第4話 触れる
世界樹の幹を覆う〈塔〉は性質の違う九つの棟に分かれており、翼もつものたちが根城にする〈石の塔〉にはおよそ階段や昇降機らしいものがなかった。とろりと淡い色合いの岩肌、吹き抜けになった内部に無数の横穴が穿たれていて、駆け上がる気流に高く低く咆哮する。まるで塔全体が大きな笛のようだ。
随所に設けられた露台の下を選んで降り注ぐ雨を避けながら、塔の内部を降りていく。この高さからだと底が見えない。いつもなら背に乗せてくれるのに、「大した距離じゃないから」とアカネとその配下が鳥型に戻るのを渋ったせいで大きな鉤爪に吊り下げられた格好で運ばれ、橘彦はたいへん肝の冷える思いをした。
ところが、こんなときでも仁世は爛々と目を輝かせている。曰く、「創るタイプのオタクにとってはどんな経験も取材対象」とのことで、器の違いを思い知らされるばかりだ。
「そら、ここだ」
アカネのひと言を合図に大きな羽ばたきひとつ、身体がふうっと持ち上がり、橘彦はたたらを踏みながら着陸した。ちょうど足のつくよう丁寧に下ろされたもののそこは石の塔、露台にもちろん手すりなどなく、姿勢を低くして急いで縁から離れる。
「落ちたら落ちたで拾ってやるのに」
「毎度毎度おそろしい想像させるんじゃない」
聞くだけで身震いした橘彦の視界に、まだ遠い底を興味深げに見下ろす仁世の姿が入った。ともすればそのままころりと飛び降りかねない様子に、四つ足で駆け寄って引き戻す。
「ちょっと、気をつけてくださいよ」
「落っこっても拾ってくれるって言うし」
「冗談に決まってるじゃないですか」
「あながち冗談でもないぞ」
「アカネは余計なこと言わなくていい」
あまり好奇心が強いのも考えものだ。アカネと橘彦はよく顔を合わせるから冗談の加減がわかっているが、仁世はこれを可能性として受け取ってしまうらしい。橘彦は時折、彼女のこういうところに凄みのようなものを感じる。
降ろされたところは他の巣穴と比べても大変よく手入れされて、桜色の岩壁は角ひとつなくなめらかに磨き上げられていた。悪天候をくぐり抜けてきた身をほっと労るような色合いで、自然と視線が誘われる。
奥から淡く明かりが漏れ出しているが、横穴は途中で折れて見通せないようになっている。塔内の他では見られないつくりだ。疑問に思いながら壁に彫りつけられた複雑な文様を眺めているうちに、ふと橘彦の眼から涙が溢れた。
「ここは……産屋か」
「よくわかったな」
アカネが半ば驚き、感心したように言う。
繰り返し刻まれた生命の記憶が、橘彦に視ずにいることを赦さなかった。ひとつひとつは判別できないが、熱く切実な何かが橘彦を追い立てる。
「ここは卵を産み育むために整えた場所で、普段は女鳥しか出入りしない。が、通常の時期は過ぎたからな」
先導するアカネの調子はどこか厳かで、あとに続く者たちも彼の振る舞いに倣った。橘彦が鼻を啜る音ばかりが反響し、見かねた仁世がハンドタオルを差し出したものの、タオルの柄がびっしりと猫だらけだったものだからたまらない。ふっと噴き出した拍子にまた涙が湧いて、ほとほと困り果ててしまった。結局、涙でまともに歩けない橘彦を仁世が介助する始末。
しずしずと角を折れて進んでいくと、きゃらきゃら甲高い声とともにまるい空間がひらけた。
「なんだこりゃあ」
仁世のすっとんきょうな声が、必要以上に荘厳に響く。
洞穴の中とは思えないほどあたたかな光が満ちるなかを、まだ産毛の残る雛鳥たちが忙しく動き回っていた。かわいた小枝や木の葉を集めてふっくらと白い布で覆い、見るからに気持ちの良さそうな寝床が整えられている。雛鳥たちが知恵を絞ったのだろう、最奥にはおもちゃやぬいぐるみに食べ物が山ほど積み上げられており、その中心に彼がいた。
「おい、遅いからもう一つ産んだぞ」
アカネと比べるとこぶりな鉤爪の足を尊大に投げ出して、シラタマは手足のすんなり伸びた、少年らしさの残る若者だった。淡く光を放つような乳白色の翼と、同じ髪の色。長く伸ばした前髪はすっきりと横に流して、大きな目を縁取る睫毛の長さが際立つ。薄い身体の下腹部だけが膨らんでいるところを見るに、まだ産まれていない卵があるようだ。
「産まれたのはどこだ?」
「ここだよ!」
雛たちが数羽でおしくらまんじゅうをしている隙間から、まるい輪郭がちらりと見える。
「おいお前ら、あんまりぎゅうぎゅうすんなよ」
「はあい」
元気いっぱいの応答に、「よし」と満足げな様子。シラタマはちびっこたちの親玉として君臨していた。
「ずいぶん慕われているんだな」
「まあ、いつも俺が面倒みてやってるからな」
「遊んでもらってるの間違いじゃないのか」
「あァ?」
男たちが言い争う横で、仁世がまた手を合わせてため息を漏らす。その様子を怪訝に見やりながら、シラタマが促した。
「なんか用があるんじゃないの。俺もとっとと解放されたいんだけど」
「そう言うわりに満喫してるようだがな」
「これけっこうきついんだぞ」
そこへ仁世がぽんと手を打つ。
「じゃあ、おなかぎゅっと押してみようかね。あたしおじいちゃんちでやったことある」
「やめろやめろ」
シラタマがあたりの布を掻き合せて身を捩った。マッドサイエンティストを地で行く仁世に、さすがにおそれをなしたらしい。
部屋の気配に慣れ、やっと涙の止まった橘彦は、あらためて周囲を見回した。抱卵する雛たち、ぱたぱたとお世話してまわる雛たち、少々やつれているが健康そのものの親鳥、シラタマ。いまを照らす命が、流れ込む記憶の奔流をそっと堰き止めている。
なかでも、とくに強く瞬くものがあった。
「……言いたいことがたくさんありそうだな」
「喧嘩売ってんのか」
シラタマに向けて発した言葉だが、橘彦が話しかけているのは彼ではなかった。橘彦が視えているとわかったのか、訴える光はけたたましく明滅する。
(わかったわかった)
引っ張られて歩み寄る橘彦に、シラタマがぐっと後退った。仁世と似たもの同士だと思われていそうだ、可笑しくて自然と笑みが漏れる。
「ちょっと、撫でてみてもいいかな」
「はあ?」
「大丈夫大丈夫」
よく見るとシラタマの瞳は深い赤をたたえ、それ以上に警戒の色が濃く出ていた。ふかふかしたなかに沈み込むまま傍らに跪き、橘彦が辛抱強く待っていると、彼はやがてふっと肩の力を抜いて腹に被せた布をよける。
ゆったりとした衣の下、覆いをとられた光は橘彦の目をいっそう強く刺しつらぬく。思わず目を背けそうになりながら、しかしこの呼びかけに応えられるのは橘彦しかおらず、絞りに絞った薄目で手を伸ばす。
指先がすべらかな感触を覚えたその瞬間、橘彦と相手をつなぐ回路が通った。めまぐるしく行き来する刺激は流星、あるいは巴の放つ火花にも似て、びりびりと橘彦を苛んだ。
ぐっと堪えて手のひらを添える。シラタマは息を詰めながらもじっと大人しくしており、他の者が目を離せずにいるなか、橘彦はまるい腹をなだめるように撫でた。
(大丈夫)
念じながら何度か往復するうちに瞬きが穏やかになり、同調するようにシラタマの呼吸が浅くなる。橘彦の手が止まるのと、シラタマが「……産まれる」とつぶやくのはほぼ同時だった。
シラタマが低く呻き、やわらかな布地の上に人の赤子ほどの大きさの卵がころりと転がりでた。まだ表面の湿ったそれは、あたたかな浅瀬に似た陽光の青。橘彦以外の者の目にも、淡く輝いて映る。
年長者たちがほうと感嘆を漏らす間に、雛たちがわっと群がって高く掲げた。
「生まれる!」
「生まれるよ!」
声に応えるかのように、殻にぴしりとひびが入った。
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