神性
AZUMA Tomo
神性
その男は自分の知る中で最も美しい人間だと思っていた。
灰色とも白色とも言えるような眩しい雨雲から多量の水が地上に降り注いでいた。暗いような明るいような外の光が窓から差し込んでいる。薄ら寒い光に真っ白な相貌が照らされて、いつになく美術品然とした出立だった。淹れたばかりの紅茶を上品に啜りながら、何を考えているかわからない無表情で青み掛かった灰色の視線を外へ向けていた。硬質に光る金髪と灰色の目は不気味さすら覚える。しかし、それほどに人間離れをした美とも言えた。
男はこちらを見ないまま、自分を呼ぶ。
「ねえ、有奇くん」
決して声量があったわけではない。しかし己の鼓膜を直接震わせていると思えるほどよく通る声だ。こちらが返事をするまでもなく男はその次の言葉を続けようと形の良い唇をそっと開く。『邑神有奇は自分の発言を一言一句聞き漏らすことはない』とでも思い込んでいるかのようで強引だと感じたが、この男・東雲祥貴はそういう性格の持ち主でもあった。
「あの軒先からゆっくり落ちてくる雨粒。じっと見つめていると地面がずっとずっと遠くなって、そしてどんどん雨粒の形がひしゃげた球形であることが鮮明になっていく。音が遠くなっていき、無音の世界の中、その雫だけが空中に浮いていて……そして夢幻の流れが始まる。つまり、時間が止まるんだ」
つるりとした灰色の瞳に紅の光が激しく灯った。そしてその閃光を目撃した瞬間には男の言う『夢幻』に引き摺り込まれた。揺らめいていたはずのティーカップの湯気がその場に形を留めている。男の背後で流れ落ちているはずの雨粒ひとつひとつすべてが、中空に浮かび上がる。あるものは完璧な球形に、あるものはひしゃげた球形に。しかしすべてが静寂の中で止まっていた。
その男は自分の知る中で最も美しい人間だと思っていた。しかし、今目の前にいるこの男は本当に人間なのだろうか。否、確かに『そう』だったはずだ。
――しまった。
自分はただ、そう思った。ずっと恐れていた事態が起こってしまったのかもしれない。
いつか。いつか、この男は『それ』になってしまうのではないかと危惧していた。
宙にぶら下がっているのは雨粒ではなく、自分の焦燥だった。
何のために今まで自分がこの立ち位置に身を置いていたのか、今こそその時だというのに結局身動きすら取れない。東雲祥貴だけがゆっくりと息をついて、こちらの様子には気づかないまま外を漫然と眺めている。考えれば考えるほど、身動きの取れない自分にはこの状況に変化をもたらすことなどできないと思い知るだけだった。
どう足掻いても止めることのできないその男の『シンカ』。何もできないやるせなさと男を『人』に引き留めておきたかった思いが感情を掻き乱して、残ったのは焦りだけだった。
――待ってくれ、頼む。お前はまだ『ここ』にいるべきなんだ。
大いなる力の前で人の子は祈ることしかできない。
虚空を切り裂く金属音が鳴り響く。いつもなら心地良いはずの扉の開閉を知らせるチャイムだがやけに耳について痛かった。しかし、その不愉快な音に酷く安堵した。自分たちは『呼び戻された』。
突如として大雨が窓を叩きつける音や遠くで鳴るキッチンの換気扇の音が蘇り、ティーカップの湯気は次々と天井へ向けて立ち上り、宙に浮いていた雨粒はもはや柱状になって地面へ向かってとめどなく落下していた。
目の前の男が美しい相貌に微笑みを浮かべて優雅に扉を振り返る。自分もそれに釣られて背後を振り返ると、足元を雨でぐちゃぐちゃに濡らした大男が傘を折りたたんでいるのが見えた。いつもは人懐こい表情を浮かべている彫りの深い端整な顔は忌々しげに傘の雨粒を睨みつけていた。
「もお、めっちゃ降られたわ! ほんま腹立つ。髪の毛もめちゃくちゃや」
その男が語る通り、彼のいつもの緩い癖毛は巻きがきつくなっており、そのシルエットがかなり特徴的になっていた。
「千葉、恵吾……」
「ん? 神様どうしたんや、そんなボケた顔して」
千葉恵吾は不思議そうな顔を作ると特有のイントネーションで辛辣な言葉をかけてくる。しかし、まさしく『日常』であった。『日常』へ戻ってこれた安心感と先程体験した『夢幻』の感覚の差を完全に理解した途端、心臓が尋常でなく拍動し、全身に急激に血が巡り、どの皮膚も余すことなく汗をかく。
言葉を発せそうにない状態を察しているのかいないのか、自分の代わりに東雲祥貴が返事をした。
「僕が変なことを言ったせいで呆然としているのかもね」
「ええ? どんなおもんない冗談言ったん、祥ちゃん?」
扉の横へ置かれた傘立てに濡れた傘を置くと、男は遠慮なくこちらに歩み寄ってくる。その表情は『どんな面白くない話が聞けるのか』という期待に満ちた意地悪な笑顔だった。
やがて千葉恵吾が空いた席に座ると、東雲祥貴は男の意地悪な笑顔に対して困り顔を作り、再び窓の外へ視線を向けた。
「……雨粒を見ているとどんどんとスローモーションが掛かっているように見えて、最終的に時間が止まる――という話をしていたんだ」
千葉恵吾は空いていたティーカップにポットから勝手に紅茶を注ぎながら訝しげに目を細めて東雲祥貴をじっと見つめる。目を細めているせいで目の下の隈が余計に強調されて普段よりも血色が悪く見えた。
「……相対性理論の話?」
「……そういうことかもしれないね」
「なんやそれ」
「いや、僕の思い込みの話だよ」
「ふうん?」
ふたりの会話にもはや首を突っ込むこともできず、まだまだ温かい紅茶に口をつけることで自分の心に平静を取り戻そうと努めた。
この時ほど、自分が千葉恵吾という存在に感謝したことはない。
千葉恵吾はおそらく、東雲祥貴という存在を『矮小化』することができる男だ。
千葉恵吾以外が東雲祥貴の話を聞いてしまえば、男の声色や振る舞いに『真実味』を見出してしまう。そしてその『夢幻』の中へ囚われてしまうだろう。
だが、この男は違う。千葉恵吾という男は東雲祥貴にとって良くも悪くも対等な存在だ。千葉恵吾自身が自分の『人間性』を意識的であれ無意識的であれ己の内に抱え続けていれば――東雲祥貴を浮世へ連れ戻すことができる。
――結局自分は、自身の力では、『東雲祥貴』を留めておくことができないのだろう。
星のように輝く焦香の瞳はティーカップの中に砂糖を注ぎ続けている己の指をじっと見つめている。なんとも無邪気な様子でありながら、しかし意志の強さを感じる面立ちは、東雲祥貴とは別の美しさがあった。
――もはやこの男に託すことしかできない自分の無力さが、憎い。
「神様、さっきから変な顔ばっかしてるけど体調悪いんか?」
手元を見ていたかと思えば千葉恵吾はこちらの様子を伺っていたらしい。眼窩に埋まった輝く目がじっと自分を見つめていた。
星の瞳に真っ直ぐ見据えられれば、生を感じる力強さに勇気づけられる感覚がして、自分の存在の小ささを自覚する。
悔しいが、この気持ちは事実だった。
「いや……メンバーも揃ったわけだ。鑑定の結果を早速伝えよう」
そう告げると茶を濁すようにメガネを取り、汚れてもいないレンズを拭き取った。
<終>
神性 AZUMA Tomo @tomo_azuma
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