第13話①
強い日差しのせいか、屋上にはだれもいなかった。柵を背に、愛は地べたに膝を立てて座る。真上から降り注ぐ陽光を遮るものはなく、短く折ったスカートから伸びた太ももが容赦なく照りつけられた。
風が気持ちよかった。前より長くなった黒髪を抱いて、夏の空気が愛の横を通り抜けていく。独り占めするみたいに大きく吸い込むと、愛は喉仏を突き出して天を仰いだ。目に映るすべてが絵の具みたいな青に埋め尽くされ、瞳の上に静かな波がたゆたう。
だらりと伸ばした足の上に、取り出したお弁当を二つ乗せた。食べる気力もないのに、愛はおもむろに蓋を開ける。どちらも中身はほとんど同じで、ハンバーグが一つ多く入っているのがヒロの分だった。
ヒロのためにつくったお弁当。彼はおいしいと思ってくれるのだろうか。彼の味覚を愛はどれだけ把握できていたのだろうか。その答えはもはや想像することしかできない。宙ぶらりんになった愛の気持ちは着地点が見つからないままさまよい、苦味だけが胃のなかで膨れていく。いまさら後悔したところで、あとの祭りでしかなかった。
手つかずのお弁当に肩を落とす。こんなに余らせてどうしようと眺めていると、ガチャリとドアノブの音を耳が捉えた。ドアが開き、そこから一人の少女が顔を出す。愛を見つけた途端、その瞳がニコリと弧にゆがんだ。膝を隠すほど長いスカートが、風にさわさわと翻る。
「夕子」
「隣、座っていい?」
教室での愛の様子を見て、探してきてくれたのだろうか。こくりとうなずくと、夕子は愛の横に腰を下ろした。手に持っていた黒い袋が傍らに置かれる。愛の真似をするように彼女も足を前に投げ出し、そのつま先をパタパタと開閉させた。新品みたいに綺麗な夕子の内履きが、陽の光を吸って白く輝く。
腰を浮かせて夕子の方へと身を寄せると、愛は彼女の肩に頭を乗せた。
下の階の教室からにぎやかな談笑が聞こえてくる。だれの目も届かない、空に囲まれた二人だけの空間に、愛はそっと瞼を細めた。
「ねえ夕子、私フラれちゃった」
「うん」
「お弁当も、無駄になっちゃった」
「うん」
「夕子はさ、私が彼氏の胃袋を掴むために料理を練習したいって言ったとき、『青春アニメみたい』って言ったの覚えてる?」
「覚えてるよ。私はいままで家族以外のだれかを思って料理をしたことがなかったから、キラキラしてて素敵だなって思ったよ」
「夕子には黙ってたけど、私、彼氏とうまくいってなかったんだ。夕子と話すようになるより、もうずっと前から。一緒に帰らなくなったし、話したりLINEをする頻度も減ってさ。だから手料理でもつくっとけばよりを戻せるかなと思って、夕子に教わろうとしたんだ。安直でしょ? 胃袋掴みたいなんて健気なこと言ってたけど、あれは嘘。初めから打算にまみれてて、キラキラなんて言葉で表せるような綺麗なものじゃなかったの。まあだからかな、結局こうなっちゃったんだけどね」
お弁当箱を見やり、愛は自嘲じみた笑みを浮かべる。
もう無駄になっちゃったし捨てちゃお。そう言って蓋を閉めようとする愛の手を、夕子がやさしく制した。
「せっかくつくったのにもったいないよ。もしよかったら私にちょうだい。浅葱さんも一緒に食べよ」
蓋で隠そうとしたお弁当のなかには、ぎゅうぎゅうにおかずが敷き詰められていた。おかかチーズの卵焼きに、ケチャップソースで和えたハンバーグ。全体の味がくどくならないようポテトサラダはマヨネーズではなくハーブソルトであっさりと味付けしたマッシュポテト風に仕上げ、栄養価の高いブロッコリーは蒸してそのまま入れた。ハンバーグと一緒に食べたらちょうどいい濃さになる計算だ。
行き場を失ったこの手料理は、独りよがりの自意識と拒絶された恥そのものだった。だからいち早く捨てたかった。彩り豊かな見た目は浮かれていた自分を表しているようで、よりいっそう愛を惨めにさせた。
しかし、夕子は一切引こうとはしなかった。有無言わせぬ圧に押され、愛はヒロの分をしぶしぶ彼女に渡す。箸を手に取り、二人並んで手を合わせる。
「いただきます」
自分がつくったお弁当は我ながらとてもよくできていた。当然だ。これをつくるために愛は約二ヶ月も料理を練習してきたのだ。買い物もろくにできず、卵を潰して割っていた過去を思うと奇跡のようだ。だからこそ、やるせない。
少しつまんだだけで愛の箸が止まる。お弁当箱が急に重たくなり、愛は力が抜けたように太ももの上に置いた。
フラれてからずっと胃の奥に不快感がこびりついている。その対象はヒロじゃなく、たぶん自分自身だ。走馬灯のように過去の言動が愛の脳内を駆け巡っている。そこに映る自身の姿は常に周囲を見下していて、ひどく醜く愚かに見えた。高飛車で自信家、なのにどこか不安定。自身の幻影が過去から手を伸ばし、愛の首に手をかける。記憶はすぐそこにあるのに、過ぎた時間はもう触れることさえできない。その事実に呼吸が苦しくなっていく。
渦巻く感情を吹き飛ばすように、ふっと嘲笑混じりの吐息を吐き出す。天に身を捧げるように腕を大きく伸ばすと、愛は意識して「あー」と明るい声音を鳴らした。陰鬱とした空気にこれ以上耐えられそうになかった。
「まー、別にいいんだけどね、告白してきたのは向こうだし。顔がいいから付き合ってみただけで、もともと好きだったわけじゃないからね。フラれたのはちょっとムカつくけど」
笑顔の形を成す唇から発せられた声は、いまにも壊れそうなもろい響きをしていた。口にするにはあまりに惨めな台詞は軽薄で、他人事のように自身の耳を通り抜けていく。
無意識にスカートを握り締めると、くしゃりとプリーツに皺が寄った。指の周りに生まれた隆起が影を集め、藍色の生地がそこだけ黒くなる。
夕子は箸を置き、うん、と静かにうなずいた。ニコリと愛が微笑みかけるもその表情は無表情なままで、なにを考えているかわからない。
「あーあ。ヒロと一緒にいてつまらなかったわけじゃないけど、他の女に取られるんだったら付き合ったりするんじゃなかった。これで周りから『浅葱愛はフラれた』って思われるのほんと最悪。あー、まじでもったいない時間を過ごしたなー。でも、次はもっといい彼氏を見つけるんだ。それで見返してやるの」
「大好きだったんだね。彼氏さんのこと」
ぽっかりと口が開いた。ズレた反応に間の抜けた声がこぼれる。不快感をあらわにする愛をよそに、夕子は真面目な表情のままごはんを口に入れた。
「いやいや、話聞いてた? 好きだったのはあっち。私はフラれたあとのことがめんどくさかっただけで、好きじゃなかったんだって」
「ちゃんと聞いてたよ」
「じゃあなんでそんなこと夕子にわかるの? 私、夕子にヒロのことあまり話したことないよね」
「うん。だから詳しいことはわからない。でも――」
言葉を切り、夕子はお弁当箱へと視線を落とした。その丸みを帯びた側面を、夕子の親指が愛おしそうになでていく。
「このお弁当食べたら違うってわかるよ。だって、こんなにも浅葱さんの気持ちが詰まってるんだもん。好きじゃない相手に絶対こんな料理つくれないよ」
違う? そう夕子が愛の内側に語りかける。心のもろい部分に直接触れられ、愛は反射的に口を開いた。
「ち、ちがっ――」
違う。そう強く否定しようとした喉は、愛の意思に拒否反応を示すように固まった。夕子の手がまっすぐに愛の頭へと伸びてくる。お弁当箱をなでていたときと同じ手つきで、彼女は手のひらを愛の髪に滑らせた。
触れた箇所からぴりぴりと全身にしびれが巡っていく。肌を伝うくすぐったさに愛は身をよじった。頭皮越しに感じる彼女の体温が、見栄で強張っていた愛の意識を柔らかくしていく。
ひくりと、喉の奥で情けない音が鳴った。まただ。また夕子に当てられて、愛は弱い部分をすべてをさらけ出してしまう。
「違わない、……と思う」
「でしょ。強がらなくてもいいのに」
「だって……、好きだって認めたらつらくなるだけじゃん」
口を衝いて出たのは、紛れもなく愛の本心だった。
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