第7話 酒涙雨

「なんで年に一回しか会いに来てくれないの!」

「仕方ないだろ、きまりごとだし他に仕様がないんだから」

「仕方ないで済む程度なんだ、そうなんだ」

「なっ、こうなったのは俺たちふたりのせいだろ」

「そうだけど、そうだけどもっとなんかあるでしょ」

「なんかって何、っていうかやっと会えたときだって俺の格好が気に食わないとかもっと他に行きたいとこあったとか帰り際になってぐちぐち言い出してさあ、いっつも最後台無しにするの自分だろ」

「だって毎年代わり映えしないんだもん一年も猶予あるのにもっとなんかないわけ」

「だからさあ、すこしは思いやりっていうか歩み寄ってくれてもいいんじゃないのって話」

「なにそれ私に思いやりがないって言いたいんだ、なんかよくわかんないとこ連れてかれてもにこにこしてるじゃない、せっかく一緒にいるのにつまんない顔して水差すのはむしろそっち」

「はあー? 俺はもともとこういう顔なんだよ」

 雲上の嵐は収まったが言い争いは続き、織姫と彦星の事情が加味されたことで両者の立場がはっきりした。しかし泥仕合には変わりない。若い鳥たちは興味津々で、次々繰り出される不平不満の応酬を右に左に首を振って聞き逃すまいとしている。

 彦星はともかく、織姫がこんなに気性の荒いひとだったとは。橘彦は、己を通してできあがった人物造形にある人のイメージが多分に投影されていることに気づいて、さらに落ち込んだ。

 つねに接点のある若い女性なんて、仁世ともう一人しかいない。

 巴の火花の苛烈さは、どこまでも爪痕をのこさずには済まさない。もううんざりである。

 こうなったら俺だって、うんざりついでに言わせてもらう。

「あんたらなんで一緒になったの」

「ウワア言っちゃった」

 橘彦の陰鬱な声とは対象的に、仁世が手のひらをパチンと額に打ち付ける音が場違いなほど明るく響く。これを受けてか振り返った顔のない織姫と彦星の両陣営に、ゆらりと不穏な陽炎がたった。焼け石のごとく暗い紅に双眸の気配が二組、ぎらりと橘彦を見据える。

「見たまえキョンキョン。古くは万葉の時代から脈々と歌い継がれてきた、稀なる逢瀬に期待を膨らませた者たちの、あれが末路じゃ」

「言ってる場合か」

 本能的に身震いして危うく眼を背けそうになるが、身についた教えが橘彦を踏みとどまらせた。森本には、怖いときほど目を離すなと繰り返し言って聞かされている。現実とその奥にあるものを直視することは苦しくもあるが、目を逸らせば最大の利点を自ら封じることになる。

『無闇に立ち入らないのは美点でもあるけれど、一度関わることになったらもう肚をくくりなさい。きみにはその気迫が足りないように思うよ』

 気迫、覚悟、矜持。言葉を変えて何度か諭されたが、どうも腑に落ちなかった。今だってさっぱりわからない。互いが互いに求めるばかりで、結局自分も周りも痛めつけている。橘彦には、人に執着すると碌なことがないように思える。

 手をこまねいている間にも陽炎の膨れ上がること積乱雲の如し。それは憎悪にも似て、ふたたび嵐を招かんとしていた。そのなかでささやかに光るものがひとつふたつ、橘彦が努めて眼を凝らすも、煌めくそばから見失う。

 否、なすすべなくこぼれ落ちて息絶えているのだった。めざとく気づいた雀の子が、くちばしでつまんでしょんぼりしていた。

 橘彦の〈水晶眼〉は、その一瞬に多くのものを視た。あの暗く激しいゆらめきも、暗闇を突いたような煌めきも、もとを辿れば同じもの。大きく発散するか、小さく見えにくいかの違いだけ。

 視たいものを視る。それが無粋な作為ではなく、当人たちですら見失った真意を照らすならば。

 橘彦の手が胸の前で空を掻く。ろくろを回してみたり、指をわきわき蠢かせてみたり。

「なになに、やらしい手つきしちゃって」

「ちがう、そうじゃなくて」

「このタイミングで陶芸にでもめざめたかね」

「それ!」

「えっ」

 いつも察しのいい仁世も今度は本気ではなかったらしい。「まじー?」と半信半疑ながらザックを探り、すぐさま目当てのものを取り出した。

「粘土ならあるけども」

「うそだろ」

 私を誰だと思ってるのさと言わんばかりに意気揚々と包みを剥がす。つるりと灰色がかった塊は、しかし彼女の両手のひらにも満たなかった。

「小さいな」

「つなぎならいくらでもあるよお」

「どれ」

「ほれ」

 仁世の指差す先、まさかと思って振り返ったそこはすでに紫黒に染まり、今にも橘彦たちを飲み込まんとしている。

「まさか」

「気合だよ橘彦くん」

「そんな」

「あるいは思い込み!」

 フレームに囲まれた目元がきゅうと細くなる。

「私も手伝うからさ」

 そう言って橘彦の背にもみじをお見舞いし、ふたたびザックからなにやら細長い筒を取り出す。しゅるりと解いて広げたのは、畳一枚分ほどの大きさのラグマットであった。翠玉の地に複雑な織模様、すこし丸め癖のついたところを手のひらで均していくと、ひとまわりもふたまわりも大きくなった。

 これが仁世の工房、彼女が築き上げた不可侵領域。思い描いたものとその働きを形にするための、〈こちら側〉でのみ機能する妄想装置である。

 仁世はさらにまな板のような作業台を取り出し、これも彼女の手によってずいぶん大きなものに変わった。

 いつの間にか鳥たちが群がってぴいぴいざわざわとせわしなく、結果として防壁になってくれている。

「いつ見ても不思議ですよね」

「頭のなかぐらいは好きにさせろっていう、創作オタクの技術の粋を込めました!」

 ひとつ胸を張ってみせると、仁世は人ひとり寝られそうな大きな台の上で一握りの粘土をこねはじめた。

「どんどん練り込んで行くよお」

 一体どこで会得したのか、彼女の菊練りは見事なもので、橘彦は慌ててそこに嵐の幼生を引き込んだ。つるりと静かな塊にじわりと赤みがさし、熾火のような黒が燻りはじめる。鳥たちの羽ばたきも手伝って、粘土の塊はあれよあれよと言う間に人の頭ほどの大きさになった。

「ひーしんどい。交代」

「えええ」

 戸惑いつつも素直に従って、見よう見まねで体重をかけた。掌底に力をこめて押し出していく。橘彦に代わってからずいぶん変形してしまったが、それでも粘土は着々と成長していった。

 底が抜けて取りこぼしてしまったものを拾い上げる。そのために、受け皿が必要だと思った。人の度量をよく器に例えて言うが、橘彦が作りたいのはまさにそれで、執着の前にあったはずのもっと地味でささやかな喜びを受け止めて、溜めておく場所があればいいと直観したのだった。

 とてもとても照れくさくて言えないが、あえて言うならそれが愛ってものじゃないかと思うのだ。

 さて、感情のやり場をあらぬほうに向けられて狼狽えたのは当の織姫と彦星である。そのせいで害意の手が緩んだところを仁世は見逃さなかった。橘彦に体当たりをかまして退かせるとひと言、「巻き込め」と命じた。

 工房の主、さらに言うなら創造主の風格。スイッチの入った仁世を止められる者はおらず、橘彦はおっかなびっくり彦星の肩に手を回した。相手が反応しきれないでいるうちにもう一人。もう一方の腕で織姫も抱え込むと、鳥たちの後押しを得て粘土の上に雪崩れ込む。

「はい、みんなこねる!」

 仁世の有無を言わせぬ号令で、よくわからない顔ぶれが互いに向かい合った。ここは仁世の独擅場、橘彦ならいざ知らず、あくまで被創造世界の住人である織姫と彦星が叶うはずもない。はじめのうちは小さな輪でごちんごちんと頭をぶつけ合いぶつくさ文句を垂れながらこね回していたのが、さらに粘土が大きく育って距離が空くころには四人とも口もきかなくなり、無心で取り組んでいた。すこし離れてみたほうが、手元も互いもよく見えるものである。

「よし、そろそろ形にしよ」

 気づけばあたりはすっかり凪いで、紺碧に星のような瞬きが灯りはじめていた。鳥たちは首を埋めて身を寄せ合い、こっくりこっくりと寝入っている。

「それで、あなたたちはどういう形がいいの」

 仁世はいつもの調子を少しだけ抑えて、織姫と彦星のふたりに問うた。目鼻のはっきりしない彼らが顔を見合わせる。怒りも不満もまっさらに均されて、すっかり当惑しきった様子。

「これから二人がどうなっていきたいかって話だよ。そうだよね?」

 橘彦は内心舌を巻きながら頷いた。流されるまま取り掛かった一連の作業には、橘彦には言語化できなかった意図がちゃんと通っていたのだ。

 とそこへ、一羽の鳥がちょんちょんとおぼつかない足取りで寄ってきた。

 くちばしの先に光る星。さきほどの雀である。織姫と彦星の前にもひとつちょんちょん進み出ると、つまんだ光を粘土のまんなかにそっと据えた。

「消えないでがんばってたから、返すね」

 下まぶたがぐぐっと上がってそのまま意識を飛ばしそうだったが、危うく踏みとどまって仲間たちのもとへ戻っていく。安心したのか、ふっくらと首を埋めて目を閉じた。

 弱々しく息づく星は、それでもふたりを淡く照らした。織姫と彦星はやがてどちらからともなく粘土に触れて、光を包むように形を整えはじめた。

 一心に伸ばし、曲げて、ときに引きちぎった切れ端もまたつなぎ合わせる。塊はゆっくりと時間をかけて、器の形を成していった。彼らの手元にはらはらと光の滴がこぼれ、こぼれたものを逃すまいとさらに縁を高くする。真っ暗に塗りつぶされた視界が晴れて、置いてきぼりのあれこれが照らされる。器を満たすのはこれまでの仕打ちに対する後悔と本来持ち合わせていたはずの慈しみの涙。とうとう器から溢れてしまうと、白糸のごとき細い川となって流れ落ち、やがて降り続く災禍を清かに鎮めていった。

「これがあまのがわ?」

「天の川だね?」

 見ればあたりは随分と明るく、ぱっちり目を覚ました鳥たちが次々に飛び立っていった。下界へ向かって大きく広がる光の帯に隊列を組んで、その光景はまさにカササギがつくる橋のよう。ただかれらはのびのびと飛び回り、災いの締めくくりにふさわしく愉快な声を響かせるのだった。

「やるじゃん、きーくん。器ってところがいいセンスしてるよ」

「壊れてもまた直せばいいんじゃないすかね」

「フッ、き、気障っ……」

「ニヨさんが言わせたんでしょうよ」

 その日、おもての世界でも本格的な梅雨入りが発表された。七夕はあいにくの空模様となったが、あのふたりはかえって穏やかな時間を過ごしていることだろう。

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銀杏堂異聞―夏宵― 草群 鶏 @emily0420

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