最終話:Somewhere over the Rainbow

 そして雨が降り始めた。

 今度は、幻影でも間違いでもない。本当の雨。ただのつまらない、うんざりするほどにありふれた、ただの気象現象。


 ほとんどシャツ一枚の姿のまま、アイリは携帯電話でどこかへ電話をかけていた。

 話の内容からすると、遊水地に残された遺骸やオチミズ、そして街中に溢れた端末の処理などについて相談しているらしい。


 あのカエルは。その無数の手の中に隠れていた本体が死ぬと、全員が死んだ。

 あっけなく、それっきりネヴァーモアになった。

 死ぬはずの無い不死イモータルを殺す。何もわからない、ただ見ていただけの私にも、それが途方もないことだとはわかる。

 

 不滅の存在である不死イモータルに、弱点などあるわけがない。

 にも関わらず。存在しないハズの『弱点』を無理矢理引きずり出し、これを滅ぼす。それこそが、敵と同化し、あらゆる攻撃も防御も無効化するアイリの異能イレギュラーなのだ。

 道理を超えているというか。問答無用というか。傍若無人というか。とにかく滅茶苦茶で。

 恐ろしい。存在だ。


「……なら烏丸アイリって。本当の名前じゃないんでしょ」


 通話を終え、携帯電話を閉じたアイリに、私はそう声をかけた。

 雨がぱらぱら降っているが、もはや傘を差す気にもなれない。頭も体も濡れるし、大気がどうにも蒸し蒸ししていて、何かを考える気力を奪う。

 だからそんなことを、つい口走ってしまった。


「そうだな。オレには七十二通りの名前があるから……どう名乗ればいいかわからないが……」


 アイリは。悪びれもせずそんな風に首を傾げる。

 いいや。声からするとほんの少し。21グラム程度には罪悪感を感じているようだ。正体を隠したまま付き合わせていたこと。こうして事件に巻き込んでしまったこと。両方に対して責任を感じているのかもしれない。


「アナトリアのレイヴンって言っておけば。今回の件に関してはアナトリア騎士団が保障してくれるさ。適当なアナトリアの神殿にでも行けば、まあなんとかなるよ」

「そうじゃなくて。あんたのことは何と呼べばいいの?」

「……ふむ」


 腕を組んで、その腕に自分の乳房を乗せて、考え込むアイリ。


「仕事の関係者はレイヴンって呼ぶが、これは識別名コードネームだからなあ……迂闊に使うと敵対組織にマークされるだろうし……偽名としてはヘレナとかセレンとかリカとか使ってたが……正直どれもしっくり来ないんだよな……」

「あのカエルもいろいろ知っていた見たいね。『ヤタガラス』って呼び方は知らなかったみたいだけど」

「それはユウが付けたあだ名だろ。嫌いじゃないがね。でも……そうだな……」


 少しだけ、息を吸い込んで。

 アイリは私の目を見て、答えた。


「最初に貰った名前は、アイリーンだ。オレを産んで、そのまま死んじまった娼婦と同じ名前だよ」

「ああ。確かにそういう話も聞いたわね……スラム街の娼館で。十一人の姉妹に育てられたとか」

「そう。それ。正確に言うと、母親の妹だから叔母なんだが……そう呼ぶとめちゃくちゃ怒るんだよ」

「なんとなくわかった。覚えておくね。嘘くさい話だけど」


 まあ。不死の化物を素手で殴り殺したという話よりは、まともな話だ。

 そんな私を見て、アイリーンはにっこりと、無防備に笑って見せた。

 それなのに、その笑顔は、どこか近寄り難いモノにも感じてしまって。


「それで。アイリーン様はこれからどちらへ?」

「娘と一緒に、紅港のレストランへ食事に」

「……は? 娘?」


 耳を疑う。

 こいつ子供がいたの? そもそも結婚していたの? していたとして自分で産んだの?


「まさか。冗談だよ。娘じゃなくて、ただの弟子だよ。言ったろ。最近は、先生もやってるんだ」

「妙な冗談やめてよね……」

 

 それにしても。先生か。

 学校の勉強を教えているとも思えないから、柔術とか武術の師範だろうか。いずれにせよ、このような人間から学ぶことなんてほとんどないと思われるが。

 むしろ、悪い影響ばかり受けそう。

 何にしても。


「汚れたでしょ。ウチでシャワーでも浴びてから、出発した方がいいんじゃない?」

「……そうしたいのはやまやまだけど。ほら。この作品『性描写あり』のタグ付けてるじゃん? そうしたら、出発があと二晩は遅れてしまうだろ?」

「今更そんなこと気にするの? 知らないよそんなの。一週間も泊めたんだから。二日や三日増えても同じことよ」

「……いやいや。その気持ちは嬉しいが、やはり時間が惜しくてね」

「ふうん……」


 私は。

 一歩、二歩。アイリの方へ歩み出て。

 両手を、伸ばして。

 アイリの乳房を二つ、無造作に掴んでみた。


「おお、いきなりなんだ?」

「やっぱりブラしてないじゃん。濡れたら透けるよ。これ」

「なら後で上着でも羽織るさ」

「……きっとあんたは名前も多いし、あんたの場所プレイスだって、この都市まちのどこにでもあるのでしょうけど」


 アイリの乳房を掴んだまま、これをそっと持ち上げる。忌々しいくらいにやわらかくて、重い。彼女の持つ命の重さ。


「ここも。あんたの場所だから。近くに来たら挨拶くらいしてきなさいよね」

「ああ。また機会があったら、是非にそうさせてもらう」

「この感触と重さの忌々しさ。憶えて置く。次に会ったときに返すから」

「どうせなら、下半身の方を触って欲しいんだけど……」

「それは自分でやれ」


 そんなふうに。乳繰り合って。

 だらだらと、別れ惜しむように、やり取りを続けていると。

 分厚い雲の隙間から、高度を下げた夕日が差し込んでいることに気がついた。まだ雨は降っているが、その光線が雨粒を煌かせる。

 そして東の空に、大きな虹がかかっていることに気が付いた。

 大げさなくらいハッキリとした、大きな大きな赤から紫までくっきり見えるような、綺麗な虹。

 曇ったままの空に大きな大きなアーチを描いている。


「それじゃあ。お元気で」


 私がその虹に気を取られていると、アイリはすでにその場から去っていた。

 乳房を捕らえていたはずなのに、いとも簡単に、あっさりと取り逃してしまった。

 私、小鳥遊ユウと烏丸アイリはそれっきりネヴァーモアで。以後の彼女の行方は知れない。


 きっと多分、まだ死んではいないと思う。

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ア・プレイス・ホウェア・リトルバーズ・プレイ 七国山 @sichikoku

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