未来の飼い主
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1.夢見る卵
茹だるような熱波は、夜になると纏わり付くような湿気に変わった。紅白幕に包まれた祭り櫓、浴衣を着込んで盆踊りに興じる女性達。
祭囃子が宵闇を彩り、和太鼓の音色は力強く、祭り会場は活気に満ちていた。息苦しい程の人熱の中、
猛暑に晒されたアスファルトも少しずつ熱を冷まし、人々の喧騒は遠くの花火に似た非日常感を齎した。神社の境内を行き交う色とりどりの浴衣は風に揺れ、まるで金魚鉢を覗き込んだ時のように心が躍る。
人混みを掻き分け、晴翔は懸命に手足を動かした。
今夜の祭りを楽しみにしていたのに、意地の悪いクラスメイトのせいで掃除が終わらず、帰宅した頃には午後七時を過ぎていた。目当ての店は、祭り開始と共にひっそりと開店し、灯火へ息を吹き掛けたかのように静かに消える。
まだ、売れ残っているかも知れない。
まだ、開店しているかも知れない。
藁にも縋る心地で境内を駆け回るが、目当ての店は何処にも見当たらない。裸の白熱灯にプロパンガスの臭い。出店から漂う芳ばしい匂いに腹の虫が切なく鳴くけれど、晴翔はそれを無視して走り続けた。
それは小学校で流行っている珍しい生き物だった。
着色されたヒヨコや、生簀を揺蕩う珍しい金魚ではない。その店で売られているのは、自分の未来なのだという。
手の平ほどの乳白色の卵から千差万別の生き物が産まれるらしい。黄金色の甲虫、青い小鳥、七色の甲羅を持つ陸亀。それは一週間程の短い生命なのだけれど、晴翔の通う小学校ではこの時期になると誰もがその話題を口にした。
首輪を付けて散歩したり、密かに学校へ連れて来たり、闘犬のように戦わせてみたりして、互いの未来の価値を比較して、自慢し合うのだ。
晴翔は小遣いを握り締めて店を探したが、それは何処にも見当たらない。朱色の鳥居に手を付けば、喉の奥から空気の漏れる音が聞こえた。
お前みたいな弱虫の未来なんて、きっとダサくてくだらないだろうさ。
無邪気な悪意に満ちたクラスメイトの声が聞こえた気がして、晴翔は振り払うようにして、また走り出した。
未来の飼い主
1.夢見る卵
喉の張り付く感覚は、血の味を想起させる。
神社の参道を彩った祭り提灯がぽつぽつと明かりを落とし、客足が疎に散って行く。日没を前にした心地で、晴翔は額に浮かぶ珠のような汗を拭い去った。
郷愁誘う祭り音頭が途切れ、アナウンスは祭りの終わりを告げている。出店の類が片付けを始める中、晴翔は霧の中を走っているような閉塞感と泥の中から一本の針を探しているような途方の無さに頭がくらくらした。
目当ての店は何処にも見当たらない。
もう閉店してしまったのだろうか。それとも、自分には初めから手の届かない代物だったのか。小さな絶望が胸の内から泡のように湧き出して、晴翔は立ち止まった。
どうして、僕だけ買うことが出来ないのだろう?
クラスメイトには買えたのに。これでは登校してから揶揄されるに決まっている。握り締めた硬貨は熱を伝え、手の平に薄く丸い痕を残した。
明日の朝、クラスメイトに投げ掛けられるだろう悪意を想像する。お前は弱虫だから、自分の未来すら手に入れられないんだ。言い返せない自分を俯瞰する程に精神は追い詰められて、明かりを落として行く祭り会場で独りだけ取り残されて行く。
祭りの後の静かな騒がしさの中、晴翔はもう走ることが出来なかった。胃が圧迫されて、キリキリと痛む。晴翔が俯いた、その時だった。
「晴翔」
名前を呼ばれ、顔を上げる。宵闇の中に兄が立っていた。二つ年上の兄は仮面のような無表情で、呆れたように溜め息を吐いた。
「こんな時間まで何やってんだよ。父さんも母さんも心配してる。早く帰るぞ」
晴翔の兄は、何処か浮世離れした不思議な空気を纏っていた。特定の誰かと仲良くしているようには見えないのに、兄の周囲にはいつも人がいる。不変の絶対評価を自分の中に待ち、他者を羨んだり、自分を安く売ったりしない。そんな兄を見ていると、晴翔は自分の情けなさに弱音を吐くことも出来なかった。
「……帰れない」
「は?」
兄は不審そうに頭を傾けた。僕は腹の底に力を入れ、月光を遮る背の高い兄に向かって振り絞るように言い募った。
「僕は、この祭りで買わなきゃいけないものがあるんだ」
僕が言うと、兄は何かを察したように目を眇めた。
そして、腰に手を付くと盛大に溜息を吐いた。
「それって、あれだろ。毎年、低学年の中で話題になる未来を売る店ってヤツだろ」
「……」
僕が黙り込むと、兄の鋭い眼差しが俄かに光って見えた。それは星の光や灯火と呼ぶよりも、割れた硝子片のような鋭利な光だった。
「あのな、晴翔。あんなのは偽物だ。奇形を起こした小動物や着色したひよこを売ってるだけ。祭りの金魚と同じで長生きしないから、こうして夜店で売り捌いているんだよ」
「それでも!」
それでも、僕は自分の未来が欲しかった。
けれど、それは言葉に出来なかった。三白眼気味の兄に見詰められると、萎縮してしまって何も言えなくなるのだ。
事実、兄の言葉は正しいのだろうし、自分の未来が買えるだなんて与太話を信じてはいない。だけど、クラスメイトは買えたのに、自分だけ手に入れられなかったなんて知られたら、また馬鹿にされてしまう。
自分がどんどん削がれて小さくなって行くような虚しさが胸を蝕む。僕も兄のように、そんなものに興味は無いと突っ張れる勇気や自信を持っていたら、硬貨を握り締めて走り回ったり、汗水垂らして出店を探したりしない。
僕と兄は違うんだ。
そう思う程に劣等感が足元を沈ませる。望みの品どころか店さえ見付けられないなんて、まるで僕には未来なんて何処にも無いと言われているみたいで、悲しくて、悔しかった。
僕が俯き黙り込むと、頭の上で兄が言った。
「お前、本当にそんなものが欲しいのか?」
そんなもの。兄にとっては、そうなのだろう。
けれど、今の僕には違うんだ。僕は兄ちゃんのようにはなれない。だから、自分の未来を売る店なんて都市伝説みたいな話を信じて宵闇を駆け回った。
晴翔の沈黙を肯定と受け取った兄は、二度目の溜息を吐くと言った。
「そんなに自分の未来が買いたいなら、付いて来い」
そう言って、兄は踵を返した。
その行先は出店の並ぶ参道から外れ、竹林の中に向かっている。ハイエナのように纏わり付く蚊を払いながら、晴翔は兄の後を追い掛けた。
竹林は葉の擦れ合う音が漣のように響き渡り、よく晴れていた夜空はいつの間にか曇天に変わった。雨が降りそうだと、思った。
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