いざかし、虚無のカイリャンヘ

 なんの説明もなくゲームのプレイが始まるという異色の構成。いや、説明はされているのだが、『カイリャン』が架空名称であることは了解の上で、しかもそれがカギ括弧で括られることなく進むのだ。

 暇なのでゲームやるか、にしては腰が重い主人公。それは恐らく、「暇」という言葉が含む可処分時間調整・タスクの進捗管理はまさに現実であってもゲームの中であっても常に要求されるもので、『だいたい人生ってのは上手く行かなくて、……』の始まりのヒキの強さはその根幹を表している気がする。

「どうせ、そんなこと言ったって面倒ごとに巻き込まれるんでしょ。人間ってみんなそう。そもそもそれだったら、お前が助けに行けよって話。」

 彼はおよそ時間を持て余したからといって〝快を伴わずに〟ゲームをしていることに気づいていないのか、いや、気づいていたとしても中断しない状況の矛盾を私は知っている。負けた気がするから。ゲームだから。

 そこはオープンワールドで、でも手順は予め決まっていて、動き始めるのはいつだって自分からで、なのにCPUに悪態をつき始めるくらいには退屈で、消費の手段をゲームに向けた瞬間に「山」にも「水」にも、そのオブジェクトの手触りに満足出来ずにいる。それが、ゲームだから。人生だから。

「こういう言いつけは覚えている。」

 どうしようもないくらいに上手くいかない世界を嫌っていて、でもトゲのある声に目を覚まし、『作中主体への肉薄』が起こる。味にも食感にも無頓着でいたら、離れていった人がいる。あるいは愛想を尽かされたのかもしれない。しかし、原因は自分にあって「人間ってみんなそう。」と零すくらいには静かな絶望を客観視していて、自分で自分を助けられないから、誰かの言葉だけを『お守り』にして生きていく。どうしようもなく泥臭い生き方。失った声も、人も、授かった言葉も結局は無に帰すものだと、そう強く言われている気がして、読むのがとても苦しかった。

「飽きたら、歩くのは止めて脇道でバイクにでも乗るか。」「面倒くさくなって私は会話をやめるコマンドを選んだ。」

 そうなることは分かっていたのだろう。飽きた、面倒くさい、楽しくない、やめたい。「忙しい」という一つの制約から解放されたとて、日常が、主体の生きる現実が〝ゲーム性〟に富んでいない限り、心からそれを楽しめる時間も余裕も、絶対に生まれないのだという意味がここに込められている気がして、読んでいて怖くなった。身震いする。あまりにも強い後悔、諦念がここまでダイレクトに、しかもニュートラルな文体で出力されていることに『呪い』が刻印されているようにしか思えなかった。

「蛇口を捻って、湧水だったらこんなカルキ臭くないのに、なんて思う。」「人間不信なのがゲームの世界で、現実は違ったらよかったのに、と思う。」「都合の良いタイミングで何も無かったことにできる。こういう機能が現実にも欲しい気がする。」

 〇〇があったら良かったのに、とゲームと現実を何度も重ねて吐露される言葉。そして、主人公はこう結論づける。

「やっぱり、ゲームだなと思う。」

 ゲームでさえ逃げ場のない、やり直しようのないデフォルト(境遇)に立ち向かう術なんて最初から無かった。欲していたのはゲームに没入する感覚ではなく、ゲームの世界そのものだったと気づいた。目眩がする。目を背けたくなる。

 ゲームだと気づいてしまえるほどに浅い地面に足を着いていた彼は、最初から消すことを望んでいたのかもしれない。蓄積したセーブデータも、それこそ一回きりの出会いに留まらず、プレイ時間も履歴も、会話も、声も、人も。

「うるさいから取った。」

 着信音を鳴り止ませる目的で、それを通話に対しての期待を持たずに生きること。消したかったということ。面倒くさかったこと。全てはここに帰着する。うるさいから。うるさいなら消そう。雑音を無くしてしまおう。そして、誰も見向きもしなくなった彼だけの新天地を目指して。消したかった世界も欲望も全部携えて、またカイリャンへ行こう。

 カイリャンには、何も無い。本当に、なんにも無いけれど。彼を満たすものなんて一つもないのにそれでもカイリャンに行く。

 それが彼にとってのゲームであり、人生だから。