第2話 透明
「で、何があったんですか」
地下フロアにはコミックや大型の画集などが並んでおり、主に仁世による手書き文字が薄暗がりのなかでもあちこちに躍っている。薄暗がりでも瞬くようなそれを横目に見つつ足早に書架の間を抜け、玉暖簾をじゃらりと鳴らしてさらに奥へ。人ひとりが辛うじて通れるほどのスチールラックの隙間をすり抜けつつ、橘彦と仁世は自分のザックを引き抜いた。橘彦のは無骨な黒一色、仁世のはネオンイエローの本体にネオンカラーのパーツがみしっと取り付いており、それぞれに必要な携行品がいつでも持ち出せるよう詰め込まれている。
「ひと言で説明しづらいんだよな」
「それって巴さんが説明面倒なだけですよね」
気怠げに宙を見つめる巴に、間髪入れずに言い返す。言葉通りに受け取って大人しく待っていると永遠にはぐらかされ続けることを、橘彦はすでに嫌というほど知っている。
「んにゃあ……あれはじっさい体験しないとわかんないかも」
ゆったりとした動きでザックを背負いながら仁世が笑う。
「強いて言えば、〈夏の魔物〉かな?」
「ふざけてます?」
「んにゃ。けっこう真面目よ」
眼鏡の向こうに三日月がふたつ並んだ。
奇抜な色彩を纏う仁世の内面には独自の秩序がはたらいている。その情報量と多彩さは、橘彦が覗き込むたびくらくらするほどだ。膨大な遊びを含みつつも冷静な彼女の見解には、銀杏堂の誰もが一目置いている。
「気温が上がるとテンション上がっちゃうのはみんな同じってことだねえ。テンションっていうかボルテージかな。夏そのものがでかいシーズンイベントみたいなもんだしね」
「今度のはまた情緒不安定」
「それよ」
巴と仁世が「まあわからんでもない」と笑みを歪める一方で、橘彦の表情はいよいよ曇っていく。
「俺さっぱりわからないんですけど」
「まあ、行ったらわかるよ。えらいことになってるから」
「ええー、やだあ」
「やだとか言わない」
駄々をこねる仁世をなだめながら、重い鉄扉を押す。ぽっかりと開いた暗闇の向こうから、ざわざわと水の気配がした。
己の指先すら見えないぬばたまの闇、互いのざらついた足音と壁の手触りを頼りに地下通路を進む。反響していた音はやがて広々と放たれて、訪れた者に環境の変化を示す。壁が消え、代わりに行く手に浮かぶ、うっすらと青い光の兆し。世界からふっと放り出されたようなこの一瞬には、橘彦もなかなか慣れなかった。
空を彷徨う光が像を結び始めるころ、一行の耳が異変を捉えた。
正確には、肌全体が、である。
「なんの音?」
「さあ、なんでしょーうか」
小馬鹿にしたような巴の口調に、仁世が「うええ」と呻いた。
「こりゃまた」
「ね、やばいでしょ」
微かな地響きと、絶え間なく轟く低音。時折金属を叩く丸い音、さらに近づくと怒鳴り交わす声が聞き取れるようになり、橘彦の肩に知らず力が入った。
「傘、ちゃんと持ってる?」
「持ってます」
いつもならまず正面に天を衝くほどの巨樹が飛び込んでくるはずだ。ところが。
「なあんも見えねえな!」
豪雨であった。水煙に視界は白く烟って、ものの影が辛うじて捉えられるばかり。呆然とする橘彦の隣で、仁世は腹を抱えて笑っている。
「な、な、なにこれめっちゃすごいんだけど」
「だいぶこじらせてるよね」
「重症がすぎない?」
三人がいるのは巨大なすり鉢状地形のふちのあたり。高いところなので水没を免れているが、底のほうはどうなっていることか。確かめるのも恐ろしい。
ここは人々の空想が形を得て息づく異界。さまざまな物語や伝承、思想の数々が分岐世界として収められた、言わば〈生きた図書館〉である。その中心がこのすり鉢区画で、中央に聳える世界樹および世界樹の幹と一体になったいくつもの〈塔〉が、無数にある分岐世界の均衡を保っている。
人間の想像から生まれた世界であると同時に、人間の想像や思想の源泉でもある。人々の精神世界に通底する、もうひとつのリアル。だから、世情が大きく傾いたなら、異界のほうだって荒れるのだ。
ただ、数年関わってきた橘彦もこれほどの光景は初めてだった。
「もたもたしてらんないよ、いまおじいちゃん一人で頑張ってるから」
「おじいちゃん言うな」
森本のことである。仁世に続いて傘の留め具を外すと、ほんとうに何の変哲もない透明ジャンプ傘で、橘彦はかえって感心した。
「片手で開くから楽だよ」
「知ってます」
冗談か本気かわからない仁世の瞳は爛々と輝いている。巴もいつの間にか上下フル装備のレインウェアに換装していた。
「行くかい」
「行くかあ」
さすがにこの雨のなか出ていくのは勇気が要る。思い切りよく飛び出していく仁世を呆れて見送りながらそろりと足を踏み出す、雨の境界に接した途端に傘がぐらりと傾いた。
傘に打ち付けてドロドロと太鼓を鳴らすような雨音。この水圧が前方だけにかかったせいでバランスを崩したのだ。直接雨を受ける背中からは刺すような痛み、これはただの雨ではない。
「なんのための〈水晶眼〉だか」
悪態をつきつつも巴が傘を起こしてくれる。視えすぎることで少なからず苦労した経験から、橘彦には視ないようにする癖がついていて、こういうとき仇になる。
「ごめんごめん、悪かったよ」
傘を低くかぶって引き返してきた仁世が気遣わしげにこちらを見上げた。
「この傘に入ってれば大丈夫。防御力カンストさせといたから。それに、透明だとよく見えるでしょ」
パープルに金彩のネイルを施した指先が上を指す。つられて見上げると、ゆらゆらとゆがんだ透明ビニールに叩きつける雨が、わずかに変化した。
否、橘彦の視ようとする意思が作用したのだ。ただの水と見えたそれは、無数の暗い色を含んでいる。傘に当たって粉々に砕けて、どろりと混じり合って流れていった。
「橘彦くん、これが夏の魔物の正体だ。夏を利用する人と呪う人、それぞれの盛り上がりがぶつかって、呪詛になって降り注ぐのだよ」
仁世の芝居がかった講釈を受け、橘彦はげんなりと視線を戻した。
「視なきゃよかった」
「でも、視えなきゃ戦えないでしょ」
「戦える気がしない。帰りたい」
「だめー」
猫背になった背に、今度はバシンと衝撃が走る。驚いて身を捩ると、犯人は案の定、巴だった。
「何すんですか」
「虫がいたから」
「またそんなこと言って」
憤慨する橘彦に、巴はバラ色の唇をへの字に曲げる。
「ほんとだって」
ほら、とつまんだ指先に、なにやらぐしゃぐしゃした黒いものが蠢いている。
うっと息を詰まらせた橘彦に、巴と仁世が声を揃えた。
「「夏の魔物」」。
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