な言葉を吐き捨てて、狐面の男は笑ったようだった。店主は再度、兄を見た。




「貴方も買いたくなったら、いつでもいらして下さいね。私も、貴方の未来に少しだけ興味があります」




 狐面の男が言うと、兄は喉の奥を鳴らして笑った。

 けれど、答えることは無かった。兄は既に闇に包まれる竹林へ向かって歩き出している。僕は手の平に収まる自分の未来を落とさないように注意しながら、兄の背中を頼りに帰路を辿った。


 狐面の店主は軽薄に手を振っていたが、兄は振り向きもせずに進んで行く。晴翔は最後に一つだけ会釈して、兄を追って駆け出した。









 未来の飼い主

 2.孵化









 家に帰ると、クーラーから噴き出る冷気が滲む汗を一瞬で乾かした。とは言え、衣服は汗を吸って重く感じられた。


 母に風呂へ入るように命じらた時、晴翔は手元の卵をどうするべきか迷った。縋るように兄を見遣ると、これ見よがしな溜息を吐かれた。




「風呂入ってる間だけだぞ。第一、これはお前の未来なんだからな」



 厳しく言い付けて、兄は梱包された卵を受け取ってくれた。兄は棚からタオルを取り出すと、梱包されていた卵を包み込んだ。LEDの照明の下、卵は何処となく無機質な印象を与えた。本当に生まれるのだろうか。そんな不安と疑念を振り払うように、晴翔は脱衣所へ向かった。


 烏の行水とばかりに風呂を出れば、意外にも兄はタオルを抱いてリビングに寝転んでいた。晴翔が濡れた髪も乾かさずに突っ立っていると、兄は口角を釣り上げて「髪乾かして来いよ」と笑った。


 髪を乾かし、就寝の準備を終えた頃。兄は見計らったかのようにタオルを押し付けて来た。大欠伸をしながら、兄は風呂場へ向かって行く。


 あの店は何だったんだろう?

 兄は知り合いみたいだった。

 いつもは僕に無関心なのに、どうして今日はこんなに優しいんだろう?


 脱衣所へ消えて行く背中を見ながら、晴翔は心の中で礼を言った。

 呉須色のタオルで包まれた卵は沈黙を守っている。三日三晩温めるとは言え、夏場だ。どのくらいの温度が良いのだろう?


 分からないまま、晴翔はタオルに包まれた卵を枕元に置いて眠った。クーラーは付けなかった。朝には灼熱地獄になっているだろうけれど、今は兎に角、卵のことだけが心配だったのだ。


 朝が来ると卵の様子を確かめて、晴翔はランドセルの中にそっと詰めて登校した。クラスメイトの話題では、祭りで買った卵のことが飛び交った。卵の様子、去年のこと、孵化した自分の未来の自慢。買えなかった奴等は羨ましそうに指を咥えて聞いていることしか出来ない。


 晴翔は、ランドセルに隠した卵のことは黙っていた。買えなかった奴等に見せびらかすのは格好悪かったし、孵化しなかった時の惨めさを考えると口に出すことも出来なかった。意地悪なクラスメイトが揶揄って来た時には俯いて、内心で「今に見てろ」とほくそ笑むのが精々だった。


 一日、二日と時間は矢のように過ぎて行った。期待ばかりが強くなり、反面で、生まれなかった時のことを考えると身の竦む思いがした。


 家に帰ると卵を温めて、ざらついた表面を撫でてみたり、話し掛けてみたりした。卵は相変わらず沈黙し、孵化する気配は無い。


 自室で卵を眺めていると、帰宅した兄がやって来た。部屋の中は西陽に染まり、古い空調機の唸る音ばかりが木霊している。


 兄は畳を踏み締めて部屋を横断すると、遮光カーテンを閉めた。そのまま勝手に室内灯を点けて、その明かりと等しく白々しい眼差しで晴翔を見下ろしていた。




「まだ孵らないのか?」




 心底、興味の無さそうな平坦な口調だった。

 兄は半端に伸びた前髪を指先で払うと、晴翔の手元にある卵を覗き込んだ。日に焼けた頬は少しずつ丸みが削げて、自分よりも早く大人になろうとしている。そんな兄の横顔を見ながら、晴翔はふと思い出して問い掛けた。




「兄ちゃんは、どうして買わなかったの?」




 兄はゆっくりと瞬きして、皮肉っぽく喉の奥で嗤った。




「くだらないから」

「でも、自分の未来だよ?」

「だからさ」




 兄は呆れたみたいに溜息を吐くと、何かを言おうと口を開いた。けれど、それは言葉になることは無かった。晴翔の手の平の中、乳白色の卵が微かに震えたのだ。

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