episode10 気がかりだったこと

「奥様、今日は一日、眠るのではなかったのですか?まだあれからたいした時間も経っていませんよ」

 奥様の立てる物音を聞きつけてバトラーがバタバタと駆けつけた。

「それがね、一眠りしたらすっかり気分が良くなっちゃったのよ。すっかり痛みもなくなって、ほらこの通り、せっかくだから夏物の入れ替えをしようかと思って、始めてしまったわ。こんなに広げてしまった。ずっと気になっていたのよね」

 なんと回復力の早いこと、奥様は日頃にも増してセッセとクローゼットとベットの下の物入れを往復していた。

「お手伝いしますよ。指示していただけば」

 女性の衣服とあってバトラーは遠慮がちに声をかける。

「大丈夫、このくらい。大したことではないわ」

 それは楽しそうに衣類を眺め、この先もう着ないかまだ着るかを吟味している。

「この服最近着て無かったから今年は積極的に着てあげよう。これはもう着ることはない。処分しないと駄目ね」

 などと一人言ちしながら入れ替えを進めている。最近の奥様の倦怠感を伴う緩慢な動作の様子からは考えられない程の軽快さだった。

 あの特効薬には…いったいどんな威力があるのか…そんな不安をバトラーに感じさせる脅威の回復力…でも元気でいてくれることのありがたさよ…

「では、奥様お昼はいかが致しましょう。何かお召し上がりになれますか?」

 時間を問わず深く眠るものだと思っていたバトラーは、この分なら何か召し上がるかもしれないと要望を訪ねてみた。

「そうね…卵のサンドウィッチが良いわ。軽くつまめるものでね。調子の良い時はあれが無性に食べたくなります」

 そう答える奥様に本当に今日は調子がいいんだなと、バトラーは合点した。

「奥様、それでしたら…コホン。お嬢様が前に、体の具合が良くて込み入った話の出来る時に呼んで欲しいと仰ってたんですが、お呼びしてもよろしいでしょうか。お二人分サンドウィッチをお作りしますよ」

「あら、何の話かしら。この前会った時は…話し込むほど元気じゃなかったのね。じゃあそうして頂ける。あ、あの子の好きなオニオンスープもお願い出来るかしら」

「お安い御用でございます。お任せください」

 日頃無愛想なバトラーも、奥様の機嫌がいいと嬉しそうだ。得意のオニオンスープを披露できることも浮かれ気分にさせてしまう要因だった。そそくさと下がってレガに連絡を入れた。

「あ、レガ様でいらっしゃいますか。奥様、今日はお加減がとてもよろしいようで、お昼を一緒にいかがでしょうか」

 それを聞いて嬉しくなったレガが1時間後、大きな花束を両手に抱えて笑顔でコテージにやってきた。

「急だったから花屋に寄るのももどかしくて、母さんの好きな遅先のバラを垣根から根こそぎ取って持ってきたわ。どうかしらよく咲いているでしょ」

 レガの抱えた花束は、レガの家で一連の垣根になるようにとシンディが新築の頃に植えたチョコレート色のジュリア。その後、レガが端正込めて手入れした思い入れのある見事なバラの花束だった。

「まあ、こんなに綺麗に、あの苗が大きく育って見事に咲いたのね。お前の家の垣根が思い浮かぶよ」

 母の嬉しそうな顔を見るのが最近のレガの唯一の楽しみだった。

「驚いたでしょ。ふふ、その顔を見るのが嬉しいのよ。香りも素晴らしいわ」

 二人の姿を微笑みながら眺めているバトラーの用意した卵のサンドウィッチは、本当に美味しかった。レガも久しぶりに時間をかけて作ったオニオンスープを頂いて、その美味しさに感動してご満悦だった。

「お母さん、色々話さなきゃならないことがあるの。気を悪くしないでね。もしもの時のために…」

 レガがそう言うと、みなまで話すなと止めるような仕草をして…

「そうね。私も、元気な内に話しておかないといけないことがたくさんあるわね。今日はそれにピッタリの日だと思うわ。

 此処に越してきた時にあらかたの物は処分したので、形見分けは此処にあるものだけ。それは少しずつ片付けるとして…あと、この前税理士さんに聞いたんだけど、通帳がたくさんあると大変だって、それで、こっちの三冊のお金をすべてそっちの通帳に送金してあなたに預けておきたいの。私はカードが一枚あれば事足りるわ。

 それをどうするかはあなたに任せるわ。後で迷惑かけたら申し訳無い。一人娘なんて嫌な役回りよね。でも、お願いしたいの」

「お母さん、そんなことは急がなくて良いのよ。別に何かに急かされてるわけじゃない。こんな話になってごめんなさい」

「謝ることなんて無いわ。此処に来た時に、そしてお父さんがなくなった時に覚悟はできてたはず。誰だって後に残る者に迷惑をかけないで気持ちよくこの世を去りたいと思うもの」

 レガが目頭を押さえた。こんなことならもっとシンディーが健康な時に、何も憚らず将来のことも話せば良かったと後悔した。

「それよりも…お母さん、此処の環境が気に入ってるのは解っているのよ。重々承知している。

 だけど…私の家に来ようとは思わない?ほら、お母さんの好きなバラもたくさん咲いているわ。しばらく過ごしてまた戻って来る。自由に行ったり来たりする、そんな生活もどうかと考えてるの」

 レガが本当に話したいのはそっちだった。

「それは駄目よ、こう見えてもお隣さんとの約束もあるし、ケーキの教室もあるし、何よりお花にお水を上げなくちゃ。毎日のことよ。私がいないと困ってしまうわ」

 母はそう言ってにっこり笑った。

「身体が痛む時はあるの?」

 レガがそっと聞くと、

「たまにはね。いつもじゃないわ。実は今日も朝から調子が悪くて、頭痛も酷くてね。もう薬を飲んで寝てしまおうと思ったの。この前先生から頂いたお薬。なのに、少し休んだらすっかり回復してしまったわ」

 奥様は、そう言った後夏物の入れ替えに夢中になりどこまでも楽しそうだった。

 でも、レガはそれを聞いてすべてを察した…バトラーから、『最後の段階であまりにも痛みが酷くなるようならと』説明を受けていた。

 残念だけど…遂に、あの薬を使うようになったのだと理解した。

 

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