第13話②

「だって……好きだって認めたらつらくなるだけじゃん」


 口を衝いて出たのは、紛れもなく愛の本心だった。見たくなくて、気づきたくなくて、ずっと奥に閉じ込めていた本心。言葉にした途端、堰を切ったように目頭が熱くなっていく。

 そうだ。ずっとそうだった。愛はヒロのことが大好きだった。だから、離れていくヒロの気持ちに傷つきたくなくて、愛は見ないフリをしていた。

 たしかに、初めに好きになったのはヒロからだった。でも、それはほんの最初だけの話だ。見た目だけじゃない彼の魅力に触れていくうちに、愛だって彼のことが好きになっていった。

 ただ、昔の愛は本当に傲慢なやつだった。自分は愛される側の人間だと思っていたし、向こうからフラれるなんて微塵も考えたことがなかった。相手の愛情を一方的に受け取って満足するだけで、恥だからと自分の気持ちを一切伝えようとしなかった。それでも許されると思っていた。


 皮肉にも、彼のことが本当に好きだと気づいたのは別れを察したときだった。だけどそのときにはもう、二人は取り返しのつかないところまで来ていた。こんなことになるならもっと素直に気持ちを伝えればよかった。自分からデートに誘ったり、相手を楽しませようと努力すればよかった。流れ込む後悔はひどくつらいもので、それを受け止める勇気が愛にはなかった。

 だから、蓋をした。告白してきたのはヒロ。自分は好きじゃない。付き合っているのは、周囲への自慢になるから。フラれたくないのは、馬鹿にされたくないから……。

 いくつも並べた醜い自尊心で本音を覆い隠し、愛はそれを見えないところにしまい込んだ。


 外はからりと快晴なのに、吐き出した息はじっとりと湿っていた。もう取りつくろうものもなく、愛は諦めたようにつぶやく。


「夕子の言うとおりだよ。私、ヒロのことすごく好きだった。ほんとは別れたくなんてなかった。でも、私のせいでフラれちゃった。いまさら認めるのが怖くて、ずっと意地張ってた。きっと、こういうところなんだよ。自己中で性格も悪くて、知らないうちにヒロをいっぱい傷つけてたんだと思う。だから、結局他の女のところに行っちゃった。夕子もごめんね、二ヶ月も私のワガママに付き合わせちゃって。ほんと時間の無駄だったよね。初めからこうなることがわかってたんだから、料理なんてしてないで潔く別れたらよかったんだよ。そうすれば夕子にも迷惑かけなかったし、こんな恥かかないで済んだ」


 自嘲じみた笑いが、少しも減っていないお弁当にこぼれ落ちる。いくら時間をかけて思いを詰め込んだところで、届かなければ存在しないのと同じだ。


 愛の髪を梳いていた夕子の手がぴたりと固まる。その不自然さに、伏せていた視線が夕子へと向かった。夕子の表情は真剣そのもので、その眼差しの鋭さに胸がチクリと痛んだ。陽の光を受けて、琥珀色の双眸がキラリと輝く。いつだって透明で綺麗だったその瞳は、いまにもヒビ割れてしまいそうだった。


「それ本気で言ってるの?」


「えっ……」


「浅葱さんは私に無理強いさせたみたいに言ってるけど、私、この二ヶ月間一回も迷惑だなんて思ったことないよ。スーパーで会ったとき、浅葱さんが調理実習でのこと褒めてくれたの覚えてる? 上手だった。詳しいんだねって。あれ私、すっごくうれしかったんだよ。見てくれてた人がいたんだって。だから私、普段だったら自信とかぜんぜんないから断ってたかもしれないけど、浅葱さんがここまで言ってくれるんだったら力になりたいなって、そう思ったんだよ」


 初めて聞く事実に愛は言葉が出なかった。夕子が一緒にいてくれてたのは彼女が愛に合わせてくれていたからと、そう思っていた。

 あの日のことは愛だって当然覚えていた。あのとき、愛の心は折れる寸前だった。自分の居場所はどこにもないと、スーパーで立ち尽くしていた。そんなとき偶然夕子に出会ったのだ。急な頼みにも関わらず受け入れてくれた夕子に、愛がどれだけ救われたことか。


 夕子の手が愛の手の甲に触れる。伝わる柔らかな感触のなかには、どこか力みが混ざっていた。


「最初はびっくりしたよ。だって浅葱さんは美人でいっつもキラキラしてて、一生関わることない遠い存在だと思ってたもん。だけど、話していくうちに楽しい人だなってわかって、クールな見た目とは裏腹に実は年相応な甘えたがりな部分もあったりして、どんどん仲よくなっていくのがうれしかった。それに料理だって。あんなに初心者だったのにあっという間に上手になって、その過程を間近で見れて私は幸せだったよ。初めて浅葱さんがウチに来たとき一緒に卵焼きつくったでしょ。卵は潰すわ、真っ黒なスクランブルエッグになるわ、台所は事故現場みたいになって二人で掃除したよね。それは浅葱さんにとっては忘れたい過去なのかもしれない。でもね、私にとってあの時間は、もう二度と戻れない私だけが知ってる宝物なんだよ」


 そう言って夕子は上達した愛の卵焼きを見つめた。もうそこに初心者の面影はない。愛が切り捨てようとした時間を、彼女は大事そうに抱えている。

 夕子の肩が大きく上下する。吐き出した息は高揚がにじんでいて、微かに震えているようだった。彼女が放ったその熱に、愛は息を呑む。


「浅葱さん、さっき無駄な時間って言ってたけど、本当にこれまでの日々は無駄だったの? たしかに、彼氏さんとのことは残念だったかもしれないよ。でもそうなったら、これまでの時間が全部無駄になっちゃうの? 彼氏と過ごした時間だって浅葱さんにとって大切なものだったんでしょ。料理もあんなに頑張って、せっかくこんなに美味しいお弁当つくれるようになったのに。私は浅葱さんと仲よくなったことが無駄だったなんて思えない。一緒にお昼ごはんを食べたり料理ができて楽しかった。でも、浅葱さんはつらい思い出として、今日までの日々を本気でなかったことにしちゃうの?」


 それは、寂しすぎるよ。


 風に呑まれてしまうほどの小さな声に、愛の喉がひゅっと鳴った。水の膜が揺らめく視界の中心で夕子がうつむく。はらりと垂れた前髪が、彼女の目元に悲痛な影を落とした。いつも愛を支えてくれていたそのやさしい表情は、こみ上げる感情をこらえるようにゆがんでいた。


 ああ、またやってしまった。

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