第5話 蛍

 浅い青はまだらに透ける。漏れ出す光がわずかな亀裂を捉え、ぷうっと小さく膨らんで顔を出した。

「ふわあ……」

 雛たちは声を抑えつつも、抑えきれない期待に目を輝かせた。皆ますます間近に覗き込み、産毛まじりの羽がぶわっと膨らんだためにひとつの塊のようだ。卵はさながらふわふわの台座に横たえられた宝石。一定の調子を保ってわずかに明滅する光は物陰で息を殺すいきもののようで、いかにも用心深い様子がみてとれた。

 皆が固唾を呑んで見守るなか、橘彦の目のなかに映ったのは押し合い軋む相克の影である。ぎりぎりと嫌な波長とともに発する訴えは、橘彦にとっては馴染み深いものだった。

「あれ、ひっこんじゃった」

「おーい」

 案の定、出てくるのをやめてしまった光は卵の奥のほうへ退いて、ぐるぐるとわだかまった。その姿は、呼びかける雛たちから逃げ惑っているようにも見える。

 いてもたってもいられず進み出た橘彦の背後で、仁世が「あらめずらし」と呟いた。アカネは腕を組んで静観の構え。ふたりとも、彼がやみくもに手を出す人間でないことはよく知っている。

「ちょっとごめんよ」

 二重三重に卵を取り巻くふかふかの群れにそっと割り込んで、一羽ずつていねいに避けていく。苦労して中央にたどりつくと、卵の青がいっそう強く瞬いて橘彦のひたいを照らした。

「よーしよし」

 雛たちいっしょくたに宥めながら指先を差し込み、うっすら息づく卵の温度を持ち上げる。

「ああー」

「ごめんごめん」

 抗議をふくんだ落胆の声も、ひたりと馴染んだ丸みにはかなわない。卵は橘彦の手のなかでじっと落ち着いて沈黙した。

「悪いけど……」

「出てたほうがいい?」

 よく通る声が橘彦の意図を先回りする。いつもおどけた調子の仁世の瞳の奥は、しんとおとなしく落ち着いて見えた。

「うん」

「かしこま!」

 元気に敬礼した仁世は、「はいはい行くよ〜」と雛の群れを先導してアカネたち大人の背を押し出しながら、ついでに灯りも落としていった。

「このほうが落ち着くでしょ」

 振り返りざまのひと言は誰へ向けたものか。仁世は意外に多くを語らない。彼女には彼女の、橘彦とはまた違った世界が視えているのかもしれなかった。

 さて、部屋に残されたのは橘彦と卵、そしてシラタマの三者である。卵の放つ光が部屋を水底の様相に変え、シラタマのつややかな羽が茫と浮かび上がる。

 彼はなかなかに肝が据わっていた。

「で、どうすんの」

「え、どうって」

 鉤爪のある指で器用に頬杖をついて、口ごもる橘彦をじっと見下ろす。羽根の色よりわずかに赤みのある目元に、睫毛の長い影が落ちた。

 新たな一歩を踏み出すときは怖いものだ。うまくいくならまだしも、失敗する姿を見られると思うと身が竦む。橘彦自身がそういう性分で、できることならまず何事も人目のないところで取り掛かりたい。ひとりで試行錯誤して、人の目に触れてもいいのはそれからだ。

 よそからすれば大したことではないだろう、しかし当事者にとっては切実で、ともすればどんな重大事であろうと諦めてしまいかねない。橘彦は、卵のなかからそういう切迫した葛藤を感じて、できることをしたまでだった。

 まるで他人事ではなかったからだ。

 どうする。というか、どうしたいのだろうこの卵は。先の考えなどなく導かれるまま動いていた橘彦はいっとき途方に暮れた。手の中の卵だけが、ただ穏やかに脈打ってあたたかい。

 しんと静寂のおりた部屋に、不意に若く傲慢な響きが鳴った。

「あんたはどうしたいの」

 橘彦がはっと顔を上げる。

「いいよ、すきにやってみなよ」

 細く頼りない首に肌理のこまかい膚、雛期を過ぎたばかりにも見える鳥の少年があらわす態度はあまりに堂々として、これが産み落とした者の矜持なのだと思い知らされた。橘彦はあくまで同情しただけの他者であり、生まれくるもの、もしかしたら生まれてこないかもしれないものと対峙するだけの覚悟はなかった。

 これまでは。

 しかしいま、シラタマから子の生殺与奪について移譲されたのである。これはもう、橘彦が負うた命。流されているだけでは先へは進めない。

 相手の出方を窺っているだけでは、己の望みは果たせないのだ。

「シラタマ」

「おう」

「ちょっと手荒な手を使うけど」

「いいよ、やってみなって。こんだけ焦らすくせして、くたばるならそこまでだよ」

 紅いくちびる、中性的な印象の強いシラタマの口元がくっと歪み、凄絶な色香を放った。彼が言うならそうかもしれない。

「おれが産んだからには、そんなやわじゃないはずだけど」

 根拠などない、絶対的な自信。若さというには眩しすぎる。彼の言葉には魔術が込められており、橘彦の意志にも力を注いだ。

「わかった」

 もう出てくる準備は整っている。少なくとも橘彦にはそう見えた。本来ならいつ生まれ出てもおかしくないのだ。あとは本人の勇気ひとつ。

 この卵の中のものと、橘彦自身はよく似ている。

 橘彦が新たな環境で自らの性質を認められるようになったのは、そうだ、巴がきっかけだった。彼女がもつ乱暴で一切の配慮を欠く、しかしきわめて純粋な気性と激しく衝突したのがはじまりだ。世間ではこれを荒療治というが、ときにはそうした過干渉が必要な場面もあるのだ。

 書いて字のごとく。閉じこもる殻すら割ってしまえば、もう逃げも隠れもできはしないはず。両手のあいだで息づくやわらかな青。すうと息を吸い込んで振りかぶる。

 鳴かぬなら、叩き割ってやろうホトトギス。

 ぐっと背をそらしたそのとき、卵がたえかねたようにびりりと震えた。まるいかたちが崩れていく手応え、四方八方に閃光が放射して駆け回り、一目散に出口へ向かう。

「うわあ」

 すぐ外に控えていた仁世たちの飛び上がった声がして、遅れて飛び出した橘彦の視界でたくさんの産毛が舞った。生まれた光は石の塔を突き抜け世界樹の背丈を遥かに超えて駆けのぼり、清冽な光が天を打ったかと思うと、災禍を孕んだ雨脚をぱっくりと割る。裏の世界の天地を串刺しに貫いて、その先にある一方向を明確に指し示した。

 他方、まるで綿雪のように舞い降りる産毛のなかで、若い鳥たちが大人顔負けにつややかな羽根の生え揃った翼をばたつかせた。かれらはもう雛ではない。ぴいぴいと拙かったさえずりに芯が通り、力ある声色が歓喜をあらわす。鳶色に朱鷺色、鳩羽色。とりどりの羽根の艶が、一足飛ばしの成長を物語る。

「星の子か」

 アカネが感じ入ったように呟く。生まれたての光の強烈な力が、雛たちの時間を一斉に進めたのだった。

 稲妻のような衝撃をもたらした光とは別に、橘彦の手にした卵殻にはおとなしい光がまだ居残っていた。いくつかに分かれるとはらりと飛び立ち、心細さを埋めるように元・雛たちにじゃれつく。姿かたちはまるで違えど、親しく戯れるさまはまるできょうだいのよう。くるくると互いを巡って舞い踊る。

 星の光は時をかける。蛍の光は刹那を照らす。清かな灯火はいつだって向かうべき先を示してくれる。ならばあとは駆けるのみ。

「いてっ」

「あっ、ごめんなさい!」

 不慣れな鉤爪が橘彦の袖を裂いた。今度はいくらか加減して、鳥の子たちが腕をつかんで持ち上げる。さらに蛍火がまとわりつくと、途端に身体が軽くなった。見れば、仁世の身体もふわりと浮き上がっていた。

「これで一緒に飛べるね」

「やっぱりひっぱってあげたほうがいいかな」

「そうだね」

「そうだそうだ」

 若い鳥たちは口々にさえずり合って、しかも飛べるようになった喜びで興奮しすぎてまるで要領を得ない。かれらと星の子にはなにか通ずることばがあるらしいが、これは橘彦の目では捉えきれなかった。

 そこへ首領の喝が轟く。

「どこへ行く」

「ぴっ」

 鳥たちの翼がこわばった拍子に腕がぎりりと締め付けられて、橘彦も仁世も小さく呻いた。慌てて緩められた鉤爪から放り出されるかと思いきや、蛍火に支えられて二人の身体は浮いたまま。慣れぬ状況にそれぞれひっくり返ったまま、笑うに笑えない表情のアカネと目を合わせる。

「ふっ」

 三者とも堪えきれなかった。途端に、ほっとした鳥たちが口を開く。

「喧嘩両成敗だって」

「『不毛なあらそい』を止めにいくんだって」

「『不毛』だって、羽根ないのかな、かわいそうに」

「かわいそうだから一緒にいってあげていい?」

「すぐかえってくるから」

「ちょっとぼうけんするだけだから」

「ねえ、いいでしょう?」

 詰め寄られた拍子に顔を顰めたアカネは、「わかったわかった」と鳥衆を黙らせる。

「どうやらこれが最善手のようだな」

「でしょうね」

「異議なーし」

 橘彦と仁世は苦労して空中での姿勢を立て直し、くらくらした頭のまま返答した。

 星の子の導く先、かれらのいう『不毛なあらそい』こそが今回の災禍の原因だろう。誰から届いたものか、文鳥の運んだ便りは道案内だけは得意らしい。

「よし、行ってこい」

「はーい」

 揃って発する明るい返事には一点の曇りもない。世の憂いと縁遠いからこそ、若い鳥たちには無敵の勢いがあった。

「いってきます!」

 一羽、また一羽と露台を飛び立つ。先走る若さのなかで、気がついた者たちが橘彦と仁世に脚を差し出し、牽引する役を買って出た。

「ありがとねえ」

 仁世が何気なく発した感謝の言葉に、一羽が物知り顔で請け合う。

「これくらいいいよ、あとのほうが大変みたいだし」

「えっ、それってどういう」

 橘彦の問いかけを待たず、鳥たちがぐんと羽ばたいた。翼は天路にのって勢いを増し、目指すは遥か、星の領域である。

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