戸惑いの中で

 夫妻の訪問から二日後、執務室へ出勤したヴィルヘルムは仕事机の上に一通の封筒が置かれていることに気が付いた。


(夜会の招待状か何かか?)


 白い封筒を手に取り裏を返すとそこには見慣れた名前が青いインクで綴られている。


「ローニャ?」


 予想外の宛名に目を見開く。まさかローニャから手紙が届くなんて思ってもみなかったからだ。


(こんなものをいつの間に)


 朝、寝室で寝ているのを見た。ぐっすりと眠っているので起こさないようにそっと身支度をして執務室へやってきたのだ。ということは、昨晩のうちに……ヴィルヘルムが執務室を去った後にこっそりと置きに来たのだろうか。それとも侍女に頼んで? いや、そんなことは最早どうでもいい。

 妻から手紙が届いた。そんな非日常的な出来事に心を躍らせたヴィルヘルムはペーパーナイフを手に取ると中身を破かないようにそっと封を開いた。


『ヴィル様へ』


 見覚えのある青いインクで綴られた己の名に思わず目を細める。


『突然のお手紙ごめんなさい。いきなりのことで驚かせてしまったら申し訳ないのですが、ロバートさんに勧められて手紙を書く事にしました』


 冒頭に綴られた、書かなくてもよい言い訳に思わず笑みが零れる。


『普段あまりお話する時間が取れないのでお手紙を書きました。何を書いたらいいのか分からないので今日あった出来事を書きます』


 そこに綴られていたのは他愛のない日常風景だった。その日食べた食事、初めて飲むスープが美味しかったこと、庭の池に小鳥がやってきたこと、その日描いた絵の話、画材の棚から新しい色の絵の具を発掘したこと。


(今まで何人もの女性に手紙を貰ってきたが、こんなに素朴な手紙は初めてだ)


 立場上、幼い頃から「娘をヴィルヘルムに嫁がせたい」と思っている貴族にアピールを受け続けてきた。毎日毎日親に書かされたであろう手紙がひっきりなしに届いてうんざりしたものだ。同じ形式の定型文に一通一通返事を書かなければならなくて、あまり「手紙」にいい思い出が無い。

 そんなヴィルヘルムでもローニャの手紙を読んで思わず笑みが零れてしまうほど、ローニャの手紙は「素朴」だった。こびへつらう訳でもなく、仰々しかったり堅苦しくもない。何か重要なことを書いている訳でもなく、そこに綴られているのはただのその日の風景――まるで日記のような手紙だ。


(だが、それが良い)


 多忙で中々ゆっくりと時間が取れない中、食事をしながら交わすような手紙を読んで癒される。あのローニャが自分のことを考えて書いてくれた。それだけでどんな宝石よりも価値のある物なのだ。


 ◆


 ローニャが手紙を送った日の午後、「秘密の庭」の邸宅にカゴ一杯の果物と一通の手紙が届いた。


「ヴィル様からのお返事だわ」


 手紙の差出人はヴィルヘルム。昼食の合間に返事を書いて急いで届けさせたようだ。


(ご迷惑ではなかったかしら)


 急な手紙が迷惑がられてはいないだろうか。そんな不安を胸に抱えてドキドキしながらペーパーナイフで封を切る。


『ローニャへ。手紙をありがとう』


 急いで書いたとは思えない美しく整った文字がローニャの目に入る。


『最近は仕事が忙しく、寂しい思いをさせてすまない。もう少しすれば仕事が落ち着くだろうから、ひと段落ついたら観劇にでも行こう。私を想ってくれた気持ちが嬉しかった。では、また食事の時に』


 簡潔な文章だが返事が来たのは嬉しい。「また食事の時に」とあるので今晩は夕食を共にとれるのだろうか。そして何より


(『私を想ってくれた気持ちが嬉しい』だなんて、まるで恋物語に出てくる一節みたい)


 その一文をなぞるように読むと何故だか心がじんわりと温かくなる。その気持ちが「恋」なのか「気恥ずかしさ」なのかはまだ分からない。しかしヴィルヘルムを「天使」として見ていた時には無かった感情であると自覚していた。


「こんなに沢山果物を頂いてしまって、どうしましょう」


 手紙を読み終えたローニャはカゴ一杯に詰められた果物に目をやる。葡萄や林檎、見たことのない果物がぎっしりと詰められており、とても一人で食べきれる量ではない。


「静物画の題材にして……それから食べきれない分はジャムにでもしましょう」


 下町では到底手に入らない高級品だ。食べるだけなのは勿体ない。果物をいくつか見繕い、夕食までの間スケッチに没頭したのだった。


 ◆


 その日の夕飯はいつもより少しばかり豪華だった。侍女のミーナに「今日はちゃんとしたお召し物でと申し遣っておりますので」と言われ、深い青色のドレスを身に纏ったローニャは気恥ずかしそうな顔をして椅子に収まっている。


「待たせてすまない」


 約束の時間を少し過ぎた頃、仕事を片付けたヴィルヘルムがダイニングルームへやってきた。給仕が夕飯を運んでくる合間に「手紙をありがとう」とヴィルヘルムが切り出す。


「あ、あの……ご迷惑ではありませんでしたか?」

「迷惑?」


 不安そうなローニャの顔を見て、ヴィルヘルムの脳裏に幼い頃に受け取った「迷惑な手紙」が蘇る。


「迷惑なものか。嬉しかったぞ」

「……良かった」


 ローニャはホッと胸をなでおろした。


「ヘルナー侯爵も気の利いたことをする」

「言葉で伝えないと伝わらないものだと……ロバートさんが仰って」

「ほう」

「私、思えばヴィル様とあまりお話していないなって。その、急に決まった結婚ですし、恋人だった訳もなくて、あまりヴィル様のことを知らないので……」

「私に興味を持ったか」

「えっ」


(興味?)


 興味とは「物」としての興味ではなく、「人」としての興味である。


(言われてみればその通りかもしれない)


 被写体としての興味ではない。寂しいとか、好きだとか、まだそんな段階ではないかもしれないけれど。だが、出会った頃の会話を思い起こすと果たしてそれは良いことなのだろうかと心配になる。


「以前、私が『被写体』としてヴィル様を見ているのが面白いと仰っていましたよね。……もしかして、ヴィル様を『人』として見るのはよろしくないこと……でしょうか」


 仮にヴィルヘルムが『自分を物として見るローニャ』が好きなのだとしたら、この変化は好ましくないのではないか。人としてヴィルヘルムが好き、容姿が好きとなればどこぞのご令嬢方と同じだと捉えられるのではないかと危惧したのだ。


「構わん」


 ヴィルヘルムはそんなローニャの言葉を一蹴した。


「ローニャが私を見る目は変わっていない。見える範囲が広がっただけだ。だから問題はないし、内面に興味を持って貰えるのは嬉しい」


 つまり共に時を過ごすことによって視野が広がったのだ。今まで見えていた物のずっと奥を見られるようになった。海の色が海面と深海とでは異なるのと同じである。よりヴィルヘルムの深い部分、眉目秀麗な表側だけではなく内面的で本質的な部分に興味を持ってくれた。それだけでも表側だけを絶賛されてきたヴィルヘルムにとっては大変喜ばしいことだった。


「ローニャがそうして興味を持ったように、私もローニャのことをもっと知りたいと思っている」

「私のことを……ですか?」


 ヴィルヘルムの言葉にローニャは困惑の色を見せる。


「ヘルナー侯爵に叱られたんだ。小さなお嬢さんになんてことを言うんだと」


(もしかして、庭の管理のこと?)


 「正しく庭を使えるから」という理由でローニャを選んだ。そう言った時の夫妻の顔は絵にして飾りたいほどだった。帰り際、ロバートはヴィルヘルムに手紙を残したらしい。内容はお察しだ。


「確かに私はローニャこそ庭の管理人にふさわしい、祖母が残したあの家を有意義に使ってくれる人だと思った。親戚たちの手に渡したくない。だからタイミング良く見つけた逸材を手放したくなかった。それは本当だ」

「私は気にしておりませんし、むしろあのような素晴らしい庭を頂けて感謝しております」

「うむ。だが、それだけではない」


 何か言いたげなローニャを制してヴィルヘルムは言葉を繋げる。


「私はローニャの絵が好きだ。初めて見た時の衝撃は今でも忘れられん。絵だけではない。絵を描いているローニャの横顔が好きだ」

「え?」

「ふとした時に見上げる表情も、絵を描いている時に輝く瞳も、思いやりがあって思慮深い性格も、絵や画材に対する情熱も、全て好ましいと思っている」

「……ありがとうございます」


 急に投げかけられる好意の雨に戸惑ったローニャは何と返せばよいのか分からずに真っ赤な顔で俯いている。そんなローニャを見てヴィルヘルムはふっと笑うと優しい眼差しを向けて言った。


「確かに私達の始まりは『普通』では無いかもしれない。だが、君には知れば知る程深みにはまる『沼』のような魅力があるのだ。よって、これからも出来る限り君の意思を尊重し、大切にするつもりだ」

「ヴィル様……。感謝致します」


 「秘密の庭」に籠りきりでいられるのもヴィルヘルムのお陰だろう。それは良く分かっている。本来ならば出なければならない行事や会食、夜会も必要最低限に留めてくれている。自分の立場が悪くなるかもしれないのに、ここまでローニャを好きにさせてくれている。それだけで彼のローニャに対する気持ちが分かる。


(何故今まで気付かなかったんだろう)


 いや、気づいていたはずだ。自分の作品に自信が持てなかったローニャは見て見ぬふりをしていたのだ。急に作品が評価され、夢のような生活をしている現実を受け入れられないでいた。

 身寄りを無くし、ここで生きていくしかない。平民の身でありながら貴族社会に身一つで放り出され、知り合いも味方も居ない恐怖から逃れるために「秘密の庭」に閉じこもった。


(私は一人じゃなかったのね。それはそうよね。私達は夫婦なのだから)


「平民であった君が生きていくのには厳しい世界だろう。私が守るから安心しろ」

「……はい」


 不躾な言い方ではあるが、ローニャの不安を払しょくするにはそれだけで十分だった。


(相手の想いや自分の気持ちは口に出さないと分からない。ヘルナー侯爵には借りが一つ出来たな)


 どことなく嬉しそうに食事をするローニャを眺めながら、いつもよりも少しだけ美味しく感じる酒に舌鼓を打つ。「夫婦」とははじめから形があるわけではない。ヴィルヘルムは「始まりはきっかけに過ぎず、木々の年輪のように共に積み重ねていく物だ」という手紙の一節を思い出していた。

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秘密の庭のローニャ スズシロ @hatopoppo

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