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ニシマ アキト

本編

 駅前のコンビニで軽食のおにぎりを買っていたら、その間にバスが出発してしまっていた。時刻表を確認すると、次のバスは一時間半後だった。思わず舌打ちが漏れる。ため息を吐きながら、私はバス停のベンチに腰を下ろした。さっき買ったおにぎりの封を開ける。

 向こうのロータリーに、タクシーが一台だけ停まっていた。ここから実家までタクシーで行ったら、料金はどのくらいになるだろう。だいたい四千か五千円そこらか。手痛い出費だ。やっぱりバスで行こうか。いくらド田舎とはいえ、駅前であれば時間を潰せる場所はいくらでもあるだろう。そう思ったけれど、駅前にはショッピングモールとパチンコ屋、それとリサイクルショップがあるのみだった。私が実家を出たときから何も変わっていない。消去法でショッピングモールに入ったが、中はだだっぴろいだけで碌な店が入ってなかった。

 モール内の書店で文庫本を一冊買って、それを読んで時間を潰すことにした。通路にあるベンチに座って、紙のカバーに包まれた文庫本を開く。読み進めていく内に、耳鳴りのように響いていた周囲の雑音が耳の奥へと消えていく。自分の呼吸音すら聞こえなくなっていく。

 百ページほど読み進めたところで、もう一時間くらい経っただろうかとスマホを確認する。まだバスの時刻まで四十分もあった。なんとなく集中が切れてしまって、文庫本を閉じる。周りを見れば、こんなしょぼくれた施設でもこの田舎であれば一定の需要はあるようで、幸せそうな家族連れや六十代くらいの女性の一団が歩いていて、それなりに賑わっていた。

 三歳くらいの男の子が、元気に私の目の前を駆けていく。それを、私と同じ歳くらいの母親が、鋭い声で注意していた。

 そういえば、さとしはまだこの街に住んでいるのかな。

 ふと、そんなことを考えてしまった。

 あれからまだ一度も恋人を作れていない私は、今でもたまに智のことを思い出してしまう。四年ぶりに故郷に帰ることになってからは、尚更、智のことが頭にちらついていた。

 父の訃報を聞いて、それから数日はずっと気分がふわふわしていた。昔から高血圧で不健康だった父が死んだことはショックだったはずだけど、それほど何の感慨も湧いてこなかった。テレビで芸能人の訃報を聞いたときと、感覚的には同じだった。

 きっと、私の中ではもう、父はとっくに死んだも同然の存在だったからかもしれない。

 父がいなければ、私は自分のアパレル業界への憧れを捨てて、智と結婚していたかもしれない。今頃この街で、智との間に作った子供を育てていたかもしれない。

 別に今の生活が不満なわけではない。仕事にはやりがいを感じているし、毎日が充実している。東京は四年間住んでいても全く飽きる気配もない、魅力的な街だった。

 こんな何もない街で、一介の主婦として生涯を終えるよりは、東京でバリバリ自分の好きな仕事に取り組む方が、私には合っているのかもしれない。

 でも、続々と結婚していく同級生をSNSで見るたびに、もしも智と別れていなければ、と考えずにはいられなかった。

 あのとき、父がいなければ、私の人生は変わっていたはずなのに。

「あの、すみません。……美緒みおさん、ですよね?」

 読書をしていたせいで若干まどろんでいた頭が、その一瞬で覚醒する。顔を上げると、艶やかな長い黒髪が特徴的な若い女性が、少し不安そうな瞳でこちらを見つめていた。

「え、えっと……」

「わぁ! やっぱり美緒さんだぁ!」

 私は彼女が誰だか思い出せていないのに、彼女のほうは何やら得心いったようで、ぱぁっと表情を輝かせる。

「お母さんから話は聞いています。お父さんの葬儀のために帰ってきたんですよね?」

「あ、う、うん。そうだけど……」

「あれ、もしかして美緒さん、私のこと覚えてませんか?」

 私の反応が微妙なのを察してか、彼女はそう言った。覚えていない、とはっきり言うこともできず、私は口ごもる。

あんずですよ、杏。丸山杏です」

 朗らかで上品な笑顔で、杏ちゃんはそう言った。

 その快活な笑顔は、私の記憶の中の杏ちゃんとは、どうしても結びつかないものだった。



「ごめんね杏ちゃん、すぐに気付けなくて。あの頃とずいぶん印象が変わってたから」

「いえ、大丈夫ですよ。あれから四年も経って、私も色々変わりましたから。私も最初、すぐには美緒さんだって気付きませんでしたよ。見慣れないスーツ姿だったので」

 丸々と膨れたエコバッグを後部座席にのせた杏ちゃんは、運転席で手際よく車のエンジンをかけた。私はそれに少し驚きながらも、助手席のシートベルトを締める。

「杏ちゃん、免許取ったんだね」

「はい。私ももう十九歳ですから」

 この街じゃ、車が運転できないと生きていけませんからね、と世間話もそこそこに、首を振って安全確認しながら、杏ちゃんは駐車場から車を出す。私はまだ免許を持っていないから、その杏ちゃんの姿がものすごく大人っぽく見える。

 あんなに臆病で弱虫で引っ込み思案だった女の子が、私を助手席に乗せて車を運転できるようになっているだなんて。

「お母さんが最近腰を悪くしちゃったみたいで、だから私がこうして買い出しの担当になったんですよ。私はそんなに運転上手いほうじゃないんですけど、ここら辺は何回も通ってるので、もう慣れました」

「そ、そうなんだ……」

 明瞭な口調で流暢に話す杏ちゃんが、なんだか少し怖かった。引っ込み思案が改善したことは良いことのはずなのに、私はなんだか裏切られたような気分になっていた。

 弱々しく私の服の袖を引っ張って甘えてきた杏ちゃんは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

「杏ちゃんは、今は大学生?」

「はい、そうですよ。美緒さんと同じ大学に通っています」

 私は実家からでも通える地元の国立大学に通っていた。一応国立なのでそこまでレベルが低いわけではないけれど、杏ちゃんは地元では高偏差値の中高一貫の私立中学に通っていたはずだから、もっと上も目指せたと思うけど。

「美緒さんと同じ大学に行きたくて、勉強頑張ったんですよ」

「え?」

「ん、なんですか?」

「あーいや、なんでもない。そうだよね。そんな簡単に入れる大学じゃないもんね、一応」

 私は慌てて言い添えた。

 確かにそれなりに受験勉強を頑張らなければ入れないけど、杏ちゃんの通っていた学校なら、普通に授業を聞いているだけであの大学の入試は突破できてしまうだろう。

「美緒さんは、東京での生活はどうですか?」

「う、うん。けっこう楽しいよ、普通に」

「ずっと夢だった仕事ですもんね。上手くいってるみたいで良かったです」

 私が適当な曖昧な返事をしても、杏ちゃんは笑顔で応対してくれる。これじゃあ杏ちゃんより私のほうが会話下手な人みたいだ。いや、実際にそうなんだろうけど。

「……なんか杏ちゃん、ちょっと性格変わった?」

「え? そうですかね? 別にそんなことないと思いますけど」

「明るくなったというか……、昔はもっと、いつも何かに怯えたような感じの子だったから」

「子供の頃と比べたら、多少性格が変わってもおかしくないですよ。私ももう、大人になったので」

 子供の頃といっても、私が最後に杏ちゃんに会ったのは、杏ちゃんが十五歳のときだ。幼稚園児の頃と今を比べて性格が変わっているのならまだわかるけど。

「……しっかりしてるんだね、杏ちゃん」

「あはは。美緒さんに言われると、他の人に言われるよりすごく嬉しいですね」

 杏ちゃんは柔和に目を細めて、そう答えた。そこで会話が途切れて、私は助手席から、右側の窓から見える景色を眺めた。田舎の国道沿いは、ファミレスとネットカフェとパチンコ屋とガソリンスタンドがずっと等間隔に並んでいるだけで、見ていて面白いものではなかった。

 私が四年間も里帰りを避けていた理由のひとつに、杏ちゃんの存在があった。

 杏ちゃんと初めて会ったのは、私が十六歳で、杏ちゃんが十歳のときだった。親の転勤の都合で、杏ちゃんはこの街に引っ越してきた。その頃はまだこの辺りに新築の戸建てが建てられ始めたばかりで、ほとんど子供が住んでいなかった。近所で歳の近い女の子が、六歳差の杏ちゃんしかいなかった。

 杏ちゃん一家が引っ越しの挨拶に訊ねてきたとき、杏ちゃんはずっと母親の後ろに隠れていた。警戒心剥きだしで、母親の陰からおそるおそる顔を出して、私と目が合うと、さっとまた顔を隠してしまう。小学四年生にしては少し子供っぽい子だな、と思った。

「ねぇ杏ちゃん。握手しよっか」

 私はできるだけ優しい笑顔を作って、杏ちゃんを手招きした。杏ちゃんはぴょこっと顔を出して、母親の服の裾を掴みながらではあるが、おそるおそる私に手を差し出した。私はその手を柔らかく握った。

「これからよろしくね、杏ちゃん」

「う、うん……」

 杏ちゃんは困惑したように頷いた。この子がこんなに心を開くなんて珍しいんですよ、と杏ちゃんの母親が感心したように言った。ただ握手をしただけなのに心を開いたことになるなんて、杏ちゃんは普段どれだけ殻に閉じこもっているのだろうと少し驚いたけれど。

 それからしばらくは、特に何もなかった。

 近所に子供がいるのが珍しくて、赤いランドセルを背負った杏ちゃんを見かけるたびに私は挨拶をしていた。だけど、杏ちゃんはいつもぺこりと頭を下げるだけで、そのまま立ち去っていった。私は杏ちゃんとまともな会話すらしたことがなかった。

 変化があったのは、杏ちゃんが中学一年生のときだった。

 大学の授業が早く終わって、夕方の早い時間に家へ帰ることができた日。着ているセーラー服をびしょびしょに濡らした杏ちゃんが、ゆらゆらと覚束ない足取りで歩いているのを見つけた。

「あ、杏ちゃん? どうしたの、そんなに濡れちゃって」

 その日は朝からずっと晴れだった。だから制服がこれほど濡れているのは明らかにおかしい。よく見ると、杏ちゃんはスニーカーを片足しか履いていなかった。

「あぁ、美緒、さん……。どうしよう……どうしましょう、私」

 杏ちゃんの長い黒髪は毛先までじっとりと濡れていた。まるで水の入ったバケツを上から被ったようだった。

「私、家の鍵失くしちゃって……」

 杏ちゃんは泣きそうな声で言った。実際に泣いているのか、顔が濡れているせいでよくわからなかった。

 私はとりあえず、自分の家に杏ちゃんを招き入れた。両親はまだ仕事から帰っていなかった。茫然自失とした風の杏ちゃんを支えて、風呂場に連れて行った。杏ちゃんがシャワーを浴びている間に、杏ちゃんの制服を乾燥機に入れた。さっきは気付かなかったが、制服にはところどころ鋏で切られたような痕があった。

 シャワーを終えた杏ちゃんには、とりあえず私の私服を着てもらった。乾燥機に入れた制服を畳んで手渡すと、杏ちゃんはか細い声で「ありがとうございます」と言った。私と同じシャンプーの匂いを漂わせる杏ちゃんは、憔悴しきった表情をしていた。

「親が帰ってくるまでは、うちで待ってなよ」と言うと、杏ちゃんは俯いたまま、小さく頷いた。

 来客用にとっておいた紅茶を二人分淹れて、リビングの机で杏ちゃんと向かい合う。杏ちゃんは最初に一口だけ紅茶を飲んで、それから一度も口を付けようとしなかった。「口に合わなかった?」と尋ねると、杏ちゃんはゆるく首を振った。

 重苦しい沈黙が流れた。何か言葉をかけてやるべきだとは思いながら、何を言うべきか全くわからなかった。杏ちゃんは私立の女子校に通っている。個人的に、そういう学校はいじめとは無縁の場所だと思っていたのだけど。

 いじめ。

 おそらく杏ちゃんは、学校でいじめに遭っている。それも、かなり壮絶な。

「あ、お母さん、帰ってきたみたいです」

 杏ちゃんは携帯を見て、呟くように言った。そそくさと立ち上がって、玄関のほうへ歩いている。考え事をしていた私は、慌てて杏ちゃんの後を追った。

「杏ちゃん、靴、大丈夫?」

「大丈夫、です」

 杏ちゃんはじっとりと黒く濡れたスニーカーを片足だけ履いて、一方の片足は靴下のまま、三和土に下りた。

「杏ちゃん、今日は私の靴貸してあげるから、それ履いて帰りな。大丈夫、私、靴たくさん持ってるから」

 靴箱から、私が高校生の頃に履いていた古いスニーカーを取り出す。杏ちゃんは何も言わず、靴を履き替えた。

「いろいろありがとうございました。じゃあ」

 杏ちゃんは私に背を向けて、玄関の扉に手をかけた。扉を開けようとする瞬間、私は咄嗟に杏ちゃんの手を握っていた。杏ちゃんをこのまま家に帰してはいけないと思った。

 杏ちゃんは困惑した様子で、私に振り返る。

「……なんですか?」

「あ、その、そういえばさ、杏ちゃん携帯持ってたんだね。中学生だからまだ持ってないと思ってた。……あー、えっと、良かったらさ、連絡先、交換しない?」

「え、いいですけど……」

 お互いに携帯を取り出して、連絡先を交換する。

「えっと、もういいですか?」

「……あ、あのね、杏ちゃん」

 私は自分の胸元で、携帯をぎゅっと握りしめた。

「私は、いつだって杏ちゃんの味方だから。……だから、その、困ったときは、今日みたいにいつでも頼ってほしい、な」

 ああ、どうしてこんな誰にでも思いつくような月並みな言葉しか言えないんだろう、と自己嫌悪する。

「……はい」

 杏ちゃんは、一瞬驚いたように目を見開いた後、はにかんだような苦笑いで頷いた。

 それからだ。私と杏ちゃんが仲良くなったのは。

 杏ちゃんが私を頼って、私に依存するようになったのは、それからだった。



「美緒さん。……美緒さーん? もう着きましたよ」

「えっ? あ、ごめん。ちょっと寝ちゃってた」

「私の運転で安心してくれたんですね」

 助手席から車を下りて、大きく伸びをする。田舎は空気が美味しいというけれど、美味しいかどうかは別として私は田舎の空気があまり好きではない。むわっと香る、草と土の湿った匂い。こんな鼻にまとわりつくような匂いよりも、私は都会の無味無臭の空気のほうが好きだ。

 車の音で気付いたのか、インターホンを押すより先に母親が玄関から出てきた。四年ぶりに見る母の姿は、以前よりもやつれているように見えた。つい最近父が死んだからなのか、一人娘である私が四年も帰ってこなかったからなのか。

「おかえり、美緒」

「……ただいま」

 母親の目を見て言葉を口にすることができない。やっぱりどこか後ろめたい。全く連絡をとっていなかったわけではないけれど、母親はきっと寂しい思いをしていたはずだ。それなのに私は自分の我儘だけでこの家に帰るのを避けてきた。今更私がこの家の玄関を通る資格があるのかな、とややこしく考えていたら、後ろから杏ちゃんに背中を押された。

「お母さん、今日は私も夕飯にお邪魔してもよろしいですか?」

「ええ、もちろんよ」

 私の背中を押しながら、当然のように家へ足を踏み入れていく杏ちゃんに少し困惑する。

 四年前も杏ちゃんは頻繁に私の家を訪れていたけれど。

 私がいなかった四年間も、そんな感じでいつも私の家に来ていたの?

「今日は美緒さんが来るから、豪勢な食卓にしようと思って、色々買ってきたんですよ」

 杏ちゃんは両手に持ったエコバッグをキッチンに置いて、色々と食材を取り出していく。

「え、それって、うちの家の買い物だったの?」

「そうですよ」

「でも、お母さんが腰を悪くしたとか……」

「だからそれは、美緒さんのお母さんのことです。私のお母さんは今でも元気ですよ~」

 杏ちゃんは勝手知ったる様子で、冷蔵庫やキッチンの棚に食材をどんどん収めていく。

 そんな、まるで自分の家みたいに……。

「あら、杏ちゃん。今日くらいは手伝わなくてもいいのよ。せっかく美緒が久しぶりに帰ってきたんだから、積もる話もあるでしょう。美緒も、杏ちゃんと一緒に街を色々見て回ってきなさいよ」

「え、いや、私もう休みたいんだけど……」

「杏ちゃんの車に乗せてもらったんだから、そんなに疲れてないでしょ。ほら、早く行ってきなさい」

 せっかく落ち着けると思ったのに、半ば追い出される形で私は家を出ることになってしまった。一緒に出てきた杏ちゃんが、きまり悪そうに苦笑いする。

「たぶんお母さんも、どんな顔で美緒さんと話せばいいのかわからないんだと思います」

「どういうこと?」

「ほら、四年前、美緒さんが結婚するか上京するかってときに、お母さんは何もできなかったから」

 あのとき確かにお母さんは、私に何もしてくれなかった。でも別に私は、そのことを何とも思っていない。結局あれは、私が自分で決めたことだ。お母さんが介入してどうにかできる問題じゃなかった。

「まあ、何もできなかったのは私もなんですけどね」

「いや、杏ちゃんは気に病む必要ないでしょ。まだ中学生だったんだし」

「それでも、私は美緒さんに何か恩返しするべきだったんです。中学生だった私にとって、美緒さんはたった一人のヒーローだったんですから」

「そんな、大袈裟な……」

「大袈裟なんかじゃないです。美緒さんは、私の人生を変えてくれた、大切な人なんですよ」

「……」

 私は押し黙るしかなかった。

 確かに私は、杏ちゃんの人生を変えたかもしれない。いや、正確に言えば、

 私たちは、近所を適当に散策した。昔二人でよく言った文房具屋、河川敷、川の向こうのコンビニ、深夜によく利用していた自販機。数々の思い出の場所は、たった四年程度ではほとんど形を変えずに、昔のまま残っていた。

「ここ、覚えてますか?」

 すっかり日が茜色に染まった頃、杏ちゃんは私の手を引いてとある公園に入った。そこら辺にある草むらに適当に柵を設置してブランコを置いただけのような、小規模で寂れた公園。杏ちゃんはよく、この公園で大学から帰ってくる私を待っていた。そうして落ち合った私たちは、このブランコに座って、二人で他愛ない話を延々と繰り返していた。

「もちろん覚えてるよ」

 あの頃と同じように、二人でブランコに座る。ここに座ると、変わってしまった杏ちゃんが、女子中学生のときと同じように見えた。

「あの日のことも、覚えてますか? ここで、私が告白した日のこと……」

 それは、もちろん覚えている。

 私が上京を決める少し前のことだ。杏ちゃんは頬を赤らめて苦しそうに、私への素直な気持ちを吐露してきた。それまで一度も杏ちゃんを恋愛対象として見たことがなかった私は、少し驚きながらも、丁重にその告白を断った。

 それに、あのときは智がいたから……。

「あ、内藤先生だ」

「えっ! なに? どっ、どこ?」

「ほら、あそこ」

 杏ちゃんの指差したほうを向くと、そこには確かに智がいた。三歳くらいの女の子の片手を引いて、幸せそうな笑顔で歩いている。女の子のもう片方の手は、若い女性が握っていた。

「内藤先生、私が高校一年生のときに、保健室の先生と結婚したんですよ」

「え?」

 つまり、智は私と別れてから一年も経たないうちに他の女と結婚したということ? その上すぐに子供を作った?

「美緒さんは、あんな男と結婚しなくて正解だったんですよ。結局あの男は、自分の子供が欲しかっただけなんです。もし美緒さんがあの男と結婚してたら、一生この街に縛られて、乾いたつまんない人生を送ることになってましたよ」

「……」

 私はしばらく、その親子連れ三人から目を離すことができなかった。

 もしあのとき上京していなかったら、今の私は——二十六歳になった私は、自分の子供と夫と手を繋いで、あの道を笑顔で歩いていた。だけど実際の私は、毎日一人で決まった時間に起きて、満員電車に揺られて出勤して、朝から晩までひたすら仕事に没頭して、退勤時間になればまた満員電車に揺られて、誰もいないマンションの一室に一人で帰る。

 どちらが幸せなのかなんて、わからない。考えたくもない。

「……杏ちゃん、どうして智のこと、色々知ってるの? 学校、違うはずだよね?」

「私、高校からは公立に進学したんですよ。中学のとき、色々あったので」

 智は地元の公立高校に教師として就職することが決まっていた。私は地元の企業と東京の企業から二つ内定をもらっていた。大学卒業したらすぐに結婚したいからどちらの内定も蹴ってくれと言い出した智と私は意見が対立して、それから……。

「それに、あの男が見える範囲に自分の身を置いておきたかったんです」

「……どうして?」

「だって、美緒さんが四年も付き合ってた人ですから」

 大学一年生のときから、卒業するまでの四年間、私は智と付き合っていた。

 そして今、智と別れてから、四年の月日が経過した。

「ねぇ美緒さん。私、美緒さんが東京に行っている間に、たくさん頑張ったんですよ。内藤先生なんかよりずっと美緒さんを幸せにできるように、色んなことを頑張ってきたんです」

 杏ちゃんは膝を折って、ゆるくブランコを漕ぎ出す。私もなんとなく、杏ちゃんの揺れに合わせてブランコを漕ぎ出す。

「私、美緒さんがこの街に帰ってくるまでの四年間、ずっと美緒さんに私を好きになってもらえるように努力してきたんです」

「……あのね、杏ちゃん」

「美緒さん、私と付き合ってください」

 目の前の杏ちゃんは、四年前とは全く違っていた。弱々しく縋りつくような瞳で告白してきた杏ちゃんとは、全然違う。強い意志のこもった真っ直ぐな瞳で、真正面から私に気持ちをぶつけてくる。

「私、大学卒業したらすぐに東京に行きますから。そこで一緒に暮らしましょう。私、美緒さんを退屈させたりしませんから。絶対に美緒さんを幸せにして見せますから」

「……あのね、杏ちゃん。それはできないの」

「なっ、なんで……なんでですか?」

 私は杏ちゃんの顔をまともに見られなかった。顔を俯かせて、湿った声で私に迫ってくる杏ちゃんから目を背ける。

 私はずっと後悔していた。四年前、杏ちゃんが私に告白してきたときから、ずっと。

 あのとき、道路の真ん中でびしょ濡れになって立ち尽くしていた杏ちゃん。

 私はそれを、無視していれば良かったのだ。

 あのとき私が杏ちゃんに手を差し伸べてしまったから、杏ちゃんは私を慕うようになった。杏ちゃんが私に心を開くようになった。

 私がいじめられていた杏ちゃんを助けてしまったから、杏ちゃんは私を好きになってしまった。

 私が杏ちゃんの人生を歪めてしまったのだ。

「私たちが女同士だからですか? 六歳差だからですか? 私がまだ、美緒さんを幸せにできるような人間じゃないからですか?」

「違うよ。杏ちゃんが私を好きでいてくれるのは、素直に嬉しい。でもね、杏ちゃんは私についてきたらダメ」

「なっ、ど、どうして……」

 絶望的な表情で、杏ちゃんは振り絞るように声を出す。そんな泣きそうな顔をしないで。ああ、今すぐ抱きしめてあげたい。だけどダメだ。そういう甘えが積み重なって、私は杏ちゃんを歪めてしまったんだから。

「杏ちゃんには、これからの未来があるでしょう。杏ちゃんは自分の人生を、自分のために使うべきだよ」

「違うんです。私は自分の意志で、美緒さんのために人生を使おうとしているんです」

「あのね、杏ちゃんはまだ子供だからわからないかもしれないけど、今の若い時間って本当にかけがえのないくらい大切なものなの。杏ちゃんが後で私と同じ歳になったとき、絶対に後悔することになるから」

「後悔なんかするわけ、ないです。美緒さんのいない人生なんて、何の意味もない……」

 杏ちゃんの目の縁から、溢れるように涙が零れた。私の腕お握って、懇願するように言ってくる。

 別に杏ちゃんの恋心がただの子供の憧れだと切って捨てるわけじゃない。杏ちゃんが本気なのは私もわかっている。だけど同時に、ここで私を選んだら、杏ちゃんは数年後に後悔するはずだということも、わかってしまう。

 四年前の私も、杏ちゃんと同じだった。智よりも自分の夢を優先するのが正しいと思い込んでいた。絶対後悔しないはずだと決め込んでいた。

 だけど私は今になって、それが本当に正しい選択だったのかわからなくなっている。

「美緒さん……美緒さんはやっぱり、私を好きになってくれないんですか?」

「ううん。杏ちゃんのことは、大好きだよ」

「だったら、どうして……?」

「だからこそ、だよ」

 私は杏ちゃんの手を引っ張って、ブランコから立ち上がった。

「もう日も落ちてきたし、そろそろ帰ろっか。今日は豪勢な料理を用意してくれるんでしょう?」

 杏ちゃんは目元を袖でごしごし擦って、こくりと小さく頷いた。やっぱり杏ちゃんは私の知ってる杏ちゃんのままだな、と私は少し安心した。

 このときの私はまだ知らなかった。

 私は杏ちゃんにとって正しい選択をしたと、私にとって正しい選択をしたと思い込んでいた。

 だけど、人生に絶対的に正しいものなんて存在しない。

 父親の葬儀から三年後、二度目の里帰りの際に、私は杏ちゃんを拒絶したことをひどく後悔することになった。


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