第36話 本当の記憶

『あら、立派に作ってるわねえ』

『うん』


 母親に途中経過の出来栄えを褒められた紗和は、得意げに頷いた。これから堀をもう少し深くしようとしていたところだった。スコップがないので、均一な幅が崩れないように気をつけなければ。


『お母さん、まさくんと一緒にあっちにいるからね』

『はあい』


 母親の方を見ずに、手元に集中しながら返事をした。


 指に湿った砂が纏わりついてくる。額をつたい下りた汗が、落ちて膝小僧の頭で砕けた。


 ふと指先に、何か柔らかいものが触れた。ずっと手元を見ていたはずが、無心になって掘っていたせいか、それに全く気づいていなかったのだ。


 つい先程掘り終えた深い穴の中。

湿った砂の中に、一匹の小さな生き物がいた。


『わぁ』


 小さな感嘆の声は、波の音に打ち消された。


 水から離れた場所なのに、なぜこんな砂の中にいるのだろう。


 紗和はそれをじっと覗き込むと、しばらくの間興味津々で観察した。しかしすぐに顔を曇らせる。困ったように背後の海へと視線を投げた。


『海に返してあげなきゃ……けど、私触ったことないの……墨は吐かないでね』


 言葉が通じるはずはないのに、つい気持ちを込めてそれに話しかけていた。そろそろと両手を伸ばして、すくい上げるように二つの手のひらを合わせてお椀の形をつくると、その真ん中に彼を掬い取った。


『あ、目がある』


 蛸の目は四角いんだぞ、とクラスの男子が図鑑を見せてきたことがあった。図鑑の目よりもずっと小さく、透き通った瞳が紗和を見つめていた。


『あ、ごめん。お日様の下は熱いよね。すぐ水の中に入れてあげるから……』


 つい見とれた紗和は、我に返って海の方へと身体を向けた。そして急いで手の中の彼を返してあげなければと、走ろうとしたのだった。


『子供が流されてる! いやあ! 誰かあ!』

 

 聞いたことのない母親の狂ったような絶叫に、紗和の思考は驚きの余りしばし停止した。


『お母さん?』

 

 はっとして足元を見ても、そこに蛸は落ちていなかった。両手はとっくにお椀の形を崩していたのに。


 紗和はその一瞬だけ「なぜ?」と呟いたのだった。そしてその後紗和がその場所で疑問をとなえることも、感じることも、それからしばらくの間なかったのだった。

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