episode9 花の園…

 毎日元気とはいかない。気分の悪い日もある。

 これは一日続くだろうと悪い予感しか無い。気だるい痛み。気分がひとつも冴えない。バトラーを呼んで薬を届けるよう指示をした。

「今日は頭を休めて眠りたいの。薬をもらってもいいかしら」

「もちろんでございます。痛みは早く取って頂いて、できれば気持ちよく眠ってもらいたいものです。楽に楽しく暮らしていただくのが当コテージのモットーですから」

「頭痛は嫌ね。何をする気も起きない。昔は我慢して無為に過ごそうなんて思う時もあったけれど、戦うのはもう止めにしたの。できるだけ早く痛みとおさらばしてぐっすり眠りたい」

 バトラーは掛かり付けの医師ハウエンテスから処方された薬を持って再度登場し、芝居がかった様子で、薬と半分ほど注がれたミネラルウォーターの入った美しいグラスを盆に乗せて奥様に差し出すと、

「どうぞ、ハウエンテス医師からの特効薬でございます」

 と言った。

「まあ、大げさなのね。特効薬…どんな痛みにでも効くの?怖いわね。そう言えば今度の往診はいつだったかしら、最近、先生に会ってない気がするんですけど」

 そう言って差し出された薬をマジマジと見つめた。

「会わないなら会わないほうが良いんですよ。なにせ医師ですから、会ってないなんて健康な証拠ではありませんか」

「そうね。会わないですむなら会わないに越したことはないんだわ」

 バトラーから差し出された赤い薬を口に含むと一気に飲み干してグラスを空にした。小粒の糖衣錠はスルッと喉を下って胃の中に落ちた。

「少し眠ります。起こさないで、今日は残念ながら体調が優れない。こんな日はカーテンを引いて薄暗くして外界を遮断して眠ります」

 奥様がベットに横たわると、バトラーは指示通りレコードを回して、カーテンを引いて部屋を薄暗くして室内の様子を確認した。

 ブラームスの間奏曲イ長調。それを聞くと膨らむ妄想。奥様は次第に深い眠りに落ちていく…やがて…寝室に幾日ぶりかで風の使いが姿を現した。

「今日は景色のいいところで写真を撮りましょう。ぜひお連れしたいところがあるのです。たまには私の我儘にも付き合って下さいよ」

 このところずっと拒否されていたお花畑に奥様を連れて行こうと風の使いは、そう切り出した。奥様はぐっすりと眠っている。その意識の底に働きかける。今日の奥様は意思が曖昧で拒絶する力も希薄。風の使いに誘われて何処にでも拐われてしまいそうだった。

 目が覚めると眼の前に一面の美しいお花畑が広がる。風に揺れる景色が気持ちよく可憐な花がたくましく咲き乱れる…それは美しい。見渡す限り果のない量で足元から青い花が咲いている。

「この花の香りは最高ね。どんな高価な香水にも勝てはしないわ」

「緑の匂いですね。心地よい甘さを少し抱えてじんわりと広がっています」

「頭痛が癒えます。さっきまでの辛いくらいの痛みが嘘みたい。あの薬よく効くわ」

「ハウエンテス先生の特効薬が聞いているのですね。効き目は保証付きですよ。最近とても人気の薬です」

 風の使いは奥様の質問以外の返事をしない。余計なことを言って気分を害さないように配慮しながら零れるような笑顔の時シャッターチャンスとばかり写真を撮った。

「もう写真は止めてくださいな。こんな老いぼれた姿を撮ったって誰も喜びやしない」

「お嬢様に頼まれているんです。気分の良い時の奥様の写真が欲しいと」

「そう、あの子が、じゃあ何枚かあげないとね。本当に綺麗なところ。あなたの言うことも時には聞かないとね。清々しい美しさ」

「良うございました。気に入っていただけて」

 風の使いは意気揚々と車椅子に乗せた奥様をより美しい花の中へと案内した。次の畑はこの世のものとは思われない、ありとあらゆる花が奥様の気持ちを映して輝いていた。『こんなところが現実に有るんだ』と奥様は思う。花は好きだ。でも飲み込まれてしまいそうで怖い気もしている。

「こんなに沢山の花、まるで花の儀式ね」

 そういう奥様はまるで少女の時を彷徨っているようで笑顔が美しく。花が奥様の生を祝福しているようだった。この景色は忘れないだろう。何度も思い出す。思い浮かべる素晴らしい光景だ。


 意識が戻って気がつくと、ベットに横たわっている。遥か彼方から戻ってきたような時空を操る感覚。時計を確かめると時間はあれから30分しか経っていない。やはりさっきの花畑は夢の中なんだろう。そう言えば風の使いが居たような気がする。

 溜息がこぼれる。それにしても美しい花畑だった。色は青、薄紫色。咲いている風景が蘇る。ネモヒラの花畑だろうか。見たことのない水玉模様の花もあった。色んな色の交じるイングリッシュガーデンもあった。美しい緑に映えてどの花も見事に咲き誇っていた。

 風の使いは基本夢のなかに現れるってことなのか?知らない間に受け入れて花畑に行ってしまった。娘が写真を欲しがっているって…何枚も撮られた気がする。

 腑に落ちない思いを巡らせながら、起き上がれないまま天井のマスの数を数えると左の端の収まりが悪くて、そこだけ柄が切れている。天井をまじまじと眺めたことのない奥様は、初めて数えた天井のマス目を仰いで、やがてこの天井と来る日も来る日も仲良くしないといけない時が来るんだろうなあと深い呼吸を繰り返した。

 とにかくもう一度眠ろう。今日は眠る日だ。そう決めている。すると、やる事があれこれ浮かんできて寝ていられない気分になった。どうやら頭痛はあの特効薬のおかげか過ぎていったらしい。

「ほんとに特効薬なのね。効いてきたみたい。これなら何か出来そうだわ」

 奥様は起き上がるとカーテンを開けて、まずは何をしようかと寝室のクローゼットを開けた。少し夏物を出しておこう。お気に入りの柔らかな花がらのワンピースをひっぱり出すと次の出番のためにシワを伸ばしておこうとハンガーに掛けた。着るものは沢山いらない。毎年気に入ったものを宝箱から出すのが楽しい。クローゼットのレギュラーを次々交代させて、夏に備える準備ができたことに喜びを感じた。

 

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