エピローグ

エピローグ

 放課後を告げるチャイムが鳴ってから三十分が経過した。僕は自分の席に座ったまま、一歩も動けずにいる。

 今日も降りしきる雨の音を聞きながら、教室の壁掛け時計を見つめて悶々と悩んでいた。

 図書室に足を運ぶか、否か……。

 背中を丸め、額を思い切り机に擦りつけた。少し痛い。痛いけど、気を紛らわすのにちょうどいい。

 一体、僕は何をやっていたのだろうか。昨日の夜から現在に至るまで考えていたことを、改めて思った。

 結局、斬鴉さんの記憶は毛ほども戻らなかった。それはまだいい。そこについては端から、自分にどうにかできるとも思っていなかったのだ。少しの可能性として戻ればいいと、そう思っていただけのことだ。

 しかし、夏凛さんとの関係を気まずいものにしてしまったのは間違いない。おまけに、彼女が最後まで庇った青野さんもこれからどうなるかわからない。天海さんのことにしても、知らない方が幸せだったかもしれない。

 僕はただ、斬鴉さんに斬鴉さんらしくいてほしかっただけなのに。昨日と今日で、随分と状況が変わってしまった。

 僕はどんな彼女でも受け入れるけれど、あの人を傷つけたかったわけではない。……あんな悲しそうな表情をする斬鴉さんは、見たことがなかった。

 あの表情を思い浮かべる度に、自分のしたことの是非について悶々と考えてしまう。

 何度目かわからないため息を吐く。

「ため息、十六回目」

 どうやら十六回目らしい。後ろでそんなニッチなことをカウントしてくれているのは、もちろん我らがソーイチ君だ。そんなことをするくらいなら、僕がたそがれている理由を尋ねてきてほしいのだが、ソーイチ君に過度な期待をするのは愚の骨頂というのも理解している。そもそも、僕が自分から相談すればいいことなのだ。

 身体ごとソーイチ君の方を振り向いた。

「お、やっと何に悩んでいるのか教えてくれるの?」

「……一昨日話した斬鴉さんの件だけどさ、よく考えたら余計なことしかしていなかったんじゃないかって、反省してるんだ。斬鴉さんの心を、無駄に傷つけただけかもしれない」

 事態が好転したかといえば、そりゃあ好転はしただろう。一番の不安要素であった犯人の動機が勘違いであったことがわかったのだから。けど、それと引き換えに、斬鴉さんは多くのものを失った……いや、失ったことを自覚してしまったのだ。僕が事件の推理をさせなければ、それに気づくこともなかったのに……。

 気落ちする僕に、ソーイチ君は笑いかけてきた。

「それは光ちゃんがそう思っているだけでしょ? 夜坂先輩本人が言ったわけじゃない」

「それは、まあ、そうだけど……」

「一番大事なのは当人がどう思ってるかだよ。光ちゃんが落ち込むのは、夜坂先輩の気持ちを知ってからでも遅くないんじゃない?」

「ソーイチ君……」

 彼はふっと得意げな笑みを浮かべた。

「一昨日は僕の気持ちが一番大事とか言ってなかった?」

「あれ、そうだっけ?」

 笑顔ですっとぼけるソーイチ君。

「何も考えずにノリだけで話すペラペラした人間性が、そういうダブルスタンダードを発生させるんだよ」

「なんで急にそんな手厳しいこと言うのさ」

 とはいえ、ソーイチ君の言うことも、尤もではあるのだ。自分と相手、どっちの心情を優先するかなんて、時と場合によるのだから。

 僕は脱力して天井を仰いだ。

「昨日のことは斬鴉さんにとって、どんな栞になるのかなあ」

「栞?」

 何の気なしに呟いた僕の言葉に、ソーイチ君はきょとんと首を傾げた。

「なんかさ、記憶は本で思い出は栞らしいよ」

「ああ、みたいだね。文芸部うちの部長がよく言ってるよ」

「……その話、詳しく」

 まさかの展開に唖然としてしまう。ソーイチ君は腕を組み、

「部長が一年前に、『私がこの学校にいた証を刻みたい』とかって理由で何かいい感じの言葉を作って流行らせようとしたんだって。そのプロジェクトの最高傑作がその言葉。口癖のように言ってたら結構流行ったみたい。意味深な言葉だけど、三年生の間では『きおほん、おもしお』と略されるくらいにはライトな言葉として浸透してるらしいよ」

 ……そんなしょうもないルーツを持つ言葉を、僕と斬鴉さんは重要ワードの如く扱っていたのか。だからたぶん、夏凛さんも斬鴉さんに軽い気持ちで言ったのだろう。妙な脱力感に襲われる。

 十七回目のため息を吐き出し、気合を入れて立ち上がった。バッグを肩にかける。

「図書室いってくる」

「うん。それがいいと思うよ」

 ソーイチ君の爽やかな笑みに見送られながら、僕は教室をあとにした。


       ◇◆◇


 重い足取りで廊下を歩き、やたら時間をかけて図書室の手前までやってきた。どんな顔をして、どんな会話をすればいいのだろうか。いつものように妙な小ボケをすればつっこんでくれるだろうか。心の中で斬鴉さんの愛すべきポイントを挙げていけば、気持ち悪いこと考えてるなと吐き捨ててくれるのだろうか。

 もしかしたら僕が考えすぎているだけで、斬鴉さんはいつも通りかもしれない。もしそうなら僕も普段通りいくべきだが、昨日と一昨日が濃すぎていつもの接し方ができる自信がない。……考えすぎたら駄目だな。脳天気かつマイペースで絶妙に空気読めないのが僕だと、ソーイチ君も言っていたではないか。それがいつもの僕なのだとしたら、考え込んでいてはかえって自分を見失う。

 扉の前で深呼吸をして、ゆっくりと開いた。

 室内には学術書の本棚の前をうろつく男子生徒がいるだけで、他には斬鴉さんしかいなかった。

 斬鴉さんはいつものようにカウンターに座って文庫本を読んでいる。違うところがあるとすれば、文庫本にも布製のブックカバーを使っているという点だ。

 一瞥もくれない斬鴉さんにほっとしつつも少し悲しくなる。

 僕は当番記録に名前を書き込むと、斬鴉さんの隣におずおずと座った。謎に姿勢をよくしてしまう。

 どうしよう。普段何してたっけ? あ、何もしてないや。

 ここにきて手持無沙汰になっていると、

「遅かったな」

 文庫本から目を離すことなく斬鴉さんが呟いた。……はっとなる。

「僕のこと、待ってたんですか?」

「お前は、あたしのあらゆる言動を気持ち悪く曲解できそうだな」

「うっ」

 本当にできそうな自分にどん引きしてしまい、反射的に呻いてしまった。……でも、これがいつも通りだったな。

 こほんと咳払いしつつ、身体を斬鴉さんに向ける。まずは何はともあれ、謝罪しなければならないだろう。

 僕は深く頭を下げた。

「なんか、色々とすみませ――」

「ありがとな、古町」

「ゲホッゴハッ」

 予想外の言葉に咽せる。呼吸を整えると、文庫本に目を落としているだけで、読んではいなさそうな斬鴉さんを見つめる。

「ど、どういうことですか?」

「お前のおかげで、色んなことに向き合えた」

 斬鴉さんは天海さんの栞を文庫本に挿んだ。椅子の背もたれに身体を預けると、小さく息を吐いて天井を仰ぐ。

「あたしは過去の自分を恐れて、失った記憶から逃げていた。自己中だよな……。自分の過去は、あたし一人だけのものじゃないってのに。お前も言っていたっけか」

 彼女は自嘲するように吐き捨てる。

「そんなこと、頭ではわかっているつもりだったけど、結局は……あたしは自分が怖かっただけだ。自分のことしか考えてなかった。口ではああ言っていたけど、実際は、母さんや亡くなった父さんはもちろん、夏凛や青野、他の図書委員の連中、天海の思いからも目を逸らしていた。もちろん、古町の思いからもな。……現在いまの自分を傷つけないために、過去の自分を傷つけていただけだった」

 過去の自分から目を逸らすことは、現在の自分からも目を逸らすこと。現在の自分を守ることは、過去の自分を痛めつけること。過去も現在も、どちらも自分なのに……。結局、自分が傷つくだけなのに。

 斬鴉さんがカウンターに目を落とした。ちらりと僕の顔を見てくる。

「古町が向き合わせて、それから、信じてくれなかったら……いつか記憶を取り戻しても、きっと、もっと、傷つくはめになっていた。過去を知ろうともしなかった、自分を見てな。だから……」

 斬鴉さんの頬に赤みがさしたのを、僕は見逃さなかった。

「……あ、ありがとう」

 自分の顔がにやけていくのがわかった。同時に斬鴉さんの表情が不快げなものになっていくのも見逃さない。

「すみません。今のくだり、最初から最後までもう一回お願いします」

「過去一気持ち悪いぞ、お前」

「わかってますよ。それでも尚、頼まずにはいられんのです」

「本当に気持ち悪い」

「きおほん、おもしお。今最高にきおほんおもしおです」

「何だそれは」

 もう僕と話したくないのが伝わるほどうんざりした声音の斬鴉さんから、これからも変わらない日常が続いていくことを確信する。

 斬鴉さんは頬杖を着くと、表情をいつもの番人のような真面目なものに変えた。

「そんなことより、気づいているか?」

「え、僕の気持ちにですか?」

「そんなことよりって言ったよな」

 斬鴉さんは依然として学術書の本棚の前をうろうろしている男子を睨みつける。声を潜め、

「あいつさっきから、これじゃないなあ、みたいな感じで、首を捻りながら本を出し入れしてるだろ」

「そうですね。それがどうかしたんですか? 本を探しているだけでしょう」

「ところがあいつは、取り出した本をもとの位置に戻さずに、わざわざ本二冊分右にずらして戻しているんだ。……ほら」

 男子が厚みのある本を取り出すと、釈然としなさそうに首を振り、本棚の隙間に空いた手を伸ばして本を二冊右にずらすと、取り出したものを本棚に収めた。……本当だ。本を抜き出した際にできた隙間の位置を、わざわざずらしている。

 自分の顔が訝しげに歪むのを自覚する。

「なんであんなことを?」

「堂々とやらずに、本を探しているだけ感を醸し出しているあたり、よからぬことなんだろうな」

 僕はさらに声をひそめた。

「どうします?」

「よからぬことなら、咎めるしかないだろ。けど今の段階じゃ、ただ本を出し入れしているだけだ。取り締まるには大義名分が薄い」

 ならば、僕たちのやることは一つ、か。……考えるしかあるまい。彼が何を企んでいるのかを。

 僕は苦笑してしまう。こういうの、もう何度目だろうか。

「どうして僕たちはこんなことばかりやっているんですかね……」

 斬鴉さんはにやりと笑った。

「決まっているだろ。あたしたちが、図書委員だからだよ」


 どうやらこれからも、僕の図書委員としての本には、事件の栞ばかり挿まるらしい。

 でも、斬鴉さんと一緒なら、悪い気は微塵もしなかった。

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図書委員の事件のしおり 赤衣カラス @nu48

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