現実

@suzurannohana

第1話 不審者

その日は、ピアノの習い事の後に母親とイトーヨーカドーに来ていた。

「お母さん、地下で買い物してくるけど一緒に来る?」

母親が私に尋ねる。


私は、ヨーカドーの地下にある生鮮食品売り場が苦手だった。そこには漬物屋さんがあり、漬物を売る50代くらいの夫妻がよく話し掛けてきた。今では商売人らしい、話し上手で優しいご夫妻に懐かしさを覚えるが、当時中学生になる少し前の私には、まるで小さい子に話し掛けるような扱いに、恥ずかしくもあり、妙に照れ臭く感じていたのだ。母親はそのことをつゆ知らずであったが、私が毎回行くことに渋っていたので、ある時から尋ねるようになった。


今日は行く気分ではない。母親に伝え、私は入り口の近くにあるベンチに腰を下ろした。ヨーカドーの前にはベンチが並ぶ道があり、その向かいは商店街になっていて、ドーナツ屋さんや某コーヒーショップ、果物やさんが軒を連ねていた。閑散としていて、どこか人寂しさを覚えた。帰りにお母さんにドーナツを買ってもらおうかな、そんなことを考えながらポケットに入れていた携帯電話を出した。今や懐かしの折り畳み式。auのA5501T、オレンジ色のお気に入りの携帯電話だった。当時の小学生では持っていることが珍しく、メールでやり取りをする相手もいなかったので、暇な時はいつもゲームアプリを起動して遊んでいた。この日は、最近ダウンロードしたばかりの陸上のゲームをやっていた。100m走のタイムを競うもので、ボタンを連打し、レコードを更新させるべく夢中になっていた。


ヨーカドーに背を向け、ベンチの右端に座っていた私は、ふと左端に誰かが腰を掛けた様子が視界に入った。ベンチはたくさんあるのになんでここに座ったんだ、と若干の疑問を抱いていたが、特に気にせずにゲームを続けていた。なんだか様子がおかしいことに気付いたのはそのすぐ後だった。左端に座っていた30代くらいの男性だったろうか、当時は黒髪のおじさんという印象で大体の年齢の認識はなかったが、なにはともあれそのおじさんが徐々に距離を詰めてきていたのだ。恐怖心よりも変な気色悪さにゲームをやっている場合でないと感じながらも、止める手が出ずに私は携帯電話の画面に視点を合わせていた。

「何やってるの?」おじさんが話し掛けてきた。

おじさんが声を発してきた時には、おじさんと私の距離は服と服がかすれるくらいに近かった。

「ゲームで…陸上のゲームをやっています。楽しくて…」私はどんな状況であろうとも話し掛けられた以上は無視できずに、適当に返事をすればいいものの、返って気のいい返事をしてしまう節があった。

「へえー楽しそうだね、見せて」そう言いながら、画面を覗くようにおじさんはまた更に距離を縮め、私のベンチに置いていた左手に指を重ねてきた。

あまりその時の感情は覚えていないが、何か怖いことが起きそうだと感じた私は、冷静に思いを巡らせながら、もう飽きてきたんで…等と言い訳をしながら、右のポケットに携帯をしまい、さりげなく重ねてきたその手を避けるように自分の膝に左手を置いたように思う。右手はポケットに入れ、携帯電話に110と打って何かの時の為にすぐに行動できるようにしていた。


その後の記憶は曖昧だ。習い事の話や好きなことを聞かれ、愛想良く答えていたと思う。ただ、私の名前など個人情報に関することは聞いてこなかった。ただ、はっきりと覚えているのが、最後の方に交わした会話だった。

「誰かと一緒に来たの?」母親と来たことを伝える。

「ふーん、何やってるの?」買い物していることを伝える。

「まだ来ないかな?」おじさんが最後に私に話した言葉だった。

「もうすぐ戻ってくると思います」

「ッチ」

そう舌打ちをして私のもとから去っていった。


母親はまだ買い物から戻ってこないと知っていたが、危ない予感がして咄嗟に嘘をついた。


私は、無事に家に帰ることができた。




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