別れのないさよなら

嶌田あき

別れのないさよなら

 2点を追う最終エンド、後攻のラスト1投。泣いても笑ってもこれでおしまい。スポットライトで輝く氷と、半袖からのびる彼の熱っぽい腕。私はストーンの裏をいつもより入念に磨いた。

 ハウス中央の相手の石を弾き出して私の石が留まっても、1点。それじゃ勝てない。

「ねぇ、これってさ?」

 私が言うと、彼は何かをはぐらかすように笑った。

「――大丈夫。この先は知ってるよ」

 彼がこう言ったときにはもう心配ない。この予知みたいな能力に、何度も助けられてきたことか。

 カーリングは氷上のチェスと言われるけどむしろ囲碁だと教えてくれたのも彼。40メートル先の円形の的「ハウス」に入れた石のうち、中心に近い順に数えていって相手の石より内側の石の個数が点数になる。相手チームと交互に5投してハウス中央の陣地の大きさを競うけど、相手の石を弾き飛ばしてもいいのは囲碁と違う。

「――奇跡って、あるんだね」

 彼に聞こえないように小声でつぶやき、ゆっくり目を閉じる。ハウス中央に相手の石が2個、外縁3時方向には私たちの石が2個の並び、知ってるんだ。ケンは忘れてるだろうけど。

 4年前の全国選手権の決勝も、2点を追う最終エンドだった。両親も祖父母も元選手という生え抜きカーラーの彼と、その幼馴染でただの負けず嫌いの私。4人制チームからあぶれた者同士の一時的なペアのつもりが、いつの間にかミックスダブルス専任に。ちぐはぐな私たちの唯一の共通項は諦めの悪さだった。

 このときは相手の石を2個とも弾き出して逆転優勝を決め、それ以来、私のラスト一投は「サヨナラショット」なんて呼ばれるようになった。最終回で後攻チームが決勝点を上げるとそこで試合終了だからという日本の野球用語が由来だと彼に教わった。


「大丈夫。きっとうまくいく」

 彼の声で我に我に返った。

「ううん」

 どうして? 彼は戸惑った表情を浮かべ首をかしげた。

「石が手から離れたら、もう元に戻れない気がして」

 私たちは、4年前に思い描いた4年後にたどり着けなかった。

 彼が認知症を発症した。高効率トレーニング用の脳電融合チップが原因らしいけど、よく分からない。日時の錯誤に始まり、次第に場所や人の認識も怪しくなった。病状が行きつ戻りつしながら進んだせいで、私は何度も「君は誰?」と言われる絶望を味わうハメになった。

 ケンはもういない。体は存在していても心がいないのだ。手の届く距離にいるのに会えない孤独。たぶん死別のほうがマシ。グッバイを言えずに別れることになったのを、私はずっと後悔していた。

 以前と同じ関係を保とうとして、私はどんどん追い詰められていった。隣りにいるのが当たり前。別に恋が芽生えるとかそういうんじゃないよねって2人で笑いあう居心地よさを、失ってから気づくなんてバカだ。昔に戻りたい。出会ってなかったんだ。そう割り切ろうとしたときに限って彼は昔の話をして私を困惑させた。時折「この先は知ってる」なんて予知めいたことを呟くのも怖かった(しかもよく当たる)。

 氷上では病気の進みが遅い気がして、渋る彼を説得してペアを続けた。あの日と同じ強烈な体験をすれば何か思い出すかもという一縷の望みをかけ、MODカーリング「Sayonara」の世界大会に挑んだ。

 MODは新アイテムの追加やローカライズ、ゲームバランス調整といったスポーツの楽しみ方を広げるルール改定のしくみで、eスポーツが源流だ。長らくアングラだったけど、高粘性水泳「レイノルズ」と多球多腕テニス「阿修羅」という超人気MODが公式採用され一気にメジャーに。git管理やAI審判の普及も貢献したらしい。

 お目当てのルールがあった。試合中1回だけ許される「サヨナラ」宣言で石が再配置されるというものだ。新しい配置は過去ログからランダムに選ばれ誰にも予想がつかない。運要素と戦略性のバランスがよく、オリンピック名場面が再現されたりプレイヤーとファン両方に人気のMODだった。


 辛くも勝ち進んだ決勝戦の最終エンド。相手チームの「サヨナラ」宣言で現れたのは、偶然にも4年前の全国選手権の決勝の配置だった。

「いく」

 ハックを蹴って滑り出す。これが彼を取り戻すショットになる。

 お腹にぐっと力をこめ、いつもの呼吸でストーンを放す。すぐに、ほんのわずかに速度が足りないとわかる。

「ヤーッ!」

 私の叫びより早く、彼は力いっぱいスイープを始めていた。石の配置はあの日と同じでも、氷の状態は違う。試合で使われたライン、表面のペブルの溶け残り具合、室温、湿度、全部考える。

 彼の後につき私も力いっぱいブラシを擦る。あの日と違う世界線、同じアイコンタクト。もう石は動き出してしまった。

 ――大丈夫。この先は、知ってる。

 また彼が笑ったように見えた。

「ヤァッ、ヤーップ!」

 足の裏に感じる振動と、疲れで重くなるブラシ。上腕が熱を帯びていくのがわかった。

 ハッ、ハッ。

 2人で呼吸を揃えリズムよくブラシをかける。背後から迫るガードストーンの圧。少し触れてもアウトだ。

「ヤーッ!!」

 歯をくいしばってブラシに全体重をかける。最後の悪あがきだ。さすがにダメかも。弱い自分が出てきては、もう諦めようと何度も誘った。

「んああっっ」

 ギリギリでガードの石をかわした!

 まだ気は抜けない。

「ちょっと厚いかも」

 彼が振り返り、眉を下げた。

 問題は角度だ。このまま正面から当てて弾くと、相手の石は後の石に阻まれ1個残ってしまう。反対に、石の横腹を掠るように薄く当てる3時方向に飛んだ石が私たちの大事な石もハウスから弾き出してしまう。

 少しスピードが落ち石が進路を曲げ始めた。私はスイープを止めるタイミングを慎重に見計らった。なにしろ石は重さ20kgもあるくせに、氷に髪の毛一本落ちていても軌道が大きく変わってしまうほど繊細でもある。

「ウォー」

 私の合図で彼の手がピタリと止まる。もう物理法則に任せるほかない。

「おねがい」

 祈るような気持ちで石の行方に目を凝らす。

「未来を変えてくれ!」

 彼が不思議なことを叫んだ次の瞬間、ストーンは完璧な角度で目標に滑り込んでいった。

 コーン、コーン――。

 乾いた衝突音を響かせ、ひとつ、またひとつと相手の石がハウスの外に弾き出された。3時方向に飛んだ石は狙い通り2つの石の間を通り抜け、私たちの石は全てハウスに留まった。3点だ。

「やった」

 信じられない。膝が震えた。

 すぐに彼の元へと飛んでいきハイタッチを求めると、彼の手がぐいと強く私の身体を引いて離さなかった。

「ど、どうしたの?」

 彼の真剣な眼差し。

「……これで、君を救える」

 明らかに普段と違う口調。「信じられないかもしれないが」なんて前置きしてから彼は語り始めた。

「落ち着いて聞いてほしい。俺は10年後の俺だ。うまく説明できないが、未来から意識だけを送っている」

 声は堅く、一点を見つめる目は真剣そのものだった。時空の位相欠陥とか、アインシュタイン=ローゼン橋と量子もつれとか、必死に説明してくれたけど、ぜんぜん頭に入ってこない。

「分かんないよ……」

 私が言うと彼は大きな深呼吸をして続けた。

「10年後、君は認知症を発症する。脳電融合チップの不具合が原因で」

「そんな……」

「遠因は、この大会で優勝を逃した君はカーリングをやめたことなんだ」

「ちょ、ちょっと待って」

「だから試合に勝てばと思って」

 彼は転送に4年もかかってしまったことをわびた。そんなことどうでもいいよ。認知症のように見えた症状は、転送負荷から脳を守るための一時的な麻酔みたいなものらしい。

「もちろん、こんなことをしても未来は変わらないってわかってる」

「ならどうして?」

「伝えたいことがあって来た」

 あ、そっか。逆だったんだ――。

 私の心の中で、ストーンが乾いた音を立てて弾けた。

 4年前彼が私の元を去ったように、未来では私が彼の元を去ることになるのだ。グッバイも言わずに。だから彼は。

「君に、さよならを言いたくて」

 うつむく彼。ゆっくりと彼の頬を両手で包むと、瞳から大粒の涙が溢れだした。

 不安、驚愕、歓喜。

 ハウスに散った石みたいに、気持ちをどこに置けばいいか分からない。ただ彼の瞳を見つめる。そこには、紛れもなくケンがいた。

「ああ、」

「ごめん。伝えたいのはそうじゃなくて……。ありが」

 もう何も言わなくていいよ。彼の唇を私の唇で強引に塞いだ。

 未来はまだ来ていない。過去は過ぎ去ってしまった。現に在るのは現在だけ。私の今が溢れ落ちないよう、つよく唇を押し当てる。

 一度でいいから、恋人になってみたかったな。

 離れたくなくなる、と彼が私の身体を軽く押した。

「リサ」

 名前を呼ばれるの、好き。

 笑顔も好きだよ。

 頼りになるスイープも、諦めの悪いところも、ぜんぶ素敵。

 あなたが忘れても、私が忘れても、どっちでもいい。大丈夫。また出会って、ペアを組もうよ――。

 だから。

「さよなら」



 それから4年後の大会は念願のホッカイドー開催。認知障害から回復したケンは、ここぞとばかりに日本のことをたくさん教えてくれた。

 さよならは「左様なら」。別れの痛みを「そうであるならば」とあるがままに受け入れるのだという。なんて素敵な言葉だろう。グッバイでも再見でもなく、さよならは現実を受け入れる。

 10年後がどう変わるか分からないけれど、私は愛しい人の隣でカーリングを続けてる。この先にあるのが喪失だとしても、私は曖昧よりさよならを選ぶ。

「さよなら」

 いつもの呼吸でストーンを手放すと、すぐに彼の背中を追った。

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