All about Noto Anje.

月庭一花

乃都杏珠のすべて。

 日が暮れようとしていた。

 ロープウェイで上がってくるときにも見えた函館の街並みが、今、少しずつイルミネーションで彩られていく。

 函館山の頂から、街の全景が、そして暗く沈む海が、夜の帳の中に落ちていく。宝石を撒いたように街が輝きだす。その瞬間が刻一刻と迫っていて、気が急いていた。

 わたしは、気づいたら杏珠の手を離していた。

 展望台の狭いスペースは観光客や、何かの行事なのかもしれない、先生に引率された小学生たちでごった返していた。先に行って少しでもいい場所を確保して、杏珠に見せてあげたい、と思ったのだと、多分、そんな気が、するのだけれど……ううん、今となってはそんなの言い訳にしかならない。

 とにかく、わたしは杏珠の手を、離してしまった。

 それが原因、だった。

 振り返ったとき、杏珠の姿はどこにもなかった。

 もともと背の小さな彼女のことだから、周囲の観光客に紛れて見えないだけなのかと思って、わたしは視線をきょろきょろと動かした。展望台は照明も暗かったから、それで見つけにくいんじゃないか、とも思ったのだ。

 でも、いない。

 どれだけ待っても、姿が見えない。

 いくら何でも遅すぎて、いったいどうしたのだろう、と思い始めた、そのときだった。


「誰か、誰か係りの人を呼んでっ。早くっ」


 という、緊迫した声が響き渡った。

 悪い予感がした。そういうのは、往々にして外れた試しがない。

 わたしは何かに急かされるように、観光客たちをかき分け、声の方へと走った。

 そして、

 その姿に、

 わたしは一瞬言葉を失ってしまった。

「……杏珠?」

 杏珠は展望台の奥の暗がりで、倒れていた。

 周りには心配そうに見つめる野次馬たち。

 わたしは慌てて駆け寄り、彼女を抱きかかえようとした。けれど、痛っ、という杏珠の声に、わたしの手は凍りついた。

「一花」

 杏珠が額に汗を浮かばせて、呻くようにわたしの名前を呼んだ。

「ごめん、転んじゃって……足が動かないの」

「動かないって、そんな、怪我しているの」

「多分……でも、なにがなんだかよくわからなくて」

「他は? 痛いところない?」

「頭がちょと。あと……右手も動かないかも」

 わたしは着ていたパーカーを脱いで乱暴に丸めると、それを枕代わりに杏珠の頭の下に敷いた。そして、ごめんちょっと触るね、と声をかけて、首から肩、肋骨、骨盤、足を、恐る恐る触れていった。右肩の位置がおかしい。それから左足に触れると、彼女は顔をしかめて、小さく唇を噛んだ。つま先がありえない方向に向いていた。折れているのはわかったが、どの位置かまでかは、わからなかった。

「どうしました、大丈夫ですか?」

 野次馬が割れて、制服姿の女性職員が顔をのぞかせた。その後ろには警備員の姿も見えた。

「転んでしまったようで。足の骨が……救急車を呼んでもらえますか」

 わたしは言った。救急車、という言葉を聞いて、職員が目を見開いていた。

「え、あの、折れているんですか」

「左足の、多分大腿骨の辺りだと思うんですけど……。あと、右肩も動かないみたいで」

「ええと、どうしましょう。車椅子をお持ちしますか?」

 わたしは杏珠を見下ろした。杏珠が顔をしかめながら、小さく首を横に振った。

「座る姿勢は無理だと思います」

 警備員が野次馬を遠ざけ、女性スタッフがどこかに電話をかけている。わたしは杏珠を抱きしめながら、ただ、その場で俯いていた。

 それは九月の終わりに近い日で、函館山の頂上には、冷たい風が吹いていた。

 人のざわめきが、うるさく思えた。


 杏珠が運ばれたのは大きな総合病院だった。

 救急外来の待合室で待つあいだに、わたしは一度病院の外に出て、東京の歌恋に電話をかけた。LINEやメールでは、気づいてもらえなかったときに困る、と思ったのだ。

 冷たいスマホを耳に押し当てる。

 時刻はもう二十三時を回っていたけれど、歌恋はすぐに出てくれた。

「もしもし? にゃんこなら元気だよ。うりうり。あ、声聞く?」

「ちがうの、猫のことじゃなくて」

「ん?」

「杏珠、怪我をして、今救急車で運ばれて病院にいるんだけど」

 旅行に出ているあいだ、歌恋にはわたしたちの飼い猫の、チーの世話をお願いしていた。彼女は保護猫カフェでお迎えした子だった。長毛種で、灰色の、毛玉のような、愛しい、わたしたちの猫。

 のほほんとした調子だった歌恋の声が、こちらの言葉に驚いたのか、少しだけ低くなった。

「えっと、どういうこと?」

「函館山の展望台で、転んじゃって。それで」

「それでって、大丈夫なの?」

「今はまだ、なんとも。先生からの説明がなくて……もう、運ばれてから二時間くらい経つんだけど……」

 歌恋の声を聞いたら急に涙が溢れてきた。

「あなた、相当参ってるみたいだけど、わたしにできること、ある?」

 わたしはスマホを持った手と反対の手で、ごしごしと頬を拭った。

「明日はそっちに帰れないと思う。病棟の夏休みはあと二日もらってるから、それまでには戻るけど、ごめん、もう一日だけチーのこと、見てもらうことできる?」

「いいけど、それだけでいいの?」

「先生から詳しい話を聞いたら、LINEするから。そうしたら……」

「わかった。じゃあ、気をつけてね」

 通話が終わると、力が抜けてしまって、わたしは病院のエントランスでうずくまった。そして、既読がどうのこうのとあれこれ言い訳がましいことを考えていたけれど、本当は、直接歌恋に電話をかけたのは……誰かの声が聞きたかっただけなのかもしれない、と気づいた。

 ……医師に呼ばれたのは、それからまた一時間後のことだった。


 狭い一室で、パソコンに映し出されたレントゲン写真を見ながら、右肩は脱臼だけで済んだのですでに整復済みですが、左足を写したこの部分、わかりますか、と。まだ若い医師が、わたしに向かって訊ねた。

「大腿骨がぽっきり折れています。今は直達牽引……ええと、何て説明したらわかりやすいか」

「大丈夫です。わたしも一応、ナースですから」

 わたしがレントゲン写真を見つめながら言うと、医師……那珂という変わった苗字だった……が小さく息をついたのがわかった。直達牽引……つまりもう、杏珠の足はワイヤーで固定されてしまっているということか。

「説明が省けてよかったです。彼女……乃都さんからお聞きしたんですけど、十一歳で混合性結合組織病を発症して、それ以降ずっとプレドニンを内服していたとか。それから骨粗鬆症の薬も」

 那珂先生がわたしを見ていた。正式には、レントゲンを見つめ続けるわたしの横顔を。

「わたしたちは白墨様の骨、と呼んでいますが、これらの薬を内服していると骨がチョークのようにもろく、折れやすくなるのは……ご存知ですよね」

「はい」

「……ちなみにあなたは、患者さんとどのようなご関係でしょうか」

 わたしはレントゲンから医師に目を向け、同居人です、と答えた。

「同じアパートで一緒に暮らしています。彼女、施設で育って身寄りがないから、わたしが……家族みたいなものです」

 那珂先生はそうなんですね、とつぶやいて、わたしから目を逸らした。

「では、入院の手続きはええと……」

「月庭と言います」

「月庭さんにお願いすることになると思います。左足は手術して骨の真ん中に金属の棒を入れて、プレートで固定するようになると思いますが、今はずれてしまった骨の位置を直すのが先決ですね。しばらくは直達牽引で加重をかけていきます。手術の時期については、レントゲンを撮りながら考えていきましょう」

 わたしは那珂先生の説明を聞きながら、手の汗をそっと、スカートで拭った。

「入院期間は……?」

「一ヶ月半くらいで考えていますが、骨のもろさを考えると、もう少しかかるかもしれません。ただ」

 那珂先生は別のレントゲン写真をパソコンに表示した。

「こちらは右足の写真ですが、ここ……大腿骨のここのところに肥厚が見られます。多分、昔ひびが入って自然に治ったところだと思うんですけど……左足を手術してリハビリに移行した際、この足だと全加重を支えることができないかもしれません」

「それは……どう言う意味ですか?」

「こちらの足も手術が必要になるかもしれない、ということです。同じように骨の中に金属の棒を入れ、補強します。この手術を行うとしたら、入院期間はさらに伸びるでしょうね」

「その説明は……あの子には」

「まだしていません」

 わたしはため息と一緒に、そうですか、と小さな声で言った。


 腕時計を見るとすでに夜中の一時を回っていた。案内された病室は、小さな常夜灯だけが付いていて、薄暗かった。杏珠は病衣に着替えさせられていた。右肩の脱臼した箇所は包帯と三角巾で固定され、左足は……包帯が巻かれているとはいえ……膝のあたりに直接通されたワイヤーが、ベッドの下まで伸びていて、そこに錘が吊るされている。

 あまりに痛々しくて、思わず目をそらしてしまった。

「お腹が空いた」

 弱々しい声で杏珠が言って、わたしが視線を向けると、小さく笑って見せた。

「展望台に登ったあと、ご飯食べるつもりだったもんね。……わたしもお腹空いたわ」

「明日の朝食はホテルでバイキングだったのに」

「いくらとか、イカのおさしみとか」

「楽しみにしてたんだけどな」

「仕方ないわ。……今日はもう遅いから、明日また来る。入院に必要なもの、買ってくるから」

 わたしが言うと、杏珠は不安そうな表情を浮かべ、左手を……怪我をしていない方の手を、わたしに伸べた。

「ごめんね」

「……なんで謝るの」

 不意の言葉に、思わず涙がこぼれてしまった。ぎゅっと、力強く、杏珠の手を握った。

「帰れなくなっちゃって、迷惑いっぱいかけて、ごめんなさい」

「やめてよ、そんなこと言うの。……チーのことなら大丈夫だから。さっき歌恋に頼んでおいたから」

 もう遅いので、タクシーを呼びますか、と夜勤のナースに言われながら、わたしは病室を出た。名残惜しかったけれど、いつまでも居残ってここの看護師たちの邪魔をするわけにはいかない。

 わたしは一度杏珠の頬を撫でて、部屋を出た。


 ホテルにたどり着いた頃には夜中の二時を大きく回っていた。

 シャワーを浴びて、けれど眠る気になれず、杏珠のいない部屋で過ごすのも耐えられなくて、わたしはまたふらふらとホテルを抜け出した。

 なんとかという横丁の、朝五時まで営業している小さな居酒屋で、ひとり、お酒を飲んだ。清里という、じゃがいもの焼酎。でも、どんなに飲んでも酔わなかった。

「お姉さん、ピッチ早いけど大丈夫?」

 きついパーマ頭の女店主が、わたしの前にラム肉の餃子を置きながら、心配そうに声をかけてきた。

「観光?」

「……だったんですけどね。連れが、ちょっと事故で、入院することになっちゃって」

「あら、それは大変。せっかくのご旅行だったのにね」

「で、……飲まなきゃやってらんないなぁって」

 わたしは言って、ロックのグラスをあおった。喉が焼けるようだったけれど、でも、それだけだった。ラム肉の餃子は少しクセがあって、美味しかった。

 ため息をつきながら、わたしはうつむいて、テーブルの上の、自分の手の薬指に光る、指輪を見た。

 杏珠とお揃いの指輪を。

 ……わたしはどうして、病院で、杏珠のことを、パートナーだと言わなかったのだろう。先生にどういうご関係ですかと訊ねられたあのとき、どうして恋人だと、言えなかったのだろう。

 よくテレビや小説などで、同性カップルの片方が怪我をして、でも家族じゃないから医師からの説明も受けられず、面会すらできない、という場面を見た。嫌と言うほどそんなシーンをフィクションの中で繰り返し見てきた。でもまさか、自分たちにも起こるなんて、起こり得ることだったなんて、今の今まで思わなかった。

 杏珠に家族が……どこにいるかも、死んでいるのか生きているのかもわからないけれど……いたのなら。わたしはやはり、蚊帳の外になってしまうのだろうか。魂の双子のようなふたりなのに、引き離されてしまうのだろうか。

 そう思うと途端に胸が苦しくなって、わたしはふらふらとトイレに行くと、胃の中のものを便器に全部出した。涙が出て、自分自身が情けなくなった。

 杏珠はもう寝ただろうか。病院のベッドで、眠りについているだろうか。


 乃都杏珠は一九九五年に生まれた。一応の誕生日は八月七日になっているが、本当のところはよくわからないらしい。どういう経緯で施設に預けられたのかも、杏珠は知らないと言っていた。元々体の小さな子だったのだけれど、今の病気を発症してから、……薬の影響もあるのだけれど、発育が止まってしまった。わたしは可愛いと思っているが、身長と胸が小さいことは、彼女のコンプレックスだった。

 杏珠とは職場で知り合った。

 わたしが最初に勤めた重症心身症児の施設で、杏珠は療育の仕事をしていた。ずいぶん背の低い人がいるな、と思っていつも見ていた。でも看護と療育で分かれていたこともあって、あまり話す機会はなかった。

 ある冬の日の朝だった。彼女が更衣室で、ずっと手をこすり合わせているのを見て、わたしは不思議に思い、どうしたの、と声をかけた。

「……手がこわばっちゃって。ちょっと動かない感じで」

 見ると、指先が白くなっていた。

「もしかして、レイノー現象?」

「あ、うん。……詳しいんだね」

「まあ、看護師だし」

 わたしはそっと、杏珠の指先を、自分の手で包んだ。杏珠は少し驚いた顔で、わたしを見上げていた。杏珠の指先は冷たかった。切なくなるような、体温だった。

「痛い?」

「痛くない」

 それが、杏珠に触れた、杏珠を意識した、初めての出来事だ。杏珠が二十三で、わたしは二十一だった。


 翌日は慣れない函館の街をあちこち歩き回り、入院に必要なものを買い揃えた。シャンプーやボディソープ、乳液や替えの下着。靴下。生理用品。テーブルサイズの小さな置き時計。スマホで写真を撮って、送信して、杏珠に選んでもらうことを、何度も何度も繰り返した。病衣はレンタルできたけれど、必要なものはいくらでもあった。

 お昼過ぎに新幹線の切符の払い戻しをしてもらい、夕方近くなってタクシーで総合病院に向かった。昨日まで泊まっていたホテルは予約で埋まっていて追加の宿泊ができなかったから、タクシーの中で電話をかけて、駅前のビジネスホテルを押さえた。

 タクシーの運転手がちらりとバックミラー越しにわたしを見て、なんだか大変そうですね、と言った。

「一緒に旅行に来た子が急に入院することになって。それで朝からずっとバタバタしていて」

 わたしは前髪を掻き上げながら、苦笑してみせた。

「病気ですか?」

「怪我、です。函館山の展望台で、転んでしまって」

「それはそれは……おつらいですね」

 タクシーは函館の街をゆるゆると進む。時々路面電車と並走しながら。

 背の低い林檎の樹が、ピンク色の屋根の女学校の庭で、青々とした葉を茂らせていた。わたしが通っていた学園に、その光景はよく似ていた。

 しばらく無言だった運転手は、赤信号で止まったとき、もう一度ちらりとわたしを見て、

「大変だとは思いますが、函館のこと、嫌いにならないでくださいね」

 と言った。


 東京に戻ってからは、味気ない日々が続いた。

 愛猫のチーはどうしてわたし独りしかいないのかと、いつも不思議そうにしている。わたし独りの……もちろんチーはずっと一緒なのだけれど……生活は、いつも灰色に、濁って見えた。

 杏珠とは毎日LINEのやり取りをした。

『わたしのノートパソコン、送ってもらえるかな』

 そんな書き込みがあったのは、こちらに戻ってきて、四日後のことだった。わたしはその吹き出しの文字を見つめながら、首をかしげた。

『何に使うの? 仕事?』

 わたしが打ち込むと、既読はついたのだけれど、すぐには返事がこない。わたしはしばらく画面を見つめていた。

『小説を書こうと思って』

 杏珠がネット上のサイトで小説を公開しているのを、知ってはいた。それもなぜか、わたしの月庭一花という名前で登録されていることも。……そのサイトにひも付けられたツイッターのアカウント名も、ご丁寧に『一花』という名前だった。徹底している。

 なぜペンネームがよりにもよってわたしの名前なのか。自分の名前の方がよっぽどペンネームっぽいじゃない。杏珠にそう抗議しても、彼女は笑って、

「だって、わたしの物語の主人公は一花だから」

 と本気なのかそうでないのか、よくわからないことを言って煙に巻くのだった。

『手術まで暇だし、足引っ張られながら寝てるだけだと、つまんないんだもの。窓から見える景色も代わり映えしないし。スマホでも書けるんだけど、なんかキーボードがないと調子が出ないんだよ』

『で、どんな小説を書くの?』

 実を言うと、わたしは彼女の小説を読んだことがない。興味がないこともないのだけれど、小説なんて眠くなっちゃう、漫画なら読むんだけどな、と伝えたら、鼻で笑われたことがある。

『全寮制の女子校のお話がいいな。わたしと一花で、ひとりの下級生を取り合うの。その子の名前は何にしよう? あ、「リューシカ」とかいいかも』

 ……彼女が以前Twitterに投稿したツイートを、わたしは今でも鮮明に覚えている。


《手から砂がこぼれ落ちるように、いつか、全部消えてしまう。

愛しい人も、愛猫も、自分自身でさえも。

わたしは子どもを作らないので、わたしの記憶も遺伝子も、全部無くなってしまう。


小説は残るだろうか。

誰かの記憶の中にそっと、残るのだろうか。》


『外国の話?』

 わたしが何気なく訊ねると、

『違うよ』

 短い返事のあとで、親指を立てた変なイラストのスタンプが送られてきた。


 色彩のない生活は、三ヶ月続いた。

 何度か病院から電話があり、結局杏珠は左足だけでなく、右足も手術が必要になって、その説明を聞いたときには目の前が暗くなったのを覚えている。

 三ヶ月。こんなに彼女に会えない期間が続いたのは、同棲するようになってから初めてのことだった。手術の同意書には杏珠自身がサインしたらしい。わたしは二度の手術の、どちらにも立ち会えなかった。それは私たちを隔てる距離のためであり、あとやはり、家族ではなかったからだった。

 でも、そんな鬱々とした日々も、今日で終わる。

 今日、十二月二十五日は、杏珠を迎えに行く日、なのだから。


 函館空港に降り立つと、そこは一面の雪景色だった。

 クリスマスの日に雪を見るなんて、何年ぶりだろう。

 ちらちらと舞い散る雪を見ていたら、出掛けにした歌恋とのやりとりを、ふと思い出した。

「……あんなことがあったのに、もう一度函館に行くんだ」

 歌恋がチーの入ったバスケットを受け取りながら、ぽつりと言った。わたしは苦笑して、あんなことがあったから行くんじゃないの、と答えた。

「迎えに行ってあげないと、ね」

 ……あのとき、歌恋はどんな顔をしてわたしを見たのだったか。

 空気の冷たさに鼻の奥がツンと痛くなる。わたしはトランクケースを引きずりながら、タクシープールに急いだ。

 何気なく振り返ると、わたしの後ろには雪の轍が伸びていた。

 タクシーの中で、窓に頬を寄せて空を見上げると、一面の灰色が広がっていて、代わり映えしなくて、いつの間にか舟を漕ぐように、眠ってしまっていた。


「着きましたよ」


 言われて慌てて起きると、もうそこは病院の車寄せの中だった。わたしはタクシーからトランクを下ろして、その大きな病院を見つめた。三ヶ月前に見たのと同じ、わたしの勤める病院よりもよほど大きな、その病院を。灰色の空には、強い雪。風。近くには特に何もないのに、何かを焼く匂いがした。

 受付で杏珠の退院手続きをしようとすると、医事の職員は困った顔で、当該病棟にそのような患者様はおりません、と答えた。

 わたしは一瞬何を言われたのかわからなくて、え、と。間抜けな声を漏らした。

「ですから、乃都……杏珠様という方は入院していないんです」

「そんなはずはないです。だって、こちらの4西病棟に入院しているはずで……主治医の那珂先生からも、何度も連絡をいただいているんです」


「4西というと整形外科ですよね……? でも那珂、という整形のドクターはうちの病院に在籍していませんよ?」


 呼吸が苦しくなって、一瞬、目の前が真っ暗になった。何が起こっているのだろう。どうして……杏珠がいないなんて、嘘をつくんだろう?

「だって、だって、ほら、スマホに彼女からのLINEだって」

 わたしは慌ててダウンジャケットのポケットにしまったスマホを取り出し、LINEのアプリを開いた。

 ……でも、杏珠の連絡先も、LINEの履歴も、写真も、何もかもが、無くなっていた。

 故障? スマホの? 杏珠に関することだけ? そんな、馬鹿な。

「病院をお間違えではないですか?」

 訝しげな声音。不審者を見るようなその視線。

 これ以上わたしが何か言ったら、警備員を呼びかねない、そんな目つきで。それが、その目が、彼女が嘘を言っていないってことを、嫌という程思い知らされる。

 わたしは病院を出て、エントランスのベンチに座った。

 雪で湿ったベンチは、凍りつきそうなくらい、冷たかった。

 あの日も絶望に苛まれながら、ここで座り込んでいた。杏珠と一緒に旅行に来たあの日も。杏珠が怪我をした、あの日も。なのに、それなのに。

 何が起こっているのか、わたしには何ひとつ理解できなかった。杏珠……杏珠? 杏珠はどこに消えてしまったというのだろう?

 焦燥感に駆られながら、けれど動けずに座っていると、あの、と声をかけられた。

 ゆっくりと顔を上げると、さっきの医事課の女性職員だった。

「もう一度お調べしたんですけど、確かに今年の九月二十八日に、乃都杏珠さんという方が救急外来にいらっしゃっていました」

「ですよね、そうですよね、それで、杏珠は」

 わたしは息急き切って、彼女に縋った。

「……それが、ですね、ええと」

 職員の女性が言葉を濁していると、一人の医者が近寄ってきて、

 そして、

「あれ? 乃都さん、ですよね? お久しぶりです。前回はご旅行と伺いましたが、今回もまたお一人で?」

 と、わたしに向かって訊ねた。

「……え?」

「覚えてません? 九月に足の捻挫で運ばれてきたときに、診察したの僕なんですけど……。乃都杏珠さん、でしたよね。函館山で転んで搬送されてきた。気が動転してらしたのか、名乗った名前と保険証で確認した名前が違っていたから、不思議に思ってよく覚えていたんですけど……人違いでしたか?」

 わたしはそのとき、どんな顔をしていたのだろう。見覚えもない医師との会話の、そのあとの記憶が曖昧で、気づいたらわたしは、どこかの海辺の、寂れた護岸の近くにいた。どうやってここまで来たのか、全然覚えていない。

 潮の匂い。海の生き物の匂いがする。

 雪が、海に向かって降っている。

 わたしはぼんやりとした頭のまま、一縷の希望を託しつつ、スマホを取り出して、恐る恐る歌恋に電話をかけてみた。

「ん? どうしたの? 電話なんかかけてきて。また何かあった?」

 歌恋の声の後ろで。チーの鳴き声がした。

 ああ、……よかった。

 現実、と思った。このスマホの、通話の先だけが、現実なのだと思った。今いるこの場所は、どこか別の、違う世界なのかもしれない、と思った。

「杏珠が……杏珠がどこにもいない。ねえ、どうしたらいいの? 杏珠はどこに消えたの?」

 気づいたら涙ががあふれ、止まらなくなっていた。

 杏珠の痕跡がどこにも無くなっていた。

 でも、

 歌恋なら。歌恋だったら絶対に、杏珠を覚えているはず。忘れることなんてありえない。

 なのに。


「杏珠はあなたでしょ?」


「え……?」

「だから、杏珠はあなたじゃない。何を言っているの? 杏珠ってさ、なんかテンパるといつも自分のこと杏珠って、一人称? で言うけど……あのさ、本当にどうしちゃったの?」

 わたしは呆然としながら、通話を切った。

 雪が目の中に入って、痛い。

 わたし、わたしは……わたしの名前は、月庭。月庭一花、のはず……なのに、何が、どうなってしまったんだろう。わたしの名前のTwitterのアカウントも、わたしの名前で投稿された小説のサイトも、存在するのに。でもそれは、本当は……杏珠が書いたもので、あの子がわたしの名前で、けれど、でも、……わたし? わたしって、誰?

 わたしが乃都杏珠なら、あの子は……誰なの?

 どうして……消えてしまったの? どこにいったの?

 それとも、

 最初から、


 ……最初からいなかった?


 護岸に、波の当たる音がする。

 鉄塔が電線を震わせ、虎落の笛が鳴っている。

 人影はなく、独りきりの世界に取り残されて。

 わたしは一歩も動けずに、呆然と海を見ていた。



「着きましたよ」



 タクシー運転手の声がする。

 握りあわせた手と手の上に、汗がぽたりと落ちていくのが見えた。その先の足も、微かに震えていた。

 心臓が、激しく胸の内側を叩いている。

 わたしは目を見開き、後部座席でうつむいたまま、病院の建物を見るのが怖くて、いつまでも、顔を上げられずにいた。

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