エピローグ

「どう夕子。治ったかな?」


 両目に押し付けていた保冷剤を外し、愛はパチパチと瞬きを繰り返した。お弁当を食べていた夕子は箸を止め、愛を見やると同時に相好を崩す。


「ぜんぜん。すごい真っ赤だよ。諦めたほうがいいかも」


「はあ、最悪。教室戻りたくない」


「いいじゃん。なんていうかね、うさぎさんみたいでかわいいと思う」


 涙袋を指の腹でなぞられ、愛は力が吸い取られたように夕子の肩におでこを乗せた。コテンとぶつけると、額にひんやりとした感触が伝わる。あれ、濡れてる。訝しげに手で確認すると、その正体に思い当たる節があり愛は苦笑いを浮かべた。

 自分の涙だ。ごめん、とハンカチで肩を拭く。


「私、最近夕子の前で泣いてばかりだ」


「私は気にしてないよ」


「そう言ってくれるのはありがたいけどね、でも、もう泣きたくない。泣くにしても、後悔じゃなくて全部出来ることをやりきって泣きたい」


 まずはこれまで最低な自分を見放さずにいてくれた仲間とちゃんと向き合いたい。もう一学期が終わるけれど、クラスメイトの名前と顔も覚えよう。いまなら母の気持ちに寄り添って話せる気がする。長江親子みたいに一緒に料理なんかしてもいいかもしれない。いつまでも落ち込んでなんていられない。やることはもりだくさんだ。


 そうだね、と夕子がつぶやく。ニコリと細められた瞼からのぞく瞳が、愛を勇気づける。

 肺に残る湿った空気を、愛は空へと思い切り解き放った。あんなに苦しめていた悲しみは、唇から離れた途端あっという間に風にかき消されていった。愛をあざ笑うかのようなそのあっけなさに、身体が軽くなる。


「ところでそれはなに?」


 愛は夕子の影に隠れていた黒い袋に顔を向けた。彼女自身も持ってきていたのを忘れていたようで、「あ、そうそう」と袋を開けた。

 なかから出てきたのは、夕子の好きな仮面ライダーのブルーレイだった。

 彼女から手渡され、その意味に愛は息を呑む。


「オタクの得意技、布教です」


「え、でも夕子、好きなものを共有したくないって……」


「うん。そうだったんだけどね。でも浅葱さんを見てたら、私も一歩踏み出さなきゃなって。いつまでも過去に執着してるものもったいないしね」


「いいの?」


「いいのいいの。それに浅葱さんなら、つまらなかったらつまらないって正直に言ってくれるでしょ?」


「あー、言っちゃうかも……」


「正直すぎる」


 バツが悪く肩をすくめる愛に、夕子が喉を鳴らす。その愉快な声に同じ温度で応じたいのに、全身をくすぐるうれしさと恥ずかしさが愛の唇をまっすぐに引き結んだ。夕子の思いはまさに愛が求めていたもので、こらえていないとまた泣いてしまいそうだ。


「私、浅葱さんにだったらなに言われても受け入れられると思う。臆病だったのは私も一緒だよ。ずっと自分の世界に閉じこもってた。でも、違う視点からの意見を聞いて初めて見えることもあるなって、浅葱さんと料理をしてて思ったの。浅葱さんのアイデアのおかげで、前よりもっと料理をするのが楽しくなったんだよ」


「うっ、褒め過ぎだよ」


「あれ、もしかして照れてる?」


「うるさい。いいからごはん食べよ。ダラダラしてるとチャイム鳴っちゃう」


 はーい、とからかうような声を上げ、夕子はハンバーグを頬張った。

 てっきり愛は夕子から受け取ってばかりだと思っていた。だけど、知らず知らずのうちに自分も夕子に与えていたらしい。

 そう考えると、惨めさと後悔の象徴でしかなかったこのお弁当も意味があるものに見えてくる。


「ねえ浅葱さん。次はなにつくろっか」


 ぱっちりとした双眸にキラキラと高揚を光らせて、夕子は身を乗り出して問いかけた。彼女の口から当たり前のように放たれた「次」という言葉が、なによりもうれしい。


「お弁当はもう練習する意味なくなっちゃったからなあ。どうしよっかなー」


「特に練習したいものがないんだったら、私に決めさせてほしいんだけど」


「いいけど、なにかつくりたいのあるの? というか夕子が練習することなんてあるの?」


 うん。そう控えめにうなずく夕子はどこか神妙な様子だった。ぎこちなく唇が弧にゆがみ、彼女は恥ずかしそうに頬を掻く。その白い喉元が、ごくりと上下する。


「私、ダイエットしようと思うんだ」


「えっ、なんでまた」


「いまより少しでも浅葱さんの隣にふさわしい人間になりたいの」


「そんなことしなくても――」


 愛はスーパーの前で二人の男に絡まれたときのことを思い出した。ああいう外野からの比較や、レッテルやカーストといった見えない線引きに彼女も傷ついていたのだろう。だけど、夕子はずっとかわいくて素敵な人だった。自分も含め、みんなが知らなかっただけで。だから、それを知ろうとしないやつらなんかのために夕子が苦労する必要なんてない。

 そう思い口を開いた愛の手を、ううん、と夕子が制するように自身の手を重ねた。きっと夕子には愛がなにを考えているのかお見通しなのだろう。穏やかに緩めたその表情に、愛が危惧するような不安は一切含まれていなかった。


「ありがと。でも私、自分が納得したいの。浅葱さんはこのままでもいいって言ってくれるかもしれないけど、でもやっぱり、この前の男の人みたいに周りの人はそうは思わないと思う。それを私はいままでしょうがないことだと諦めてたけど、一緒にいたい人ができたいまはそうは思わない。そういう声を完全に無視できるほど、私はまだ強くない。だから、浅葱さんと一緒にいるなら周りから認められる方がいいなって。嫌な言葉に振り回されて卑屈になるんだったら、そんなこと言われる前に痩せたほうがいいと思ったの」


「一緒にいるためにって……。あ、あなたもだいぶ私のこと好きじゃん」


「そうだよ? 知らなかった?」


 感情の渦に呑み込まれ、身体が動かなくなる。うれしすぎてどうにかそれを伝えたいのに、理性が追いつかずなにも出来ないのがひどくもどかしかった。

 視界が熱でぼやけ、いままで気づかなかった蝉の叫び声が途端に脳内を埋め尽くす。感覚のすべてが曖昧で、なんだか都合のいい白昼夢を見ているみたいだった。


 だからね、と夕子が言う。


「次は健康にいいヘルシーな料理を勉強したいなって。浅葱さん、詳しいんじゃない?」


 夕子の意図を理解すると同時に、愛は大きくうなずいた。

 健康に、ヘルシー。かつては忌々しかったそれらで、いまの愛の身体はできている。


「任せて。お母さんに聞いてみる。今度は私が先生だね」


 そうと決まればと二人はすぐに予定を立てた。

 手帳を開くと、今日の日付のところには大きな丸が書いてあった。濃い赤が己の存在を強く主張し、下には「記念日!」なんて微笑ましい言葉が記されている。

 これを書いているときの自分はさぞ浮かれていたのだろう。夏休み目前ということもあって、これからもっと楽しくなると思っていたに違いない。

 まさか命日になるなんてね、とあまりに出来すぎた結末に愛は人生の脚本家を呪った。


 でも、これも必要なことなのだと思う。いまはつらくても、いつの日かこの思いが糧になったりするのだろう。

 苦いものが身体によかったり、食わず嫌いしていたものを実際に食べてみたら大好物になったりすることもある。

 なによりも一番いけないのは、食べずに捨てることだ。無駄を省こうとしすぎるとそのことばかりに気を取られ、結局大事なものまで見落としてしまう。


 お弁当の最後のひとくちを愛は頬張る。

 ここにはいろんなものが詰まっていた。フラれた惨めさに、過去の自分への後悔。そして自身の努力と、夕子との大切な思い出。失敗も楽しさもひっくるめて、そのすべてがこれからの自分の血肉になっていく。きっと人生に無駄なことなんてなに一つないのだ。


「ごちそうさまでした」


 隣で夕子が手を合わせた。美味しかったとその満面の笑みを見れただけで、つくった甲斐があったと心から思える。彼女から空のお弁当箱を受け取り、愛も同じように手を合わせた。ごちそうさま。自ずと礼儀正しくなってしまったのは、いまこの時間が愛にとってとても幸せなものだったからだ。ここに至るまでのすべてのことにふと感謝したくなった。


「あっ、そうだ!」


 お弁当箱をバッグにしまっていると、愛は思い出したように声を上げた。突然の動きに夕子がびくりと身を震わす。その表情に不安げな皺が寄っているのは、おそらく愛が不気味な笑顔を見せていたからだろう。


「いいこと思いついた。夕子、次の休みは私の家に来ない?」


「いいけど、なんか怖い。なに思いついたか知らないけど、それって本当にいいこと?」


 もちろんと、愛が胸を叩く。その自信の大きさに、夕子はますます眉をひそめた。


「夕子がくれたジンギスカン味のキャラメルまだいっぱい残ってるよね。あれをアレンジしてみよう。手を加えたらいける気がするんだよね」


「えー、あれはいいよー」


「でも捨てるのはもったいないんでしょ?」


「まあ、そうだけど……」


「なら決まりだね。あれだってそのままだとかなりまずいけど、絶対になにかしらの使い道があるんだよ」


「わ、私はダイエットしなきゃだから……」


「この薄情者。弟子を見殺しにする気?」


「見殺しって言っちゃってるじゃん! いけるって言ってる人の台詞じゃないよ!」


「もー、つべこべ言わない! 二人で一緒に食べるの!」


「やだー」


 拒絶しているくせに、夕子はいかにも楽しそうに喉を鳴らした。鼓膜を揺らすその素直な声音に、愛の心臓が大きく跳ねる。湧き上がる自尊心にむず痒くなり、こらえきれず愛も笑い声を響かせた。見栄も打算もない、心の奥底から湧き上がる純粋な笑みだった。


 チャイムが鳴った。

 もうすぐ授業だよ。そう言って上から差し伸べる夕子の手を愛はつかんだ。それを支えに愛は地面から腰を上げる。一人なら大変でも、彼女の力を借りれば簡単に立ち上がることができる。


 予報によると、今年の夏は例年より暑くなるらしい。毎年そんなこと言ってる気がするなと、愛は太陽を見上げた。降り注ぐ光の鋭さに、愛は目を眇める。


 いくら予測を並べても、結局過ぎてみなければ未来なんてどうなるかわからない。


 それでもこのひとときが幸福に繋がっていればいいなと、隣にいる女の子を見てふとそんなことを思った。


「行こっ」


 もう離したくないと、愛はつかんだままの手に力を込める。

 繋がった手の先で、夕子が同じ強さで握り返した。




――了――

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三角コーナーに捨てた青春 たまごなっとう @tamagonattooo

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