第10話 体幹

 あと十数分で十七時になる頃、アミルがセシリアの執務室を訪れた。


「お疲れ様です、アミル先生。大丈夫でしたか?」


 昼前にウルスラの弟が現れて、子爵と姉の仲を邪推して礼を欠いた振る舞いをした。


 外国とはいえ、相手は貴族だ。

 不敬で警察に突き出されても、あるいは私刑を受けても文句は言えないことをしたのだ。


 誤解だと判明した後で弟は平謝りをして、ウルスラも一緒に頭を下げたので、その場は子爵も謝罪を受け入れた。


 だが、後からいくらでも訴えることはできる。


「大丈夫。彼も誤解させるようなことをしたのだったなら申し訳ないと言っていた」

 宥める必要もないくらい冷静だったとアミルはその後の様子も聞かせてくれた。


「良かったあ。子爵は本当に人間ができてますね」

 気難しい貴族なら、弟どころか一家に責任を取らせることにもなりかねない。


「もしかしたら彼は高位貴族の跡取りなのかもしれないね」


 よくわからなかったのでセシリアが首を傾げると、アミルは口の端を少し上げて説明してくれた。


 エリゲールド国の階級社会では、複数の領地を持つ侯爵以上の家系で次期当主となるべき人物に爵位を譲る前に格下の爵位を与え、その領地を任せる慣わしがあるという。


 本格的に継承する前の予備演習や適性なども見るために。


「コールフォード子爵は後々もっと上の爵位を継ぐために今お勉強中、ということですか?」

「まあ、平たく言えばそういうことだね」

 アミルは軽く笑いを隠すように唇を噛んで同意した。


 グランドツアーに出ることができるくらいだから、きっと内証も豊かなのだろう。


「でも、そんなに余裕があるなら、従者が一人というのも変ですよね。それこそ護衛とか通訳とか、もっといてもいいんじゃないですか」


 ミルトンがたとえしっかり者であっても、まだ少年の従者だけではあまりに心許ない。

 大仰にしたくないのかもしれないが、外国で短銃のみで周遊するなんて無謀に近いものがある。


「見た限りですが、子爵もミルトン君も多少の護身術は心得ているでしょうけど、特別な訓練を受けたような体をしていませんから」

「見ただけでわかるの?」

「はい。立ち居振る舞いでわかります」


 かつて師匠に言われたのは、相手の体の傾きを見ること、そこにつけ入る隙があるのだということだった。

 なのでいつも対面している人の体幹を見てしまう。大抵の人は偏りがあるが、訓練している人はそれが少ない。


 セシリアからしてみれば、子爵達は隙だらけだ。

 武器類か専門家の助力がなければ、襲われたらそれきりになる危険性が高い。


「なるほど」

「スエロスさんの佇まいや居住まいは参考になります。でも、今まで見た中で一番体幹が整っているのはビアンカさんです」


 元軍人のスエロスと舞踊家のビアンカはほぼ偏りがない。

 だが、筋肉のつき方が違うのでビアンカに護身術はできない。


 そうか、と言ってアミルは腕を組んで考え込んでしまった。


 恋心がバイアスをかけていてじっくり直視したことかなかったが、アミルもなかなか体幹がとれている。


 ゆったりとした衣服で隠れていて顔と手しか見えないので筋肉の付きが見定められないけれど、軸を保つにはそれなりに筋力が必要なので多少は動けるのだろう。


 でも、何かあればアミル先生は私が守る。


 指一本触れさせないわ、と胸の中だけで誓うセシリアは、帰ったら更に筋トレに精を出そうと決めた。


「なんだか、外国の貴族に振り回されていますね、ここのところ」

 アミルは黙考を解き、眉を下げた。


 この前のフランソル国の亡命貴族騒動に翻弄されたことを思い出したのだ。


「この前のは言いがかりですから。結局、貴族なんていなかったし」

 思い返せば返す程、腹立たしい。我が祖国ながら、ろくでもない連中だった。


 都の官吏のガルシアから正式手順ルートで抗議が上がっているはずなので、今頃は綱紀粛正されているといいが。


「それもそうですね。まあ、そうなるとウルスラさんの弟さんの方ですね」

 アミルが心配しているのは、ウルスラの姉弟の関係に影を落とさないかということだった。


「こっちは大丈夫だと思います。ウルスラさんなら理路整然と欠点を指摘して、徹底的に反省をさせられる程の剛腕ですから」

 自身も身に覚えがあるので、セシリアはわずかばかりだが弟に同情を禁じ得なかった。


「でも、ご姉弟という割にはあまり似てませんね」

「私も初めて会ったんですけど、ビアンカさんの話では縦にも横にも大きい弟さんだって聞いてました」

「確かに背は高かったけど、横……がっちりした方でしたね」


 話を聞いて勝手に想像していたのは、ぽよぽよとした色白繊細男子だったので、実物を見た時には差異の振り幅が大きすぎてなかなか弟と結びつかなかった。


「兵役で海軍に入ったそうですから、色々あったのかもしれませんね」

「イスペリエ国はかつて、エリゲールド国と外洋で覇権を争っていた程の軍事力ですからね。海軍は徴兵にも厳しいと聞いています」


 数百年前は航海技術の発展めざましい時代で、海路の開拓と共に新大陸の発見なども争うようにあった。

 内政の落ち着いていた両国は特に力を入れていた分野であり、それは現在にも受け継がれている。


 甘ったれも更生される程なのだろうな、とセシリアは機会があったら彼の話を聞いてみたいと思った。

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古蹟香木巡話 時けい @moccakrapfen

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