episode 11 時を超えて…
「このブラウスはね。サンドラから頂いたの。彼女は刺繍が趣味でね。親しくなった頃、プレゼントされたの。そう言えば彼女あなたの届けてくれたカーテンをとても気に入っていたわ。自分の家にもかけたいと言って、何処で買ったのと尋ねられたのに返事をするのをすっかり忘れて、何でも忘れてしまうのよ。それもまた神様のはからい。また今度教えてあげて。ほら、見て、襟の刺繍が美しい。素晴らしい逸品ね」
和やかに言葉をかわしながら母娘で夏物の入れ替えをした。レガは久しぶりのゆったりとした時間に涙を滲ませた。
「なによ。泣くことはないわ」
「だって、こんな時間久しぶり。母娘の時間は片付け物が最高ね」
「片付けものを始めるとあなたは横に並んで他愛のないことを話しながら手を動かしたものよ」
「何をしたら良いか解らなくて横にいただけ」
そう言って涙ぐむレガは子供の頃と心映えが少しも変わらない。
レガの大好きなオニオンスープを運びながら横目で眺めるバトラーの笑顔を誘った。レガも嬉しそうにお礼を言う。そんな日常が楽しくて話が弾んだ。
和やかに、この良き日に、母娘の語らいに光注ぐ美しいガーデンテラスで時間をかけて昼食を頂いた後…事態は急変した…
幸せな時間もつかの間、突然、奥様は倒れられた。意識を失う前、そうなる自分が恐ろしくて錯乱状態に陥り、訳のわからないことを叫んだ後、フッと意識が遠のいた…急変した奥様はそのまま一旦病院に運ばれ応急処置を施された。
レガは、ショックを和らげる薬を投与され深く眠ったシンディのベットの横で…錯乱する様子を思い出しながら…悔いた。離れていた時間を悔いた。
最期に少しでも一緒に居られるように、このまま母親が意識を戻さないうちに薔薇の館に運んでしまおうかと何度も繰り返し考えた。
私のそばでゆっくり最後の日々を過ごして欲しい。でも、キケンな状態が続く母親を、安静状態が必要なこの母を、自分の都合で勝手に家に連れ帰って看護できるのか?緊急の時対処できるのか?…そのことを考えると独りよがりな決意も否定する自分がいる。
やがてシンディは一時的に回復した。その後、医療体制の整ったコテージに戻して様子を見ることにした。
コテージでのシンディは残念ながらそれより回復する見込みはなく、日に日に弱っていった。弱っていくだけの体を持て余し、見慣れた真っ白な花がらのエンボスが刻まれた天井の下で、無意識な眠りを続けウツラウツラ目を開ける。開けるとその目は日がな天井の升目を懐かしむように追っている。穏やかにもう何日も言葉を発していない。
落ち着くとレガも家に戻り、毎日、朝を知らせに花を抱えてやってきた。家中のカーテンを開け花瓶に花を活け、それだけは自分にやらせて欲しいとバトラーにお願いして自らの手で活け続けていた。抱えてこない日も庭に降りてシンディのお気に入りの花を摘んだ。
バトラーも心配そうにふたりの様子を見ながら三度の食事を運んだ。
食事は喉を通らないことが多く奥様は更に痩せていった。でも人工栄養を静かに拒まれた奥様は自分の死期を伸ばすのを好まず、意識のあるうち、周りに付き従う者は手の尽くし様がなかった。
でも、シンディ自身朦朧とした意識の中で声にならないあえぐような声でこの上ない幸せな時だと口にする。
一番良かったのは、あの赤い特効薬のお陰で痛みがなかったことだ。その上このコテージに住んで長いシンディには、隣人と呼べる友人が沢山いた。反応はともかく、友達が替る変わる顔を覗かせて冗談を言って笑い合ってくれる環境は傍らで見守るレガにとって豊かな日々だった。
あの白い犬の紳士も時には顔を見せた。シンディは嫌だったかも知れないが、もはや抵抗する気力もない。メアリーもサンドラも美味しい話を聞かせてくれた。
時には招かれざる客、風の使いも姿を見せた。彼は意外にもバイオリンの名手だった。シンディの好きだった曲をそっと聞かせてくれる時もあった。最近はシンディの希望通りシフォンのタキシードを来て自慢話などする。そんな時は辛そうなシンディの口元が綻ぶ気さえした。
意識は有る。目も動く。シンディは…生きている。
空想に浸る時間も多かった。朝起きて光を感じる。昼間は紅茶の香りと花の香りに包まれて頭の中に流れるイメージに時にはペンも握った。握ったまま一文字も書けなくても満足だった。
こうなってみて分かった事は、半分疑って邪険にしていた風の使いの誘いは希望に満ちていたこと。思いは時として願いを上回る。『妄想の化身風の使い』はどんな時も楽しい話をする。歪んだ時空もチャリオットの轍も、庭の片隅の祠も、あのきれいなお花畑でさえ都合の良いように出現させる。時空を超えてやって来る風の使いだから、その出で立ちさえ自由に変える事ができるのだ。
なぜ来ないのか?今日は聞いて欲しい事が山ほどある。のんびり旅をしたいとか、あの花畑にもう一度行きたいとか贅沢なことを思う日もあった。時には、行っておけるうちに行っとくんだったな。と、少し悔やんだ。
そんな日は必ず枕元に姿を見せて無限の可能性を齎して微笑む。好き勝手やっているようでシンディの好みを熟知しているのだった。
また、シンディは思う…少し悔やむくらいが良い。残念に思う事があった方が良い。やり残した事が多いほど次に生まれてくる時にそこから始めれば良い。新しい旅はもう始まっているんだと、そう、うつらうつらする意識の中で思った。
私は後どのくらい朦朧とした意識の中で生きるのだろう。痛みは無い。有難いことに何処かで全てがコントロールされている。それもこの、横で息をするように音を立てる計器のおかげだろうか…
今更…手が出せ無くなったシンディにはそれを止めることは出来ない。
その中で、毎日…願い思う。無駄な、余計な治療はしないでと…レガに託す事はそればかりだった。もう十分に生きて幸せだった。このひとときのために今までがあったんじゃ無いかと…思うくらい。
遠ざかる意識が深い静かな谷へ滑り落ちていく、暗い。すべての光が消えていく。甘い香りがする。もう音は聞こえない。この微かな緑の香りがただ懐かしい。
ありがとう…レガ…あなたが齎す全ての香りが私を幸せに包んでいる。
枕元に『風の使い』のシノプシスが置かれている。夫の死後実業界から身を引いて一人娘に見守られ、終の住処で一人最後を迎えた…
ケラー・シンシア・ローズ。79歳。遺影は娘のレガが天塩かけて育てたバラの垣根をバックに微笑むシンディ。
気の向くままに書き連ねた彼女の絵と走り書きの文章が残されていた。
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