第13話③

 ああ、またやってしまった。

 自分のなかのくだらないプライドを飼い慣らせなくて、目の前の人間を傷つけてしまう。ヒロのときと同じだ。こうやって愛はいつも大切なものを手放してしまう。

 本当は離れるのが悲しくて、だれよりも愛されたい願望が強い。そのくせ、自分の自尊心が傷つくことばかり恐れ、最後まで素直になれなかった。


 だから、愛は自分の気持ちを全部なかったことにしようとしてしまう。恋人に対してだけじゃない。仲間や周囲の同級生にもそうだった。いつか嫌われるかもしれないと怯え、そんなつらい思いをするならばと愛は自ら距離を置いた。

 弱い自分を見ないようにしていれば平常心でいられた。もし仮に周りから人がいなくなっても耐えられるはずだった。


 でも、実際はこのありさまだ。フラれたショックでなにも喉を通らなくなり、涙なんか流して。びっくりするくらいにありきたりな失恋への反応に笑いそうになる。

 自分はなんにも特別じゃなかった。平凡で弱いままの人間だった。


 きっと心のどこかでこうなることは予感していた。どれだけ強がっていても後悔するって。それでも愛は、我が身のかわいさに手を伸ばすことができなかった。


 だからこそ、今度はちゃんと手を伸ばしたい。あなたが大切だって、自分の気持ちを伝えなきゃいけない。

 弱い自分を見せるのはきっといつだって怖い。受け入れられないかもしれないし、傷つくかもしれない。湧き上がる恐怖に手が震えそうになる。

 だけど、なにもしないで好きな人と離れるのはもっと嫌だ。もうあんな思いは二度としたくない。本当に手放したくないのならば、自らの手で掴みにいくべきだ。


 暗い表情を浮かべる夕子の肩へと、愛はすがりつくように腕を回す。彼女の心地よい温かさに筋肉が緩み、喉仏がひくりと震えた。涙が一気にあふれだし、吐き出す息が嗚咽に変わる。もうどんなに無様でカッコ悪くても関係ない。愛は思いのままに気持ちをぶつけた。


「なかったことになんてできるわけない。本当はフラれるのが怖くて、一人だったらきっとダメになってた。だけど夕子に出会えたから。夕子といると楽しくて、つらいことも忘れることができた。ごめんなさい。また相手の気持ちを考えないまま見栄を張って、同じ間違いを繰り返すところだった。無駄な時間なんて一つもない。私にとっても大切な時間だった。私、この二ヶ月間ずっと夕子に救われてたの」


 本当は心のどこかで気づいていた。これまで愛は時間の無駄だからと、必要のないものを切り捨てようとしてきた。だけどそれはただ単に向き合うのが怖くて逃げていただけだった。都合のいい理由をつけては、愛はそれらを見ないようにした。


 でもちゃんと向き合ってみれば無駄なものなんて一つもなかった。

 どうせその場しのぎの関係だと思っていた仲間は、失恋した愛のために泣いてくれた。しなくていいと思っていた料理もいつしか楽しくなり、そのおかげで母の思いに触れることができた。昔は苦手だった母の料理も、いまの自分の基盤になっている。

 そしてなにより、名前も知らなかった女の子がこんなにも大切な存在になった。そういう意味では、きっかけをつくってくれたヒロに感謝してる。フラれたのはやっぱり悲しいけれど。

 でも、だからこそ愛は自分が平凡な人間だと知ることができた。

 ちょっとかわいいだけで調子に乗って、なにが必要だとか無駄だとか、そういうのを選べる側の人間だと勘違いしていた。愚かだった。そんなこと自分に判断できるわけがないのに。


「そんなに泣かないでよ。ごめんね、ちょっといじわるなこと言っちゃった」


「ううん。夕子はぜんぜん悪くない。ついさっきフラれて後悔したばかりなのにね。ほんとバカだった。ごめん、泣いてばかりで。夕子まで手放しちゃったらって思ったらつい。私、夕子がいなくなったらどうなるかわかんない」


 気持ちが先走って言葉が喉に詰まる。気道を抜ける空気が膨張しているみたいで息が苦しかった。


 泣きじゃくる愛の頭を、夕子があやすようになでている。その手が愛の頬に向かい、肩に埋めてた顔を夕子がグイッと持ち上げた。視線が重なり、彼女はその目尻に小さく皺を寄せた。

 夕子が愛の顔にハンカチを押し当てる。いまの愛の顔は、涙と鼻水によってさぞひどいことになっていることだろう。それでも彼女から手を離したくなくてされるがままに拭かれていると、フフッと夕子の唇から吐息がこぼれた。そこに混ざる愛情の粒子に、愛の身体を蝕んでいた不安が一瞬で晴れていく。


「浅葱さんは、本当に私のこと大好きだね」


「そうだよ。夕子は違うの?」


 愛の問いかけに、夕子はハッとしたように大きく目を見開いた。その唇がもごもごといも虫みたいに動き、ごまかすように愛の髪を乱暴にかき混ぜた。


「よーしよしよし!」


「もー、せっかくセットしてきてるのにぐしゃぐしゃになっちゃうー」


 相手からの好意をわかってる上でする問いかけほど楽しいものはないかもしれない。その反応で相手の愛情の形を見ることができる。じゃれ合いの意味しか持たないやり取りは劇薬みたいに甘く、だけどクセになりそうだ。


 どちらからともなく笑い出す。にじむ汗なんかお構いなしに、揺れる肩を寄せ合った。喉奥で弾けた二人の無邪気な声は、留まることなく風に乗って空に溶けていく。

 時間はあっという間に流れていく。いまという時間が思い出になる前に、愛はこの一瞬を味わい尽くすように大きく息を吸い込んだ。

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