誰も知らない物語

 もう七時を過ぎた。僕と斬鴉さんは、青野さんの家の最寄りのバス停のベンチに座っていた。まだ雨は降っているが、屋根が設置されているので一息つけている。時折暗い道路を、ヘッドライトを点けた車が通り過ぎていく。

 僕たちの間に会話はない。昨日と今日だけで、斬鴉さんとの沈黙を何度も体験したけれど、今回のそれはこれまでで一番重苦しいものとなっていた。

 事件の謎は解明された。謎の文庫本の正体もわかり、栞やブックカバーとともに取り戻すことができた。斬鴉さんを突き落とした犯人もわかった。本来ならば万々歳である。

 けれど僕たちは、何の感慨も得てはいなかった。僕個人としては、斬鴉さんを取り巻く環境がマイナスからゼロに戻った、プラスになったとまでは言わないまでも、一歩くらいは進んだのではないかと考えていた。しかし、暗い表情で黙りこくる斬鴉さんの姿を見ていると、そんなことを言う気力も、そんな浅はかな考えも失せてしまった。

 斬鴉さんの右手には、単行本のブックカバーと同じデザインのブックカバーを被せられた文庫本がある。本の天から、厚紙を巾着で包んだ御守りのような形状の栞が飛び出ていた。あの日、文化祭のときに見たブックカバーと栞だ。

 その布製のブックカバーから、白い紙のブックカバーの端が僅かにはみ出している。斬鴉さんが布製ブックカバーを外すと、『タイトルを当ててみよ』とマジックで記された手作り感溢れるブックカバーが露わになった。

 青野さんは謝罪とともにこれらを返却してくれた。僕は思い出したように言う。

「自首するって言ってましたけど、本当なんですかね」

「さあな。どっちにしろ、被害者のあたしに止める義理はない」

 それもそうではあるが……。

 果たして、沈黙を破る話題がこれでよかったのだろうか。

 時刻表とスマホに表示した時間とを照らし合わせる。あと、十五分といったところか。これが、こんな微妙な雰囲気でなければ、大歓迎なのだが……。

 手持ち無沙汰になり、ベンチに座る姿勢を正していると、

「古町は、あたしが昨日、謎の文庫本の推理に納得しなかった理由に気づいていたか?」

 それは、この事件最後の謎と言っても差支えがないものだ。

「すみません。恥ずかしながらさっぱり……」

 考えてはみたが、結局よくわからなかったのだ。

 斬鴉さんはふっとほどけたように笑った。

「まあ、そうだろうな」

 我ながら情けない。それを取り繕うように、

「それは青野さんの話に反論できなかったことにも、関係しているんですか?」

 斬鴉さんはこくりと頷いた。これで多少の面目は保てただろうか。

「一体、どういう事情があったんですか?」

 緊張の面持ちで尋ねた。

 斬鴉さんは開いていた文庫本ののどを人差し指でなぞりながら、

「このブックカバーと栞は転校前のプレゼントだろうが、文庫Xは流石に違う。そんな長時間本を熟成させるわけないし、布のブックカバーを被せて渡せば、紙のブックカバーの必要はなくなる。郵送で贈られたものだと考えるのが妥当だ」

 僕は頷いた。端からそう考えていたのだ。

「それが、どうかしたんですか?」

 僕が首を傾げると、斬鴉さんは間髪入れずに告げる。

「昨日も言ったが、あたしは天海連介なんて名前は知らなかった。家のものを片っ端から調べたが、過去の自分を理解できるものが何もなかったことは言ったよな」

「はい……」

 おずおずと頷く。

「……なかったんだよ。

 つい疑問符を浮かべてしまった。

「それが、どうして自信の喪失に繋がるんですか?」

「だってそうだろ。本を勧められたら読んだ感想を言いたいし、勧めた方も欲しい。けど、。本の梱包袋は確実に受け取ったはずなのに……。それがあれば住所に手紙を送れる。けど、そんなものはなかった」

 力なく呟く斬鴉さんの言いたいことがわかった。文庫Xが天海連介さんから送られてきたものだとしたら、本来あるはずの彼の痕跡が何一つなかったから……。

「お母様が捨てた……とかは?」

「娘のものを勝手に捨てる親じゃない。短い付き合いだけど、それくらいわかる」

 十七年間育ててくれた親に対して、短い付き合いと言う……どんな気持ちなのか。察するにあまりある。

 斬鴉さんはそっと本を閉じて、背中をぐっと伸ばした。

「記憶に自信があるからって、正解を保管しないなんてことないだろ。だから自分の真意が読めなくて、青野に何も言い返せなかった」

 僕はしばらく、何と声をかけるべきか悩んだ。かけられる言葉なんてあるはずもない。……だからこそ、思っていることを口にした。

「大丈夫ですよ。斬鴉さんのことですから、何か、感想を送る手立てがあったに違いありません」

「お前はそればっかりだな」

 呆れたように苦笑する斬鴉さんに笑いかける。

「言ったでしょう。あらゆる期待をしまくるって。僕の思う斬鴉さんは、そういう人なんです。……少しだけ、考えてみませんか?」

 僕の言葉を受けて、斬鴉さんは大きく息を吐くと文庫本を腿に乗せた。

「……そうだな。昨日、お前を信じるって、言っちゃったしな」

彼女は目を瞑って腕を組む。

「連絡先がどこかに書かれているとして、それは記憶喪失前には持っていたんだ。けど、記憶を失った時点ではどこかに消えていた。そしておそらく、天海から譲られたもの……」

 情報をまとめてみると、かなり限定的かつ具体的だということがよくわかった。

 僕たちの視線が同時にあるものへと注がれた。文庫Xから頭を飛び出させた、御守りのような栞に。

 栞は御守りのような形状だけあって、てっぺんが萎んで紐で閉じられている。斬鴉さんは慌てて栞を抜き取ると、紐を解いて口を開いた。指を突っ込んで、細長い厚紙を何度も布に引っ掛けながら取り出した。

 僕たちは一斉にそれを覗いた。

 斬鴉さんがゆっくりと目を見開く。……栞に書かれていたのは、短いメッセージと十一桁の数字、そしてメジャーな県の知らない土地の名前と番地だった。


『いつか連絡くれ』


 ……ここにあったのだ。天海さんの連絡先も、過去の斬鴉さんを知れるものも。しかし、全て、記憶と一緒に失ってしまっていた。

 斬鴉さんが長い息とともに、大きく肩を落としてうなだれた。そして、彼女らしくない弱々しい声で呟く。

「本当に……何なんだろうな……。昨日名前を知ったばかりの、顔も知らない奴なのに……どうして、こんなに……」

 斬鴉さんと天海さん。二人がどんな本を作り、そこにどんな栞を挿んでいたのか。最早、それは誰にもわからない。


 その物語を知っている者たちは、もう、どこにもいない。

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