あの日終点までもう一駅あったなら
山川陽実子
第1話
人生の全てはタイミングで決まると思う。
「りっかちゃん……?」
「は?」
駅のホーム。二月の寒さに負け、自販機であったかい緑茶のボタンを押そうとしていた私は、自販機の後方から歩いてきた美女に声を掛けられた。
はて。こんな美人な知り合いいたっけか?
私が首を傾げていると、その美女はふわりとカールした長い髪を揺らしながらこちらに駆け寄ってきた。
「やっぱりそう! りっかちゃん! あたし、ほら! 町田小で同じクラスだった!」
私ははたと思いついた。この声。この瞳、この鼻筋。
「もしかして、ゆうたくん……?」
そう呟いた時、電車の発車のメロディが鳴った。
美女、いやゆうたくんは私の手をぐいっと掴んだ。
「何す……」
「来て!」
ぐいっと引っ張って行かれたのは自販機の向こう側。
「乗って!」
とんと電車の中に押される。
「いや、あたし、行き先、反対」
「いいから!」
「よくないのでは」と思ったが、ゆうたくんの勢いに押されて、私は行きたい方向とは逆の電車に乗り込んだ。
まあ、いいか。
私は軽く息をついた。
目的は「単なる」ショッピングだ。
それに、なんとなく懐かしい気がしたのだ。ゆうたくんに手を引っ張られた時に。
「久しぶりね! りっかちゃん」
シートに隣り合わせで腰を落ち着けると、ゆうたくんはにっこりと笑いかけてきた。私はまじまじとその顔を見つめた。
「ほんとにゆうたくん? 六年三組の青山結歌くん?」
当時の様子と随分と変わってしまった。ゆうたくんは面はゆそうに笑った。ゆったりと弧を描く唇が赤くて私はつい見とれた。
「ゆうたくんなんて呼ばれるの、十年ぶり、ううん、二十年ぶりくらいかも」
二十年ぶりはオーバーだろう。私たちはまだ二十七歳だ。
私は訂正をした。年齢のことではなく。
「あ、ごめんね。ゆうかちゃんだよね。つい、あの頃の呼び名が出ちゃった」
するとゆうたくんはぶんぶんと手を左右に振った。
「いいよ、いいよ、ゆうたくんで。むしろ懐かしい感じがするから、りっかちゃんにはゆうたくんって呼んで欲しいな」
ゆうたという名前に似つかわしくない美女は、頬を赤らめた。
六年三組、青山結歌。親の都合だかなんだかで小学校生活もあと一年という六年生の春に転校してきた。
転校初日、黒板の前に立ったゆうたくんに、クラスの女子は色めき立った。きりっとした眉に、大きな瞳。引き締まった唇。いわゆるイケメンだった。
「今日から皆さんのお友達になります」
教師が黒板に名前をコツコツと書いた。少女達は別の意味でざわつき始めた。「女の子?」「なんて読むの?」
教師が振り返った。
「あおやまゆうたさんだ。みんな、仲良くするように」
教師は大きな間違いを犯した。少女たちは「あれ? 男の子?」と再びざわつき始めた。「先生。名前、読み方違います。ゆうか。です」
声を聞いてもまだ男の子ではと思われるような低音でゆうたくんは訂正した。
「なんだー、やっぱり男の子ー」
そんな声がほうぼうから聞こえてきた。
失礼な子たちだなとぼんやりと思いながら私は前を向いた。
ゆうたくんと目が合った。にこりと笑いかけられたので、私も笑い返した。
イケメンだな。
私はそう胡散臭く思った。
「じゃあゆうたくん」
私はその呼び名でいくことにした。
「小学生の時と全然イメージ違うからわからなかったよ」
そう、ゆうたくんは転校初日の「イケメン」のイメージを裏切ることなく、勉強も運動もできた。それでいて当時の男子特有の荒っぽさがないとくれば、同年代の男子がガキっぽく見える年代の少女達に騒がれたのも当然と言えた。
しかし、ほとんどの子が地元の公立中学に進む地域であったのに、ゆうたくんは東京の私立に行ってしまった。嵐のように少女たちを騒がせて、また嵐のように去って行ってしまった。
それからゆうたくんには会っていない。別に会いたいと思ったこともなかった。
私は目の前の美女をぼんやりと見つめながらそんなことを思い出していた。
「そんなに見ないで」
ゆうたくんは両手でほっぺたを隠した。その幼い仕草がどこかちぐはぐに見えた。
「あ、ごめんね。きれいだったから、つい」
すぐ謝るのは私の癖だ。
するとゆうたくんは口を噤んでしまった。
「ゆうたくん?」
ゆうたくんは俯いた。どうしたのかなとその顔を覗き込もうとして、驚いた。
ゆうたくんの綺麗な目から涙がこぼれ落ちてきたから。
ゆうたくんはハンドバッグからハンカチを取り出して自分で目を拭った。
「ごめんね、びっくりしたよね」
私は無言で頷いた。昼間の公共交通機関の中で美女を泣かせるという経験はしたことがなかった。
「彼にもそう言ってもらえると思ってたのに」
ゆうたくんの台詞に私は思いつくことがあった。
「彼氏と喧嘩したの?」
それで愚痴を聞いてほしかったのだろうか。だから私を無理矢理電車に引っ張り込んだのかもしれない。
不愉快だ。
でも私はそんな感情はおくびにも出さず優しい声でゆうたくんに尋ねた。ゆうたくんは赤い目をしながら顔を上げた。
「喧嘩っていうか。あたしが彼を怒らせちゃったの」
喧嘩になっていないのか。
それがまた私に不愉快な感情を呼び起こした。
小学時代のゆうたくんは、こんな子ではなかった。男子の顔色を窺うような子では。
爽やかで、女子達の人気の的で。
ゆうたくんは言葉遣いや物腰が柔らかかった。しゃべり方はむしろ地方の女の子達より女の子らしかった。だからゆうたくんを目の敵にする男子達は「おとこおんな」と陰口を聞こえるように叩いていた。けれどゆうたくんはそんな男子達にも笑顔を見せていた。
最初の頃はゆうたくんを目の敵にしていた男子達も、あまりの裏表のないゆうたくんの爽やかさに一目置くようになり、「あいつにはかなわない」と言うようになった。最初から勝負になどなっていなかったが。
「彼ね。一年前職場のパーティーで会ったの」
「しょくばのぱーてぃー」
私は繰り返した。職場のパーティーって、実在するんだ。田舎の一般会社員の私は少し驚いた。
思考が飛んだところで、電車が止まった。
「降りるの、どこ?」
私はゆうたくんに尋ねた。ゆうたくんは少し口ごもったあと「まだ先」と言った。
がたんごとん、と電車は再び走り出した。私は隣を見た。
ゆうたくんが私の隣で電車に揺られている。
何か、懐かしいような気持ちになった。
「それでね、あたしってほら昔からボーイッシュな格好が好きだったでしょ。でも、その日はドレスを着てたのよ。社会人として」
「それは綺麗だっただろうね」
私は相槌を打った。
「でね、彼、その時のあたしに一目惚れしてくれたの」
「くれた」
私は再び繰り返した。なんとなく読めてきた。
きっと彼氏とやらは、綺麗系のお姉さんが好きなのだろう。だからゆうたくんは彼の好みの女になろうと今の形態になったのだろう。「あたし、だから頑張ったの。お化粧とかもうまくなったの。でも、今朝『朝っぱらから完璧な仮面付けてられるとうぜえんだよ』って」
「うわあ」
「クソだね」と言おうと思ったが自分を抑えた。物には言い方ってもんがあるだろう。「朝っぱらからそんなに気合い入れなくていいんだよ。僕の前では素のままの君でいて」とか。これもちょっと寒いが。
「でね、あたし悲しくなってすぐにお化粧落としたの。そしたら『あ? どうせまた化粧すんだろ? もったいねえなあ。誰の金で買えた化粧品だと思ってんだ』って」
「うんこだね」と言おうと思ったが、「うん」で留めておいた。
「ゆうたくん結婚してたんだ」
専業主婦にでもなったのだろうか。
ゆうたくんはふるふると首を振った。
「まだね、してないの。でもいずれ結婚するからって、お給料は彼の口座に全部振り込んでるの。あたしはそこからお小遣いもらってるのよ」
これ、やばいやつでは。
私は他人事ながらゆうたくんのことが心配になってきた。
「その彼氏、ちょっとひどくない?」
「うん。わかってるの。ひどいって」
「ねえ、ゆうたくん。別れたほうがよくない?」
結婚詐欺とまでは言わない。結婚するつもりはあるかもしれない。ただ、結婚できたとしても未来はあまり明るくない気がする。
すると、ゆうたくんは目を丸くした。
「やっぱり、りっかちゃんね」
「やっぱり?」
電車が再び止まった。ドアが開く。私たちは出て行く人と乗り込んで来る人をなんとなく目で追ったあと、再び向き合った。
「りっかちゃん、あの時と同じ」
「あの時?」
ゆうたくんは懐かしそうに遠くを見た。実際は電光掲示板が目に入っていたのかもしれないが。
「覚えてないの? あたしが中学受験することになった時」
「えーと」
何かあったっけ? 私とゆうたくんの間には特に交流はなかったと思っていたが。
ゆうたくんはがっかりとした様子で肩を落とした。
「あたしね。小学生の時、りっかちゃんのこと好きだったの」
「は!?」
突然の告白に私は目を剥いた。
いやいや、あの小学校生活の中で好きになるようなタイミング、あった?
私が目を丸くしているのに、ゆうたくんの言いたいポイントはそこではないらしく、話は次に進んでいく。
「だから、中学受験してまた引っ越すのが嫌で。でも両親は絶対中学は都内の私立って」
「じゃあ、行かなければ良かったんじゃない?」
そう返したあと、私は何かが心の中を過った気がした。
ゆうたくんはふふっと空気を揺るがすと、こちらに微笑みかけてきた。
「りっかちゃん、あの時と同じこと言ってる」
あの時。あの時といったら、その時のことだろう。私は思考を巡らせた。
「あー……」
思い出した。
小六の二月。
あの時も私たちは電車に揺られていた。
その朝、私は街中に友達とお買い物に行こうと駅のホームで友達を待っていた。
すると、突然ゆうたくんが勢いよく駅のホームを上ってきた。私は「あ、ゆうたくんだ」と思い軽く会釈をしたあと、再び線路のほうを向いた。
「りっかちゃん、来て!」
突然腕を掴まれた。ぐいぐいと引っ張られる。私が何が起きたのかわからないできょとんとしているうちに、ホームに止まっていた電車の中に押し込まれた。と同時にドアが閉まった。
動き出した景色を見て、私はやっと事態を理解した。
「あ、ごめんね。あたし、こっちに行きたいわけじゃないんだ」
次の駅で降りなければ。
するとゆうたくんは私の手をぎゅっと掴んだ。
「引っ越したくないの」
「ん?」
「都内の中学になんか行きたくない。離れたくないよう」
いつもの爽やかゆうたくんはどこに行ったのかというくらい、ゆうたくんは悲しげに顔を歪めていた。
「え。じゃあ行かなければいいんじゃない?」
何言ってんだ、こいつ、という顔をしていたのかもしれない。ゆうたくんは「そうはいかないの」と訥々と語り始めた。
ご両親の別居で母親の実家があるこの街に来たこと、両親の関係が修復したので元いた東京に戻ること。
いくつも駅を通りすぎ、景色はどんどん見慣れないものに変わっていった。
「そんな簡単なことじゃないの」
ゆうたくんは最後のほうは泣いていた。
私は「色々あって大変だなあ」という気持ちでゆうたくんの語りを聞いていた。
爽やかなゆうたくん。爽やかな仮面の下にはこんなウエットな素顔を隠していたのか。
いや、違うな。ゆうたくんは別に隠しているわけじゃない。どっちもゆうたくんなんだろう。みんなにちやほやされると爽やかイケメンになり、心細くなるととことん弱いという、そういう性格なのだろう。
ある程度語り終わってゆうたくんが涙で濡れた顔を上げた。
「ありがとう、りっかちゃん」
その顔には笑顔があった。
「やっぱり、りっかちゃんは思ったとおりの子だね」
「思ったとおり、って?」
ゆうたくんは立ち上がった。
「優しいよね。あたしに興味ないのに、結局頼られるとつきあってくれるんだよね」
「優しい?」
初めて言われた。
ゆうたくんが歩き出したことで電車が止まっていることに気づいた。
「終点ー、終点ー」
周りの人たちがざわつきながら降りていく。
「初めて目が合った時から思ってた」
心臓がとくんと鳴った。儚げなゆうたくんを守らなければならないような、そんな気持ちが芽生えた。
もしかして、ゆうたくんが私に弱いところを見せてくれたのは、
「お嬢ちゃん、終点」
駅員さんに声を掛けられた。気づくと、私は誰もいない電車の中にぽつんと座っていた。 ゆうたくんの姿を探したが、もうどこにも見えない。私を置いて降りてしまったのだろう。ちょっとひどくはないだろうか。
「お嬢ちゃん、降りて」
困ったような駅員さんの声に私はあることに気づいた。
無賃乗車をしてしまった。
「あ、ごめんなさい。反対方向の電車に乗っちゃったんですー」
焦って言い訳を探し、駅員さんの好意でそのまま元来た方向の電車に乗せて貰えた。
さっき、何かが芽生えた気がしたのだが。
思い出さない。
きっと、その小さな芽は折れてしまったのだろう。もしくはまた土の中に潜り込んでしまったのかもしれない。
「あ」
隣で上がったゆうたくんの小さな声で現実に引き戻された。
「終点ー。終点ー」
もう終点。地方のローカル線は距離が短い。私は隣のゆうたくんのほうを見た。
その目は、真っ直ぐドアの向こうを見ていた。私など目に入っていないように、ただ一点を。
「ゆうか!」
ドアが開くのと同時に野太い声が聞こえた。走っていたのだろう、息が上がっている。
「まさきさん……」
ゆうたくんがふらりと立ち上がる。その赤い唇が「どうしてここに」と動いた。
ゆうたくんが電車を降りると、まさきさんとやらは、ゆうたくんをしっかりと抱き締めた。
「やっぱり実家に帰ろうと思ったんだな」
まさきさんとやらは、ゆうたくんの母方の実家の場所も知っているらしい。
「今朝はごめんな。俺、言葉足らずで」
言葉足らずなのではないだろう。むしろ言い過ぎ、いや、根がクソなのだ。
「いつもこんな俺でほんとにごめん。やっぱり俺にはゆうかしかいないんだよ」
いつもなのかよ。ていうか、飴と鞭。これDV男の典型では。
電車のシートに腰掛けながらゆうたくんとまさきさんとやらを眺める。
ゆうたくんはふるふると首を振った。
「ううん、いいの! 嬉しい、まさきさん!」
私はぎゅっと拳を握った。
良くない。全く良くない。
あんな男じゃ、ゆうたくんを幸せにできない。
あの時芽生えたものは、折れてはいなかったのだ。
今、土の中から再び顔を出し始めていたから。
「すみません、終点ですよ」
「あ」
女子小学生ではないので、今度は簡単には許してもらえなかった。
人生の全てはタイミングで決まると思う。
「お待たせ」
職場近くのカフェ。同期の男性に呼び出された。最近気になっていた彼。先週の土曜日に街中の百貨店で気合いの入ったバレンタインチョコレートを買って渡そうと思っていた彼。
椅子に腰掛けながら彼は照れくさそうに私を見上げた。
「これ、ありがとな」
彼が見せたのは、私が上げたバレンタインチョコレート。家の近くのコンビニで五百円。ブランドものしか残っていなかった。
私は彼の隣に腰を掛けた。
彼はわずかに口ごもってから切り出した。
「これ、期待してもいいってことだよな?」
彼が期待するのも無理はない。私の今までの態度は期待を持たせるのに十分だった。
私は彼ににっこりと笑いかけた。
「あ、ごめんね。それ他の人にも同じのあげたの」
目の前の彼の表情が見る間に曇る。
「ごめんね、あたし小学校の時から好きな人がいるの」
「小学校!?」
彼が目を剥いた。あの日ゆうたくんと再会していなければ、今私の彼氏となったであろう人が。
私は頷いた。
「守ってあげたいの。あの人、あたしがいないとダメなの」
小学六年のあの日、終点までもう一駅あったなら、私たちは両想いになるはずだった。
再会したあの日、終点までもう一駅あったなら、私はゆうたくんをあんな男に渡すことはなかった。
だから明日の土曜日、会いに行こう。都内の家は知らないが、実家ならば知っている。
「小学生って、もうそれ見込みないんじゃ……」
「そうかもね」
私は微笑んだ。
もしかしたら、ゆうたくんはもう私のことを好きになってくれないかもしれない。今の私が彼のことを好きではなくなったように。
でも。
「終点になっても、駅を出て追いかけるよ」
おわり
あの日終点までもう一駅あったなら 山川陽実子 @kamesanpo
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