第6話 アバター

「目が、目が乾く」

「見ないどいたらいいじゃないですか」

「こんな面白いもの、見ないとかある?!」

 仁世の執念はたびたび橘彦の理解を超える。鳥たちの翼の力を借りて光の流れに乗りながら、彼女はいま起きていることを見逃すまいとあえて目の焦点を合わせぬようにしていた。一点に注目してしまえば他を見逃す。経験から会得したやり方らしいが、はたから見ると心ここにあらずといった様子で実に気味が悪かった。仁世の中ではなにかがものすごい勢いで組み上がっては崩されており、ちらと覗き込むだけでも忙しない。

 もうひとこと物申してやろうと橘彦が口を開いたまさにそのとき、がくんと翼が傾いで危うく舌を噛むところだった。言うだけ無駄ではある。勢いを削がれて、そのまま口を噤んだ。

 オーロラ、あるいは雲間から降りる天使の梯子の如き光の幕に揺られて上へ上へ。ひとかたまりに見える光はじつはたくさんの星の子の集まりで、もう少しで姿が捉えられそうなあやふやなものと鳥たちがいっしょくたになって押し合いへし合いしながら、気流ならぬ光流を生み出していた。たまに目測を誤り互いにぶつかって、元気が有り余っているからあちこちで小競り合いが起きる。とはいえ星の子も鳥の子もとにかく飛べるのが楽しいようで、ひとしきりバチバチやるだけで気が済むから後腐れがない。ただ、不用意に巻き込まれたら小柄な仁世など軽くすっ飛んでいってしまうだろうから、これは橘彦が気をつけてやらねばならなかった。

 まったく、損な役回りである。

 行く手に大きな渦巻きが見えた次の瞬間、一行はひろびろしたところへぽーんと放り出された。そこは分厚い暗雲の上、下界へ雨となって降り注いでいたものが、ここではより大きな質量をもってずしりと居座っているようである。

 橘彦ほどではなくとも不穏さを感じ取った鳥たちが団子になって身を屈める。そのすぐ上をなにかがひゅうと掠めていって、橘彦の首筋あたりが総毛立った。星の子たちの清かな光が上にかぶさって、辛うじて難を逃れているのみ。

 轟々と絶え間なく飛び交う呪いの応酬。両陣営にとてつもなく大きな何かがいて、ただその実体が掴めないのだ。

「ねえキッチン!」

「はい?」

「よくわかったね自分のことだって」

「いいから用件を言ってくださいよ」

 自分で呼んでおきながら感心してみせる仁世に、若干イラッとしつつも声を張って応える。なんらかの圧がかかって身体が重く、あまり長くいたい場所ではない。

「なんかこのかんじ、見覚えない? これもおじいちゃんちで見たことある」

「あ?」

 声が通りづらいぶんいつも以上に喧嘩腰になる橘彦に、仁世は翼の影からニッと笑いかけた。

「うちのおばあちゃん、キレるとバチクソ怖いんだよお。それと同じかんじする」

「全然わかんないんですけど」

 彼女は橘彦の問いかけを一旦おいて、口を引き結んで耳をすました。橘彦も、不服に思いながらもそれに倣う。

 絡み合い吹きすさぶばかりの音の群れ。注意深く耳を傾けると、慣れのためかだんだん言葉が形を為しはじめた。

『空けておいてって言ったのに』『急に言われても困る』『嫌なら嫌って言ってくれれば』

『せっかくの休みなのに』『ちょっとは協力してくれてもいいんじゃないの』『なんでわざわざ人混みのなかに』『こういうときくらいしか一緒にいられないじゃない』『どうでもいいんだ』『他の人と会ってるんじゃないの』『一緒に行くって言った』云々。

 ――聞かなきゃよかった。橘彦は後悔に顔をしかめる。

「なにこれ、痴話喧嘩?」

「とは限らないけど。これ毎年夏に爆発するんだよねー」

 ここまで大事になるのは稀なので、だいたい巴一人が出張れば収拾がつくのだという。それがどうしたわけか、今回は災害レベルに膨れ上がってしまった。

「夏っていう記号にみんな過剰反応するんだよにゃあ……ここぞとばかりに浮かれたい勢とクソ暑いなか出かけたくない勢のすれ違い、アンド、いわゆるリア充を呪う勢の心理が、本格的に予定を立てはじめる時期にぶつかってさ。口では我慢して内心モヤモヤしてる、みたいなのもこっちには全部筒抜けだから、表面上ニコニコしてても荒れに荒れるわけ」

「はあ……」

 不満は期待の裏返し。望むからこそ軋轢は生まれる。

 橘彦には微妙に共感しづらい話だ。

「いつもはどうしてるんです」

「巴ちゃんがボコボコにして黙らせる」

「ええ……?」

「別にほっといてもいいんだけど、そのほうが早いんだよね」

「そうじゃなくて」

 なぜこの人たちはなんでも物理で解決しようとするのか。それに。

「こんなの、どうやって……」

 橘彦は周囲を見回して途方に暮れる。荒れ狂う感情の嵐に、身を寄せ合う鳥たちの翼がびりびりと震えた。みな首を竦めて互いを見交わしている。

「困ったねえ……」

「そうだねえ……」

 かれらにもこんな事態は予想外だったろう。それはそうだ、空を飛ぶのだって初めてなのである。

 そんななか、仁世がザックの中身をごそごそと探り出す。橘彦が見守っていると、やがて彼女は一冊の本を取り出した。ソフトカバーで、いくらか開きグセがついて膨らんだ大判の冊子である。

「正体なんてひとつじゃないよ。見たいように視たらいいんだよ」

「なんて?」

 橘彦のほうに差し出した仁世の言い方は、いかにも謎掛けめいていた。

「ものごとは見る人によって変わるでしょ。視ること自体が、相手の在り方を決めることもある。君の眼だって、それだけの力があるんじゃないかい」

 とりあえず手を差し出した橘彦に、彼女は重ねて言う。

「人に影響を与えるって、べつに悪いことばかりじゃないよ」

 手のひらに載せられた重みには、〈キャラクター設定ハンドブック〉とある。橘彦がいる側へ移ってきた仁世は、付箋だらけの冊子をばららとめくって目当てのページを指さした。

「時期的に、これとかどう?」

 意図をつかみかねる橘彦に、見上げた仁世の眼鏡が妖しげに光った。


 頭上で繰り広げられる要求と罵詈雑言のぶつけ合いはいよいよ泥試合の様相を呈して、橘彦はまともに耳を傾けるのをやめた。代わりに文句の出どころに注意を向ける。

 呪詛を吐き続ける者は誰か。決めるのは橘彦自身だ。見えないもののなかから見たいものを拾い上げ、事実のほうをねじ伏せていく。

 自らの都合にあわせて見方を変える。橘彦が無意識に忌避してきた行いであった。

「疑うな、思い込め! 嘘も方便っていうでしょ」

 仁世のちょっとずれた檄が飛んで、橘彦の背中を押す。やがて嵐は、寄り集まった橘彦たちのこちら側と向こう側、ふたつの陣営に分かれて糸を巻き取るように渦を巻きながら収束していった。

 ぎゅうっと縮まりまとまって、その中心にひとつずつ人影があらわれる。

 星の髪飾りに薄羽衣の娘と、高く結ったまとめ髪に編み上げ沓の青年。

 足元に開いたままの七夕キャラクターのページ。橘彦の視る力が、この災禍を織姫と彦星の物語に置き換えたのである。

「顔がよく見えないけど、まあ及第点じゃない?」

「無茶言わないでくださいよ……」

 顔の造作はどう頑張ってもぼやけて見えない。これがイメージの限界だった。

 慣れない荒業に神経をすり減らした橘彦の背を、仁世がぽんと叩く。

「役者は揃った。おれたちのたたかいはこれからだ!」

「まだあんのかよ……」

 下界の雨は未だ止むことなく降り続いている。

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