喜雨(1:1:0)

Si

喜雨

登場人物:

・野上 龍二(男性)

 バーに駆け込んだ男性。普通のサラリーマン。

 20代後半~ 


・相沢 りえ(女性)

 バーに居合わせた女性。魅力的な容姿をしている。

 30代~


声劇台本として使用する際は、適宜、コピーしてご利用ください。

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台本:「喜雨」 作者:Si(Si_lenceizmine)

https://kakuyomu.jp/works/16817330659502444032

野上♂:

相沢♀:

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野上(M):


傘を、忘れた日だった。

最寄りから歩いて10分程度の自宅。

気合を入れて走ってもよいが、一杯ひっかけて様子を見よう。

その間に止む可能性にも賭けられる、そんな空模様の日だった。


行きつけの店に邪魔しようと、家とは逆方向の改札に進む。

だが、交差点前に立った瞬間に気づいた。しまった、今日は火曜日だったか。

いつもは飲みにでない曜日で、定休日の存在を忘れていた。

赤提灯は力なく軒にさがる。だが口はすでに、酒を欲している。

今がピークと言わんばかりに、水滴が風にのって頬を叩く。

反対口まできてしまって、このまま帰るのも癪ではないか。


ふとその居酒屋で、バーが近所にできたと聞いたのを思い出した。

やはりこの曜日で期待は薄いが、行ってみるだけの気概は十分。

何より、アルコールへの欲求がまさった。

鞄を頭にひとっ走りいけば、馴染みの店から3,4軒先。

いよいよ暗くなる住宅地との境目に、控えめな看板が下がっていた。

重厚な木の扉は、くたびれた街にそぐわぬ威厳を放っていたが、

OPENの札が下がっているのを見た瞬間、迷わず取っ手をつかんでいた。


重い扉を押して中に入れば、立派な造りのバーカウンターが奥へ伸びている。

存外奥行きがあり、広い空間であった。

天井からつるされたライトが、洒落たオールバックのマスターを控えめに照らす。

装いは満点、当たりの予感だ。

だが、こんな郊外でやっていけるのか?

俺以外に客がいる様子はなく、おせっかいにも余計な心配を覚えた。


野上:...


野上(M):緊張を抑え、何食わぬ顔でカウンター席に陣取る。

座った瞬間に、奥の暗がりに人がいたことに気づいた。

不自然なほど、その人物の周りは暗く見え――

幽霊のように輪郭が揺らいで見えるのは、暗めの照明のせいだろうか?

固まった一瞬、影法師の髪束がぱさりと動く。果たしてそれは女性だった。


野上:「じゃあとりあえず、ベルギービールと、生ハムで。」


野上(M):

心持ち低めの声でオーダーをすると、マスターは静かに手を動かし始める。

通しのナッツをつまみながら、ふたたび視線を奥に向けた。

店の明度にも目が慣れ、奥にいる客の様相が、少しわかってくる。

微動だにせず、じっと目の前のカクテルを眺めるように顔を伏せていた。

尋常ならざる雰囲気に、お邪魔だったかと尻の居心地が悪くなる。

豆をかみ砕く音が、嫌に響いた。


そこまで無遠慮に見たつもりはなかったが、遮蔽しゃへいする物の少ないカウンターである。伺うように視線が上げられた。

悲痛さがつのるその目に一瞬で囚われ、同時に明らかになった相貌そうぼうに驚く。


年齢は俺と同じくらいか、少し上か。

月日を重ねた疲れは見えるが、それ以上に儚いという言葉が真っ先に浮かぶ、

たおやかな美貌があった。

この距離でもわかるほどに長く伸びた睫毛は、

大きな瞳いっぱいに浮かんだ水滴で、濡れた輝きを放っていた。


野上:「…失礼ながら、大丈夫ですか。」


野上(M):余りに月並み。凡庸ぼんようにもほどがある台詞。

情けなさを覚えるが、いざ泣きはらした美人に声をかけるとなると、

男なぞみなこんなものだろう。


相沢:「あ・・ええ。」


野上(M):少し間を置きかえって来たのは、驚いたような声だった。


野上:「じろじろ見るつもりはなかったのですが。ずいぶんと…お疲れのようです。」

相沢:「お恥ずかしいところを。気を遣わせてしまって申し訳ありません。」

野上:「いや。俺のことはどうぞ、はい。お構いなく。」


野上(M):それより―何かあったのですか。聞いてよいものだろうか。

どう見ても訳ありだが、であればそっとしておくというのも上等な店のマナーに思える。

マスターと話に来たのかもしれない。

逡巡しゅんじゅんする呼吸をくみ取るように、彼女はこちらをじっと見つめこう告げた。


相沢:「もし、もしよろしければ――話を、聞いてくださいませんか。」


野上(M):憐れな犬は、即座に首を縦に振る。

節操せっそうの無い仕草に、彼女はむしろほっとしたように微笑んだ。

カクテルグラスに指を添える、その所作一つにすら見惚みとれる。

そして立ち上がった時、俺はようやく、彼女が身にまとう影の正体を知った。


全てを飲み込む深い色。喪に、服していたのだ。


<間>

野上(M):立っているだけで華やかな香りが溢れそうな美人だったが、

距離が詰まった瞬間、線香の匂いがした。


相沢:「お隣、失礼しますね。」


野上(M):聞かずとも、最愛の人を喪ったばかりであろう。

配偶者にしろ血縁にしろ、下心を見せることなど許されない場面だ。

気を引き締めたいが、どうにも落ち着けない。

遠目に見ても印象的なその相貌そうぼうは、近づくといっそうの輝きをたたえていた。


相沢:「お仕事帰りですか?」

野上:「ええ、まあ。」

相沢:「そうですよね、平日ですもの。お疲れの所、よろしいのかしら。」

野上:「俺のことは気になさらず。お辛いことがあったのはそちらでしょう。」

相沢:「ああ…これみよがしな格好をしておいて、隠すこともできませんよね。」

野上:「人が亡くなったときに、悲しみを隠す必要などありませんよ。思う存分、悲しいって気持ちに浸かるくらいがいいんです。」

相沢:「あなたも、近しい人をなくしたことがあるのですか。」

野上:「まあ。俺の場合は祖母ですが…。三年前の暮に。持病もあって、俺からしたら大往生でしたが。親父の背中があれほど丸まって見えた日はなかったですね。いや、あの時は参りましたよ。しばらくは仕事に都合をつけて、実家にいてやらないといけないほどで―」


野上(M):俺がしまった、という顔をしたことに気づいたのか、やさしく笑みを返されてしまう。


野上:「すみません。俺の話はいいんです。それで、その、何がお有りになったのですか。」

相沢:「いいんですよ。お互いについて知っていたほうが、安心して話せますし。」

野上:「ええ、まあ、確かにそうですね。急に本題に入れというのも不躾ぶしつけでした。」

相沢:「それに、急に話を聞いて、なんてお願いをした私の方こそ不躾ですから。

でもね、あんなに心配ですって顔をされたら。少し、少しお話しても良いかもと、つい思ってしまったのです。」


野上(M):ぎこちなく笑うその表情。

些細な会話にすらくらりときそうで、

俺は音もなく置かれていたビールをあっという間に飲み干す。

指を立てると、マスターは手際よく次の一杯を作り始めた。


野上:「そんなふうに言ってもらえるのは有り難いですが、俺はしがないリーマンですよ。バーで泣いている女性に、どう声をかけたら良いか。そんなこともわからないつまらんやつです。良い聞き手になれるかどうか...。」

相沢:「私だって、ただのしがない勤め人です。...いえ、だった、ですね。

辞めて1週間経つというのに、未だに決まった時間に起きてしまって。我ながら嫌になります。」

野上:「ああ。よく聞く話です。会社員の、悲しい宿命ですね。」

相沢:「本当に。――悲しい。宿命だったと。そう思えばよいのかしらね。」


野上(M):ふっと、その視線が遠くなる。

過去を覗きこむように。

だが、その目に写っているのは、悲しみなのか?

首筋が冷えるような、ぞくりとする眼差しだった。


相沢:「うん。そうね。本題をお話しましょうか。回りくどい会話につきあわせてしまって、ごめんなさい。」


野上(M):そんなことは、と笑顔で言いたいのに。言えない。

先程まで和やかに会話ができていたというのに。

沈黙の時間はほんのわずかだったと思うが、

自分の心臓の音が聞こえてくるような、

妙な緊迫感があった。

彼女がちろり、と唇を舐める。妖艶ようえんというより、捕食前の蛇を思わせる。恐怖。


相沢:「私ね、夫を呪い殺してしまったの。」


(間)

野上(M):耳を疑う言葉に、思考が止まった。

叩き起こそうと、言葉を継ぐより先にジョッキを煽る。

そんな俺の様子を興味深そうに見つめ、歌うように言葉が続いた。


相沢:「嘘だとお思いになります?」

野上:「いや、そういうわけでは。ただ、すみません。頭が追いつかない、といったところでしょうか。」

相沢:「ふふふ。このこと、人に言ったのは初めてなの。そんな反応になるのね…」

野上:「あ、はは。からかっている、というわけでもなさそうですね。」

相沢:「もうそんな年でもないもの。見たらわかるでしょう?本当だったら、子供がいたっておかしくない。実際、欲しかったの。愛する人との間に。でももう、それは叶わない夢。」


野上(M):細い指が、左手の薬指をたどる。

そこにはまだ、銀色の輪がはまっていた。

愛おしそうに撫でる動作とは裏腹に、その視線は依然として冷たいままだった。


相沢:「あなたは、浮気、したことある?」

野上:「え。えっと、その。」

相沢:「あるの?」

野上:「・・・。」

相沢:「別に私、あなたの彼女じゃないわ。ただ、それによって私の話す意識が変わるだけ。」

野上:「すみません。一度だけ…。」

相沢:「そう。ちょっと、見る目が変わるわね。」


野上(M):取りつくろうことなど許されない、この刺すような空気は何なのだろう。

一瞬にして、バーカウンターから、取調室にいるような錯覚に陥る。


相沢:「見た所、結婚はしてないみたいね。お付き合いしてる時の話?」

野上:「そう、です。もう数年前の話になりますが…。」

相沢:「気が変わったわ。あなたの話、先に聞ききたい。」

野上:「やめてください、面白い話ではないです…俺の浮気のせいで、結婚の約束もパーになって。何もかも手遅れになりました。それが全てです。」

相沢:「ははあ。まあ、あなたのような人を捕まえなくて、幸せだった、と思うべきかしら。お相手さんの方は。」


野上(M):小馬鹿にしたように蔑むさげすむこの女性は、本当に先程まで消え入りそうな涙を浮かべていた人だろうか?

動揺を抑えるように酒に手を伸ばすも、喉を通り過ぎたのはほんのわずかだった。

だが、次の酒を頼むタイミングなどない。

いま俺は、断罪されているのだ。


相沢:「彼女は今も、あなたのこと恨んでいると思う?」

野上:「分かりません。ただ、裏切り者と言われ、返す言葉もなく。一緒に住んでた部屋は追い出されました。その後は連絡手段を絶たれたので、せめて...幸せになっていてほしいなとは思います。俺としても、気の迷いと傲慢な精神で時間を棒に振らせてしまった自覚があるので。許してほしい、と言う勇気すらありませんでした。」

相沢:「殊勝しゅしょうなようで、臆病者の言葉ね。でもきっと、お互い若かったのだろうし、それが良い選択じゃないかしら…。年月を重ねてから、裏切ることのほうが罪が重いもの。」

野上:「それは…。あなたの、旦那さんの話ですか。」

相沢:「そうよ。そうね。私のことを、話すんだったわ。」


野上(M):また記憶と向き合うように、視線を下に落とす。

カクテルグラスの底をゆっくりと撫で――

不意に、こちらを見つめてくる。


相沢:「でも、私とあいつの馴れ初めやいざこざのあれそれなんて、話していても楽しくないもの。それより、どうやって殺したのか。そっちの話の方が面白いと思わない?」

野上:「それはまあ、気になりますけど…」

相沢:「ふふ。それにね、私の重苦しい感情は、大半が体から抜けていったの。

雨の日にだけ、明確にそれを感じることができる。同時に、夫の存在も。」

野上:「なるほど…?旦那さんは、どんな方だったのですか。」

相沢:「良くも悪くも、不器用で、一生懸命な人だったわ。会社の後輩として入ってきて、目を回しながらも、頑張る姿が愛おしかった。

私、あまり話上手な方ではないのだけれど、何が楽しいのか、子犬のように話しかけてきて。私が笑うと、もっとニコニコして、あなたの笑顔が一番好きです―――って。ああ、そんな話はいいの。

…私がどれだけ彼を愛していたかなんて、どんなに時間をかけても、語れるものじゃないのだから。」

野上:「それほど愛していたのに、どうして…」

相沢:「?そんなの、私だって聞きたいわ。どうして、何を間違えたの、何がいけなかったの、二人で幸せになりたかったのにって、私が振り返らなかったと思う?

ねえ。正解なんて、今でもわからないわ。」

野上:「…すみません、出過ぎたことを言いました。」


野上(M):一瞬荒らげた語気を恥じるように、なめらかな動作で髪をかきあげる。

麗しさの中に、覇気のようなものが混じる雰囲気に、

呪い殺したという言葉が、真実味を帯びた気がした。


相沢:「でも。子供がほしい私と、若い夫の間で、すれ違ってしまったのは確か。あからさまに嫌そうな顔をされて、些細な会話を避けられるようになって―それだけでも、身が裂けるほど辛かった。そして、疑いたくはなかったけれど、女の影までチラつくようになって。」

野上:「…最悪の気分でしょうね、それは。」

相沢:「あなたがそれを言うの?でもそうね、本当に最悪の気分だった。夫が浮気をしているって確信してしまった夜、たまらず家を飛び出したの。

その日も雨で、傘も持たずに泣きながらめちゃくちゃに歩いた。」


野上(M):そう言うと、一度扉の方に視線を向ける。雨はまだ、降っているのだろうか。ここまで、その音は届かない。


相沢:「泣き疲れて、公園でうずくまっていた私に、手を差しのべてくれた女性がいたの。細かいことは覚えてない。記憶を消されてしまったのかもね。でも、彼女がくれた小瓶と、その使い方だけは覚えてる。」

野上:「小瓶?」

相沢:「そう、ガラスの小さなもの。小指くらいの大きさだったかしら。温かい手が背中を擦ってくれた時の安心感も、忘れられないわ。私の要領を得ない話をひとしきり聞いた後に渡されたの。それなら、これをあげるって。」

野上:「それが…何か特別なものだったのですか?」

相沢:「まじない、魔術、そんな類のものだったのでしょうね。

震える私の手に握らせて、いい、こうやって使うのよって。あなたがその男のことを思って涙を流す時、この小瓶に詰めなさい。悲しみでこれが満たされた時、彼にそれをかけなさい。あなたが彼を許したいと思うのならば、行いは改められ、一切の罪は清められるでしょう、って。」

野上:「…まるで、おとぎ話のようですね。」

相沢:「普通はそう感じるでしょうね。馬鹿らしいって、切り捨てられてもおかしくないわ。でも、でも馬鹿みたいに涙は流れ続けるのだから。試してみても、良いと思える話だった。もしそれで、全て綺麗さっぱり洗い流すことができたなら…。この悲しさも報われると、そう思ったの。」

野上:「それで、貯めてみたのですか?」

相沢:「ええ。かつで二人で歩いた道をなぞって、苦しくなった時。また裏切られたなと気づいてしまった時。一人でただ帰りを待つ時。小瓶にその時間を詰めることで、いつか許せる未来が来ると思ったら。気が楽になったわ。

哀れな私の気持ち、わかっていただけます?」

野上:「稚拙ちせつな想像に過ぎませんが...理解出来ます。辛い日々の中ですがるものがあるのは、精神的に良さそうだなと…。でも、わずかな塩水なんて、揮発きはつしちゃいませんか。」

相沢:「そこは、何かしらの力が働いてたのかしら。一度入れたものが、目減りしているようなことはなかった。けど、簡単でもなかったわ。全身で悲しみを表せる時間って、そう長く続かないものなの…。」


野上(M):深く長い溜息。ああ。彼女が少し茶化すように過去を語るのは。

まとう空気に、最初に見た影法師の湿度を知る。


相沢:「もはや泣きたくても、その力すら絞り出せない。干からびた体で、ありもしない幸せを手繰ろうとして。…骨の底の栄養まで、抜き取られるような途方のなさ。自分が人の形を保てているのか、疑いたくなる程の虚しさ…

追いすがった先のよすがの冷たさに、骸に近い体は息もできなくなるの…」


野上(M):ここに居るのに、ここには居ない。

うつろの淵が、その背に、びったりと張り付いているような。


野上:「えっと!それでは、どうやって貯めたんです?呪い殺したというくらいだから、てっきり貯められたのかと…。あれ、しかし、その瓶は許すためのもの、なのですよね…?」


野上(M):俺の言葉に、少しだけこちらに戻ってくる。

だが、覇気は鬼気へと変わっていく。


相沢:「血を混ぜたわ。」

野上:「…え」

相沢:「そんな驚く話でもないんじゃないかしら。食い込んだ爪に、滲んた血をね。彼を思って流した、私のよ。」


野上(M):気圧けおされる。また恐怖が襲ってくる。

だが、その先を知りたいという気持ちが、口を開かせる。


野上:「それは…涙として混ぜて良いものなのでしょうか。」

相沢:「少なくとも、私にとっては涙よりも真実だったわ。泣けなくなった私が唯一流せるもの。それにね、信じられないかもしれないけれど…瓶に詰めた瞬間、血は透明に変わったのよ。だから、あれは涙だったの。」

野上:「…それで、瓶を、満たされたのですね。」

相沢:「ええ。でも私は悩んでいた。本当に彼を許したいのかしらと。一切が流されたとして、彼が私のところに戻ってきたとして。愛しているけれど、憎らしくて仕方がない彼を――本当に、彼だけが元に戻って、私はそれで満たされるのかしらと。許しの前に、罰が与えられるべきではないかしら、と。」

野上:「それであなたは、罰を、与えることにしたのですか。」

相沢:「数週間後が、七年目の結婚記念日だったから。その時に、どうしようか決めようと思っていたの。その日くらい、落ち着いて話せるんじゃないかって。彼が記念日を忘れたこと、今まで一度もなかったから。その日まで、ね。」

野上:「もしかして、その日に限って…」

相沢:「ええ。彼は、帰ってこなかったわ。いいえ、数日前から分かっていたの。土曜日、急に出張が入ったと、わずらわしげに言われたときから。」


野上(M):カウンターで氷の音がからりと響く。

喉は乾いているのに、もう、酒など、飲む気分ではなかった。


相沢:「色々考えたわ。ただの出張だったらと。でも違った。メッセージのやり取りを見ればすぐにわかった。でも、もし日付を超える前に帰ってきたら?ごめん、忘れてなかったよって言ってくれたら?やっぱり、許そうと思っていた。でも…でも、帰ってこなかったわ。だから、連絡したの。相手の女にも、彼にも。」


<間>

相沢:「このまま彼が帰ってきたとして、私はどうしたい?真っ先に浮かんだのは殺意。この手で殺してやろうと思った。けど、癖のように握りしめていた小瓶が、煌めきが、手の平から問いかけてきたの。くうを掴むような時間を耐え抜いて、かぶるのは血でいいの?あの水の中で溺れ続けるような日々を、彼に思い知らせてやらなくていいの?――この瓶が本物だったとして、おかしな混ぜ物をして、教えられていない使い方をして。なにか起こったとして、きっとろくなことにはならないわ。

それでも、最後に祈りを込めて、使うことに決めたの。解放ではなく、苦しみを与えることを願って。本当に手を下すのは、これを試した後でもいいと、そう思ったの。」

野上:「....それで、家に帰ってきた旦那さんに、瓶を使ったのですか。」

相沢:「彼がなんと言おうと、どんな行動を取ろうと、絶対にそうしようと決めて、部屋の扉の前で待っていた。やがてエレベーターが開いて、私の姿を見つけた時の彼の顔。感情もすべて失った、とでも言いたげな顔をして…滑稽こっけいだったわ。ついさっきまで、さぞいい気分だったでしょうにね。走り寄ってきて、言葉もなく、肩を震わせて、私の前にひれ伏した。やっぱり、先に決めておいてよかったと、その時思ったわ。」

野上:「それは、小瓶に、託すことをですか。」

相沢:「ええ。部屋にいたら、うっかり刺してたと思うから。あまりに無防備なんだもの。」


野上:「・・・。」

相沢:「ふふふ…鬼を見るような目はやめて。刺してないってば。その代わりに、一欠片の良心と希望でもって、彼に魔法をかけたの。」

野上:「…その、魔法が、呪いとなって、彼を殺したと…?」

相沢:「効果は鮮明に現れたわ。抜け殻みたいだった彼に、絶望と、哀しみと、苦悶の表情が面白いように浮かんできた。ああ、私はかつて、そんな顔をしていたのねと、可哀想に思ったわ。そうして、ガクガクと全身が震え始めて――。

言葉にならない声を上げて、そのまま。――去っていったわ。」

野上:「追いかけなかったの、ですか?」

相沢:「あの瓶は、正しく私の思いを汲んでくれた。彼は、私がこれまでに過ごした地獄の年月を、まるごと背負った。肩の荷も胃の重さも取り払われて。久しぶりにゆっくり眠れそうな、解放感という言葉がぴったりの気分だった。」


野上(M):そう語る彼女の瞳には、最初に見つめた時の悲しみが――。

いや、あれは哀れみだったのだろうか。


相沢:「それと同時に。彼には、もう、会えないと悟ったわ。」

野上:「それは、また。なぜそう思ったのですか。」

相沢:「だって私は、許すために、罰を与えたのではなかったもの。裁いてほしいと願った。罪の重さを知り、己の愚かさを懺悔し、その命で償ってと。私の手ではなく、彼自身の覚悟を持ってね。彼は、私の痛みを知った上で、雨の中へかき消えた。そして―――そしてそれっきりよ。諦めるには早いと、周りは声をかけてくれた。でも、私が一番よく分かっているの。」

野上:「…本当に、旦那さんは、亡くなられたのですか。」

相沢:「雨に濡れると、彼の声が聞こえてくるの。

私を思って、詫びる声が。許さなくて良い、愛していると呼ぶ声が。

その度に寂寞せきばくと、安堵あんどがないまぜになるの。毎度足を止めてしまうほどに。

なんて、哀れで哀しく、愛しい人。ええ、今この瞬間も、遠くから聞こえてくるの…」


野上(M):カウンターは静まり返り、薄っすらと流れるジャズの他には、何も届かない。

だが、彼女には聞こえているのだろう。

聞いているのだろう。

うっとりと瞼を閉じて。雨に消えた、最愛の声を。


野上:「…旦那さんのその声を聞いて、後悔はないのですか。」

相沢:「ないわ。私にとって、私達にとって、これ以上の結末はないの。ひび割れた心は戻らない。ならば、ともに割って消えてしまうのが一番。そう思わない?」


野上(M):柔らかな微笑み。初めて見る、心の底からの笑顔だった。


相沢:「マスター、ビネガー・スプリッツァーをお願い。ビネガー濃いめでね。」


野上(M):話はこれで終わりとばかりに、晴れやかな声で注文を通す。

今までの話も聞こえていただろうに、

マスターは粛々と、オーダーに従った。


相沢:「荒唐無稽こうとうむけいな話だと思われても仕方ないのに、聞いてくれてありがとう。

…あなたはかつて、人を裏切ったかもしれないけれど。どうか、同じ過ちを繰り返さないで。」

野上:「元より、そのつもりではありましたが。改めて、身の引き締まる思いです。自分のようなものに次があるのであれば、絶対に、同じことは繰り返しません。愛しぬき、幸せにすると誓います。」

相沢:「ふふふ。なんだか、良いことをした気分だわ。

その言葉が聞けて――満足だし、十分よ。」


野上(M):眼の前に置かれたグラスをかき混ぜ、コロコロと笑う。

俺もようやく人心地つき、次の酒を頼もうとしたときだった。


相沢:「実はね。彼とお別れをした後、もう一度、あの女性にあったの。」

野上:「えっ。あの女性って…。」

相沢:「私が雨に打たれて、彼の心を聞いていた時。あの日と同じ場所に、なにも言わず、優しい瞳で、隣に座ってきた。」

野上:「それは…。なにか、とがめられたのですか。」

相沢:「いいえ。でもね、そう…ふふふ。」


野上(M):そう言うと彼女は、優美な手付きで真珠の耳飾りを外した。

それを、よくかき混ぜきったグラスへと落とす。

真珠は、炭酸の泡に混じりながら、少しずつ形を変えていく。

眼の前で何が行われたのか、理解が遅れる。

じゅわり。


野上:「…何をしてらっしゃるんですか?!そんな、クレオパトラでもあるまいし…」

相沢:「彼女はね、私に、救いの魔法をくれたのよ。」


野上(M):言い終わると同時に、ロングカクテルを一気に飲み干す。

何かまずい、そう直感が告げるまでの間に、彼女の瞳は閉じられた。

手からグラスが滑り落ち、カシャリと音を立て、床に飛沫しぶきと破片を撒き散らす。


野上:「…ちょっと?!大丈夫ですか!!」


野上(M):派手な音に、つい先程聞いた台詞が閃光の如くよみがえる。

ともに割って、消えてしまうのが一番。彼女は確かにそう言っていたではないか。

カウンターから飛び出してきたマスターが、電話をかける声が遠くに聞こえる。

細い手首の脈動は、完全に止まっていた。



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喜雨(1:1:0) Si @spineless_black

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