最終話 いつか
「砂の城は、どんな場所だったの?」
時間旅行から戻った紗和を迎えたのは、健人だった。
湿らせた画用紙の上に絵の具を滴らしたように、急速に空の色は染まっていった。
健人の方を見れば、彼の顔は緋色に燃えている。
「ずっと気になってたんだ。今日ここに来たら、聞こうと思ってた」
二人が腰を降ろすのは、ちょうど過去の紗和が砂の城を作っていた辺りである。絶え間ない波の音は穏やかに響き、それは先程の脳内旅行のあの場面で紗和が耳にしていたものと、同じ音だった。
「……やっぱり、はっきり覚えてない? 話したくない?」
「違うよ」
無理しなくていい、と続けた健人を遮って、紗和は首を振った。
「覚えてるよ。ちゃんとお城だった。回廊の壁に世界中の神話のレリーフが彫ってあるんだ。いつまでも眺めていられた。部屋がいくつもあって、ダンスホールや謁見室もあったよ。海が見える見通しの良い部屋に玉座があってね、私毎日そこに座ってたの」
「紗和が王様?」
「そう。私が王様」
「蛸は?」
「いつも一緒だった。私が玉座に座っている間は、椅子の脚に足を巻きつけて、足下でおとなしくしてたよ」
「他に誰かと会った?」
「ううん。私と蛸、二人だけ。ずっと二人だけだった」
城に音楽はなく、聞こえるのは波の音と木々の葉がこすれ合う風の音ばかりだった。それは時を忘れさせる甘美な音で、紗和を毎夜、穏やかな深い眠りへと誘ったものだった。
「色んな話をしたよ」
「蛸と?」
「うん。笑えるでしょう。蛸と」
「どんな話を?」
「本当に色々。どうやってここまで来たのか。私を見つけて、気に入ってしまったこと。ひとまず命を終えた後のこととか」
蛸との対話は、この世のあらゆる叡智に触れる体験だった。今まで感じていた些細な疑問から、認識すらしていなかった宇宙の理まで。彼は紗和に沢山のことを語り聞かせた。
「なぜあんなふうに私を追いかけてこれたのかも、教えてくれた」
「……どうやったって?」
「過去も現在も未来も関係ないの。時間も空間もない……私の意識の内側とその外側も。全ての境界は、あるように見えて実はないのだから。だから追いかけるのは、ちっとも大変じゃなかったんだってさ」
車に乗って砂の城へと赴いた時を思い出した。感覚として数分間のドライブだった。どこかの境目を超えた覚えはなく、紗和はすんなりと城壁を通っていた。
健人は紗和の言葉を否定することなく、首を傾げることもなく相槌を打っていた。妻を慮ってのことではない。健人自身も、もう既に飲み込めているのだ。
「死んだら、迎えに来るって話だよな」
「うん。でも何十年も先のことになるだろうって言ってたよ。私は健康体で長寿だし、健人は私を大切に扱うだろうからって」
「はは。まぁ、その点は安心してよ」
複雑に混ざった色彩の下、紗和の唇にキスを落として、健人は破顔した。既に太陽は、半分以上が水平線に潜っている。
「いつか心臓が止まって、身体が機能しなくなって、こうして健人に触れることができなくなったら」
紗和は健人の指に自分の指を絡め、強く握った。
「肉体が朽ちて、すっかり元の炭素やアミノ酸に戻ってから。そうしたら、迎えに来るよって言ってた」
「また砂の城に行くの?」
「さあ。どこに行くんだろうね」
首をかしげた紗和の声は軽やかだった。彼女は健人の手に指を絡めたまま、彼の手を膨らんだ腹の上へと導いた。
「動いてる、動いてる。ほら!」
「ほんとだ。激しいな。踊ってるみたいだ」
胎動を楽しんだ若い夫婦は、頭上に天の川を見つけた。
瞬く星の下、その瞬きに呼応するかのように波が揺れる。
美しい夏の夜が始まろうとしていた。
脳内時間旅行 松下真奈 @nao_naj1031
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