第35話 再訪
ブロンズの母子像の空虚な眼を、紗和は見つめ返していた。瞳がないので視線は分からないはずだが、見られていると感じるのは気のせいか、それとも無意識の思い込みだろうか。
シャッターが鳴る。
顔を上げて紗和が振り向くのと同時に、もう一度シャッターが切られた。
「入ろうか」
「うん」
自動ドアの前で健人は足を止めた。
「図書館の中はカメラ撮影だめかな」
「聞いてみようよ。私達の他に来てる人いなさそうだし、大丈夫かも」
ホールへ入り、書架へと続く渡り廊下へと二人は曲がり角を曲がっていった。
その場に聞こえる音は、二人分の足音と、自動ドアが閉まる直前まで聞こえていた、さんざめく蝉の音の残響だけである。
***
「あった」
おなじみの絵本を手にした紗和は、カメラに向かってにっこりと笑った。
幼い頃、家にもあるのに図書館に来る度に借りていた、お気に入りの絵本。名作と銘打たれたものなので、見つからないことは心配していなかった。さすがに二十年以上前と全く同じ物ではないだろうが、うっすらと手垢や捲り跡のついたページや、やわらかくなった角から、あの頃の自分の中へと戻っていく感覚を感じた。
「……今、旅行行ってた?」
「うん」
頷いた紗和の隣に腰を降ろすと、健人は絵本を覗き込んだ。
「これ、俺も子供の頃読んだことあるよ」
「有名な絵本だもんね」
「どんな話だったか、忘れてるな……絵はうっすら覚えてるけど」
「読んでみようか。短い話だよ」
子供のための書架は、紗和の記憶の中の配置から大分レイアウトを変えていた。ぐるりと背の低い書架で囲ったスペースには、柔らかなカーペットが敷き詰められ、所々にベンチクッションが据えられていた。この場所では読み聞かせや、声を出しての音読をしてもいいのだという。
来館者が紗和と健人の二人しかいなかった事実も手伝って、二人は声を出してその絵本を読んだ。十ページにも満たない短い話は、あっという間に背表紙までたどり着いてしまった。
「こんな話だったっけ」
「健人ったら、本当に全然覚えてないんだね」
可笑しそうに笑う紗和につられて肩を揺らしながら、健人は絵本を掲げるように持ち上げた。
「いい絵本だ。この子にも読んであげたいな」
腹の上に置かれた手の上に、紗和は自分の手を重ねて微笑んだ。
「今読んでた声、聞こえてたんじゃない?」
「そうなの?」
「意外とよく聞こえてるらしいよ」
「へえ。すごいんだな」
図書館を後にした二人は、車で次の目的地へと向かっていった。
里帰り出産のため、紗和の地元に帰ってきた週末だった。月曜に出勤しなくてはいけない健人は、明日中には自宅に戻らなくてはいけない。今日のうちに二人で訪れておきたい場所が残っていた。
「蓮池のある公園、小学校、それから」
「海」
「そうだね」
あの事件後から、初めての訪問ではない。周囲には心配する者もいたが、紗和も健人も、この浜に足を踏み入れることに恐怖心を抱くことはなかったのだ。それは今も変わらない。
一時期は警察車両が常に駐車場に停まっており、野次馬や素人探偵の類も見かけたものだ。しかし事件から年単位で時間が経過した今、田舎の小さな海水浴場は、元通りの静けさをすっかり取り戻していた。
「夕焼けが始まるよ」
染まり始めた上空を仰ぎ見て、紗和は瞼を下ろした。その様子を見守りながら、彼女と手を繋いだまま、健人はふと後ろを向いてみた。視線の少し先だったはずだ。紗和と砂の城を作っていた場所である。辺り一面ただ砂が広がるばかりなので、正確な位置はもう分からなかった。
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