第3話 文鳥

 銀杏堂に関わるようになって以来、能力の制御にもあるていど習熟し、あえて視ないでいることもできるようになった。しかし一度視てしまったもの、正体を暴いてしまったものに対してもとの態度で接することは難しい。

「あー泣いてるー」

「泣いてない!」

 橘彦は、傘を差したまま棒立ちになって、今にもべそをかきそうだ。気の毒だと思いつつも、仁世は自分の頬を緩むにまかせた。指さして高笑いする巴に、精一杯噛みつく成人男性というのはなかなか見ごたえのある萌えである。

「かわいいねえ」

「くそ、他人事だと思って」

 いっぺん同じ目に遭ってみればいいんだ、と橘彦が毒づく。

 彼ならできるだろう、と仁世は内心で確信した。その眼が宿す力は、本人が思うよりきっと遥かに多くを巻き込むことができる。ところが、臆病なのか無欲なのか、橘彦は必要以上にものを視ようとしない。

 強固な自我をもつ仁世や巴と違って彼の境界は曖昧で、人の影響を受けやすい。覗き込むこと、踏み込むことで自らもまた曝すことになると、どこかで感じ取っているのだろう。

 好きなもので鉄壁を築き、他人に口出しをさせぬよう立ち回る癖がもう抜けない仁世としては、そのやわらかさが危うくも微笑ましく、すこし羨ましくもある。いい歳の成人男性に対して抱く印象として賛否はあろうが、「かわいい」は橘彦に対する仁世なりの賛辞であった。

「キリがないね」

 一行はなんとか歩き出したものの、道のりは並大抵ではなかった。斜面に沿って巡らされた通路は段々を流れる滝のありさま、建築物からキノコまで、ありとあらゆる形をとった〈本〉は今は固く閉ざされている。厄介なのは雨の飛沫で、身体に触れるとジリリと禍々しい姿に豹変した。巴が軽く手首を振るだけで目に見えぬ刃が空を裂き、あらわれた魔物を片端から叩き落していく。態度は意地悪だが、橘彦や仁世にまとわりつく分まできちんと払ってやるところが彼女の面倒見のよさである。

「こんなどうにもならないもの、どうやって相手するんですか」

「どうにもならないって先に言うなよ……さすがにこのままはないね。大元を叩かなきゃ」

「その眼で場所わかんない?」

「この状況でまた視ろって言う?!」

 橘彦の訴えはもはや悲鳴に近い。

「じゃあアンタ何のために来たのよ」

「巴さんが呼んだんでしょ……」

 安定しない情緒に早くも疲れの兆し。橘彦が顔をくしゃくしゃにしていると、その頬を鋭い殺気が掠めた。

 姿勢を低くする巴、しかしなにかが襲いかかってくる気配はなく、刀を抜き払うが如く美しく伸びた巴の指が豪雨の重い幕を切り落とす。弧を描く一閃にいっとき空の道があらわれ、その狭間を滑るように紅の風が飛来した。

 重たい羽ばたきは雨滴を力強く払い、災禍の鈍色に目の覚めるような赤銅の翼が降り立った。

「アカネ!」

 鳥の鉤爪と翼、褐色の肌と巨躯を誇る美丈夫。〈石の塔〉を束ねる鳥人の首領、アカネその人であった。続いてひとり、ふたりと降り立って、天の救けと橘彦が喜んだのも束の間。アカネはその赤金の瞳に炎を燃やしてカンカンに怒り出した。

 相手はもちろん、巴である。

「おぬし、あれは一体何だ」

「飛びづらそうだったから道を開けたろと思ったんだけど」

「あんなやり方があるか」

「身体が先に動いちゃったんだからしょうがないじゃん」

「あとわずかにずれていたらこちらがぱっくりだぞ」

「あんたがそんな下手こくわけないでしょ」

 さも当然のように言う巴に、アカネの勢いがぐぐぐと詰まった。仁世が橘彦に耳打ちする。

「ふたりとも、あれで互いの腕は信頼してるからねえ」

「へええ」

 アカネの視線がこちらをギッと射抜く。反射的に竦み上がった二人に毒気が抜かれたかのように、アカネの膨らんだ羽根がすっかり落ち着いた。

「言い争いをしている場合ではないな」

「そうだそうだ」

「おぬしはしばらく黙っとれ」

 その後もおもに巴のせいでひと悶着あったが、一行はかれらの翼で塔まで送り届けられることとなった。


 世界の観測と治安維持を担う〈石の塔〉。

 警邏隊の長がアカネならば、観測を受け持つのはクロガネ。青い光を孕んだ漆黒の翼、つややかな黒髪をもつ、アカネの兄である。

 石の塔でも最上階、広々と開いた横穴に滑りこんだ橘彦たちが目にしたのは水鏡を見下ろすクロガネと、その横で伸びている森本の姿だった。

「うわあ、大丈夫すか」

「ああ、きみたち……」

「え、ちょっと死なないでくださいよ」

「お迎えにはまだ早いかな……」

 縁起でもないことを言う巴に、森本が弱々しく手を挙げる。

「はいはい、おじいちゃん交代ですよ」

「悪いねえ」

 こう見えて筋金入りの山男で、過去の登山で幾度も死線を彷徨ったためか、森本は境界を操るのに長けている。この豪雨から住人たちを守り、避難経路を確保して退避させたのは彼の功績だ。大きな感情のうねりに巻き込まれて小さな思いや物語が失われることはままある。思想の多様性の芽を育むのもまた、銀杏堂の大切な務めなのだ。

 雨に濡れて消耗した一行に、木の精霊の手でほのあたたかい蜜が振る舞われる。人心地ついたところで、クロガネが口を開いた。

「シラタマが卵を宿したそうだよ」

「なに」

 厳めしいばかりだったアカネの声がいくらか弾む。どうやら朗報らしい。

「それは偶然とは思えんな」

「だろう」

 荒々しい覇気を放つ弟と並ぶと、クロガネの優美さが一層際立つ。その艶なること、相手を魅了して思考停止させるほどで、慣れているはずの仁世もかならず一度は手を合わせて拝むのだ。

「シラタマってだれ?」

 見れば森本も心当たりがないようす。みなの疑問を巴が代弁する形となった。

「シラタマというのは文鳥でね。まあ、男鳥なんだけれど」

「えっ、男なのに卵産むの?」

 反射で聞き返した巴に艶然と微笑むクロガネ。

「いいねえ、その反応の速さ。期待を裏切らない」

「軽口はいいから用件を言え兄者」

 苛つく弟をものともせず、にっこり微笑みかけて続ける。

「文鳥は名の通り文の鳥なのだよ。女鳥は雛を孵す卵を宿すが、男鳥は宿す卵は、まあひどく稀なことだけれど、それ自体が文なんだ」

 意味をつかみかねた気配を察して、「君たちの言う巫みたいなものだねえ」と付け加える。兄ののんびりした調子に耐えかねて、アカネがあとを引き取った。

「それで、今回運び手に選ばれたのがシラタマというわけだ。しかしあのやんちゃ坊主、おとなしくしてくれればいいが」

「うっかり割ってしまいかねないね」

「むう」

 事態を打開する大切な手がかりを宿しているかもしれない人物(鳥)は、どうもとんだ暴れん坊らしい。橘彦の眼も効かないほどの豪雨、鎮める術はひとつでも多い方がいいと、橘彦と仁世はアカネに伴われて男の文鳥・シラタマの元へ向かった。

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