イカクニンセイブツ
そうざ
The Unidentified Squid
事の始まりは、気儘なドライブだった。
結婚からこの方、ばたばたと雑事に追われていたが、やっと二人で遠出をする余裕を持てた。目的もなく海岸沿いを走り、気紛れに車を降りて波打ち際を
夏の到来にはまだ早いものの、陽光は肌を
「あっ、あそこにもプラッチックが浮いてる」
「プ・ラ・ス・チックな」
「違う」
「プラスチックはプラスチックだ」
「
妻は両手に提げたサンダルを砂へ放り、
座り込んだ妻の肩越しに、半透明の物体が波に洗われているのが見えた。
「……烏賊か?」
「イカなん?」
「烏賊だろ?」
足らしきものが複数あり、目のようなものがあり、胴体みたいなものに付いている。
「一、二、三、四……」
「……八、九、十」
「足が十本。やっぱり烏賊ね」
「俺、子供の頃、烏賊は十一本足だと思ってた」
「何で?」
「さあ」
「生きてんのかな?」
及び腰の俺と違い、妻は事もなげに手を伸ばした。
「わっ」
そいつは、妻に応えるかのようにぴしゃっと跳ねた。
「活きが良いな」
「食べられると思う?」
「食べる気があるかどうか、それ次第だな」
会話の最中も妻は烏賊を撫で続けた。烏賊は従順に撫でられ続けた。
「あそこに洗面器みたいなもんが落ちてる。あれに入れよう」
言うが早いか、俺は砂浜に身を寄せたゴミ溜まりに急いだ。
こうして、烏賊は夫婦の手中に落ちた。
「俺達の子供にするか」
「しちゃおうか」
後先など考えないのが俺達の取り柄であり、二人の関係を終わらせない為の秘訣だった。
◇
俺達は、コンビニで1.5リットルサイズのペットボトルを数本購入し、中身を海水に入れ替えて持ち帰った。その足でホームセンターに寄り、水槽も手に入れた。
「進水式だ」
「シンスイシキってこういう時に使う言葉?」
烏賊は戸惑いもせず水槽の中で
「名前はどうすんの?」
「イカで良いだろ」
「イカでイッカ!」
「じゃあ、イッカだ」
俺が軽く水槽をノックすると、イッカは体色を目紛るしく変化させた。
「餌は?」
何の問題もなかった。イッカは与える物を何でも食べた。肉、魚、野菜、米、麺類、菓子類、そして余り物――烏賊を与えるのだけは何となく止めた。
「烏賊って最強よね」
「そうか? あぁ、ダイオウイカとか?」
「じゃなくて、煮ても、焼いても、茹でても、干しても、生でも美味しい」
「確かに」
◇
寝苦しい夜だった。
水槽が仄かに光っている。イッカが発光している。習性なのか気紛れなのかは分からないが、眠れない夜の見慣れた光景になっていた。
水音がしたと思ったのは、眠りに就いた瞬間だったか。
水槽は光っていない。イッカももう寝たかと思った時、右腕に引き攣るような軽い違和を覚えた。左の手で探ると、ひんやりとした弾力が指を捉えた。俺は、ばね仕掛けのように上体を起こした。
腕に巨大な烏賊が、俺の背丈に届く程になったイッカが
イッカの肌触りは格別だった。妻と良い勝負だと思った。烏賊の口はからすとんびと言ったか。硬い部分らしいが、確か珍味だったな――俺はそれに唇を合わせた。殊の外、軟らかい感触だった。そうか、これは
イッカの長くしなやかな二本の足が俺の首に巻き付く。残りの脚もしっかりと俺に添えている。俺の体温がイッカを温め、その生温かい熱が俺を包んだ。
何処に挿入すれば良いのかな――疑問に思った瞬間、漏斗が俺の股間に伸びた。
◇
妻が不機嫌になったのは、その翌朝からだった。
「イッカって本当に烏賊なん?」
開口一番、もうささくれ立っていた。
「烏賊じゃなければ何だよ」
「烏賊を飼うのは至難の業らしいのよ。でも、イッカは
臭くならないよう、偶に水槽の海水は取り替えているが、それ以外は適当に餌を与えているだけだ。
「何だか
「変な事、言うなよ」
俺が庇うように水槽に目をやると、妻の攻撃に拍車が掛かった。
「私が出て行くか、烏賊もどきを捨てるか、どっちかに決めてっ」
突然の二者択一に返す言葉が見付からない。
イッカが激しく体色を変じさせている。
妻はまるで俺が見た夢の内容を知っているかのようだった。烏賊との交わりに嫉妬したのか、それとも嫌悪したのか。夢で夫婦喧嘩など馬鹿げている。実は全く別の理由で不機嫌なのかも知れない。
◇
ここのところ、仕事に身が入らない。明らかに妻の剣幕が尾を引いている。
スーパーでパートをしている妻は、いつも夕方には帰宅する。あの調子だと、俺の居ない間にイッカに意地悪をし兼ねない。もしかしたら、発作的に捨ててしまうかも知れない。あんなに飼う事に乗り気だった妻に、何が起きたのだろう。
その日、遂に堪え切れなくなった俺は、職場に早引きを願い出た。幸い、家に妻の姿はなかった。直ぐに水槽を確認し、イッカが仄かな発光で応えるのを見て、俺は
冷凍食品で腹を満たして一風呂浴びたが、妻はまだ帰って来ない。まさか本当に出て行ったのだろうか。しかし、やきもきしながら帰りを待つのも癪だ。俺は早々に床に就いた。
断続的な水音が聞こえる。イッカも寝付けないらしい。この音は不思議と睡魔を呼び込む。
海中を
しかし、いつもとは少し違っていた。
そいつは、女の形をしていた。長い二本の触手は、立派な腕だった。それぞれに先端が五本に分かれている。十本の指が俺の中心を愛おし気に
そして、腕と脚と胴とを繋いでいるのは頭だった。離れて付いていた筈の二つの大きな眼が近寄り、仲良く並んで俺を見詰めている。半開きの瞼や精緻な睫毛は、艶めかしい表情を有していた。
違和も嫌悪も恐怖もない。
透けるような肌――否、文字通り透けた肌だった。蠢く内蔵の影まで愛おしい。溶け合う程に抱き締め合うと、肌の向こうに内蔵とは違う塊が透けているのに気付いた。
直立した人影。人形のようにも思えるが、一糸纏わぬ妻のようにも見える。イッカが妻を飲み込んでしまったのか。
◇
朝日が眩しい。妻が鼻歌を歌いながら朝食を作っている。久し振りの明るい笑顔だ。
俺はダイニングテーブルに向かう。今日は天気が良さそうだからドライブに行こうか、と切り出す。妻が俺とイッカとの関係に気付いているように、俺も妻とイッカとの関係に気付いている。妻が、良いわね、と言う。
朝食を摂り、いそいそと出掛ける準備を始める。後先など考えないのが俺達の取り柄で、それが関係を終わらせない為の秘訣なのだ。
お前はお留守番な、と水槽を軽く叩き、俺達は出掛ける。水槽にはプラスチック、またはプラッチックが浮いている。
イカクニンセイブツ そうざ @so-za
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