冷たい雨

新出既出

冷たい雨

 匂いかな。わたしはナナコの匂いが好きだ。フェロモンのこと? むしろフィトンチッドかもしれない。雰囲気ってほとんど匂いだと思わない? 見えるけど見えない、みたいな。共感覚者的にはどうなの? 匂いは重要な判断基準になるね。ナナコは音が匂うんだよね? じゃ、わたし臭くない? うん。ミヤコの声は臭くない。じゃ、今までで一番いい匂いの音って何? それはもうミヤコのよがり声。嘘。本当。どんな匂いなの? そうだな、炭酸シトラス系かな。響きがね、もうサイコーなわけよ。シュワシュワする感覚までよみがえってくるし。だからなるべく密着して、骨伝導みたいにして嗅いでいたいわけ。でもわかる気がする。匂いと響きは似てるって。響きこそが大事なのよぉ~。突然ナナコが、わたしを載せたまま起き上がろうとする。筋力! と腕立て伏せを試みるワニみたいな姿勢でプルプルと震えているナナコの体を、わたしは背中で感じつつ、シトラスソーダのことを思いながら、天井にぼんやりと映っている16:22という赤い数字を眺めている。それはベッドサイドの時計が投影している今の時間だ。自分の声はどうなの? わたしはふとそんな疑問を投げかけた。ナナコの声はどんな匂いがしているのだろう。わたしの背中の下でなおもわたしを持ち上げようとがんばっているナナコは、息も絶え絶えな声色で、無臭といった。それが本当にタイヤから空気が抜けていくみたいな音で、現在のナナコの状況にあまりにもぴったりだったせいで、それがどうしようもなく愛おしく感じられた。背中に頬をこすりつける。ナナコの背中は鰹節みたい。だけど胸はそれなりにやわらかい。ミヤコ。という断末魔の声がする。なぁに? 重たい。重たくないよ。重たいどいて。(無視。)ミヤコ、暑いから、おしっこしたいからどいて、いい加減に、ミヤコ。16:27。デジタル数字はさっきよりも鮮明になっている。今日一日を頑張ってきたお日様が、ついに隣の雑居ビルの陰に廻って、空が全体的に暗くなったせいだろう。そうするとシーツが夜光塗料みたいにぼぅと光り出す。黄昏時の町の色が好きだった。ナナコ。どいてくれる? ううん、色には音はついてないの? 共感覚は二つまでなの。そういうもの? ナナコまでもが発光しはじめる。肩甲骨からうなじ。先週わたしが切ってあげた髪が、鎖骨に触れるか触れないかという辺りを揺れている。夜が揺れている、と思う。ナナコ。どいてくれる? ううん、おしっこなら飲んであげる。そしてわたしはナナコの背中の上を転がり、ナナコの尾骶骨に口づけする。そこはダメ、バカバカ押すな。そんなとこからおしっこ出ないし、ほらもうおしまいおしまいだって。わたしが下半身へずれたせいで、ナナコは先ほどまでより大きく動けるようになった。だがその瞬間にナナコは、あ、だめだ限界。と呟いた。そこからは、ナナコがどう動いたのか、わたしがその動きにどう巻き込まれたのか分からない。一瞬、16:39の数字が映り、その数字を覆い隠すかのようにナナコのまんこが顔面に近づいてくると、シャーという音とともに、ナナコの体温の飛沫が顔面を直撃した。あわてて口を開けるだけ開いたけど、仰向けで大きく口を開いたままで迸り続けるものを飲み込むというのはとても困難で、こぼさず全部飲むなんて無理だった。途中で苦しくなって舌を出すと、偶然にナナコのクリトリスに触れたみたいで、おしっこが少しピクンとするのがうれしくて、何度も舌を出したりひっこめたりしたせいでまた顔にかかっちゃうし、おしっこはちゃんとおしっこの臭いがする。まさか本当にするとは。思い知ったか。ナナコはわたしにティッシュを箱ごと手渡して、ダイアナザーデイって無責任っぽくない? とラップのようにいいながらベッドから足をおろした。今夜ウーバーでいいよね。とスマホをスクロールする液晶の青い光がナナコをシルエットにして、それはカーテンの隙間をするりと抜けて行ってしまいそうな強さと儚さがあって、そういうところが好きだなと思う。ヌードルでいいかな? 台湾混ぜそば。メニューを次々と読み上げるナナコに、それじゃ五番目のセットにしてと応える。ナナコの匂いが鼻腔に残っている。舌の両側が少し苦い。だけど精子とはぜんぜん違う。

 身体の性と性自認と性対象。それはとても便利な言葉だと思うけれどそんな風に割り切れないのが恋愛じゃないか。恋愛は心と身体でするものだからこそ、ネットとかの限定的なつながりのほうがシンプルだし、それってとってもプラトニックなことよね。とナナコと話したのは、たぶんまだ、性がシンプルに三つに分けられるなんて思いもよらなかった高校1年生のころだった。だけど当時から多分、その三つの性の揺らぎが天使の輪みたいにくるくると回っていたような気がする。天使って両性具有なんでしょ。セックスしないくせにね。むかつくんだよね。生きてないやつに生きてるやつのことなんて絶対わかんないし、だいたい天使ってバカだと思うよ。苦労しないやつはバカのままで生きていけるもの。だから堕天使のほうがよほど親近感がわく。それで高校生の時、わたしたちの名もなき部活の部室は勝手に屋上と定められた。だって堕天使は屋上から非常階段を下りてくるはずだからね。

 もちろん非公認の部活だったけど顧問はちゃんといて、それは新任の国語の先生だった。先生の身体は女性で性自認は女性で性対象は女性だった。恋愛対象は性対象とイコールになりがちだけど、結婚対象は必ずしもそうではないの。だけどそれには相手の了解が必要ね。じゃなきゃ耐えられない。触れたいか触れたくないか。肌の感じ方って絶対的よ。次は匂い。それから声。でも声だけなら電話で十分かな。恋愛感情を抜きにして一緒にいたい人というのはいるでしょ。友達? その定義だって曖昧じゃない? それじゃ性って、心の働きなのか身体の働きなのか、どっちだと思う?

 先生と中庭で一緒にお昼を食べる会は、永遠とそういう恋愛相談だった。しかもそのほとんどが女の子にドキドキする女の子の相談だ。全員がレズビアンだったはずはない。だってあれがみんな同性愛者だったらとっくにこの国は変わっているはずだから。あ、それともみんな、知らないうちに矯正されてしまうのだろうか。経験の少ない思春期の迷いとして。思春期だからこそ素直な心が表れていたのかもしれないのに。

 だけどそういう区別って必要なのかな。恋愛自体が気の迷いみたいなことない? そう言ったら、わたしは絶対ミヤコがいないと生きていけないと感じているよ。ってナナコがわたしの背後から抱きついてきた。耳に湿った息がかかって、あれにはすごくびっくりしたな。駄目? って屋上のフェンス越しに詰められて。駄目じゃないって応えるので精いっぱいだった。

 やっぱりセックスはセットなのかな。つきあうってセックスしてもいいってことなの? 相手を信頼してるっていう証みたいなところはあるのかもね。それと、知りたいっていう欲求かもしれない。性別が同じだって身体は一人ひとり全然違う。けっきょくは身体があって人間だもの。異性間恋愛とセックスが普通だとかいう価値観は、結局一人一人が違っているんだっていう当然のことを見えなくしていた。当然のことなんてないんだ。だから、正解はない。だけど間違いはあるの。きついよね。だって、無理やりしたってつらいだけだもの。しなきゃつきあってるって言えないのかな。支配欲? でもそれって愛じゃないよ。だけど、友達じゃなくて恋人だっていう証明が欲しくなっちゃう。特別なんだよって。後悔するかどうかなんてやってみないとわからない。面倒くさい面倒くさい面倒くさい。自然に惹かれるだなんて嘘。だってわたしたちはもう知っている。本能だって絶対じゃない。人間は頭が大きすぎるのよ。それでその大きな頭のほとんどは快感を感じるためにできているんだから始末が悪いよね。たぶん身体が脳の進化においついていないんだと思う。だからアンバランスになって、いろんなものを発明したりする。例えばバイブとか。先生はいくつ持ってますか? 今度見せてくださいよぉ~ くだらなくて最高の玩具。べつにおちんちんの形にしなくったっていいと思うんです。女性にとってもっとも気持ちがいい形を本気で研究してもらいたいと思います。なんか幻想を抱いてるんじゃないでしょうか男って。あ、昼休み終了。今日はここまで。

 だけどディルドとかペニスバンドとかって、みんな備えているものなのかな? 異性のペアならあんまり使わないかもだけど、あって困るものでもないんじゃない? 上手に使えばそれなりに気持ちがいいんだし、道具を使うって人間の特徴でしょ。だけどあれアトラクションみたいなことない? ただ相手を気持ちよくしたいっていう純粋さだと思えば、あり、かな~。支配欲と紙一重よ。それって愛じゃないよね。セックスと愛の関係のことはさておき。だけどことさらセックスのことばかり考えてるわけじゃないものね。セックスレスはどんな組み合わせにだってある。結婚って結局そこからが本番って感じ、しない。惰性?。それは悲しい。現実逃避の引き延ばしで一期一会をモヤモヤさせたくないでしょ。先生はそういって左手の親指をのぞく四本の指を右手のひらで包み込んでしばらく目をとじていた。高校はキリスト教の学校で、先生もキリスト者だった。ナナコ、カエ先生って覚えてる? うん。芝生とマフィンの匂い。

 辛いヌードルをヒーヒー言いながら啜り終えた後、ベッドの上に寝転がって、まぶしいくらい輝く20:40を眺めている。歯を磨かないといけないなと思いながら、シーツが素肌に気持ち良すぎて、足の裏をカーペットにおろすなんて耐えられないと思う。ここを出たら終わってしまう何かをわたしは引き延ばそうとしていて、その引き延ばしが苦痛に感じられてもなおそれにしがみついていたいと思ってしまう。ナナコはわたしに背中を向けてペディキュアを塗りなおしている。今夜も仕事に出るらしい。休めばいいのにと思うけどお願いはしない。休みたいならナナコは休む。そういう人だからわたしは心置きなくナナコの背中を眺めていられる。ナナコはほとんどわたしを見ない。わたしはナナコにとって忌まわしいものの象徴なのかもしれないし、天使みたいなものなのかもしれない。わたしがナナコをせめるとき、ナナコはまったくナナコらしくなくなって、そういうナナコを見下ろしたり見上げたりするとき、わたしは海になったような気がしていて、抗いようのない大きなうねりにすべてを委ねることと、そうすることを恐れて抵抗することとを、心が、そして身体が、交互に受け持って揺れ動いている。そうしているナナコはすごく恐ろしくてすごく硬直していてすごく気持ちがいいのだろう。逆のとき、ナナコはわたしの首を絞めることがあるけれど、身体の抵抗と心の抵抗との限界値があまりに近すぎるせいか、あまり気持ち良いとは感じない。けれどもそれはわたしのためというより、ナナコ自身のためなのだと思うから抵抗はしない。視界の周辺が溶けていくみたいに粉々になりながらその真ん中にいるナナコの真っ黒な瞳にうつる私の顔があんがい恍惚としているのに驚きながら、やがて全身が正座しすぎてしびれるつま先になったみたいな感覚を、快感と勘違いしそうになる。ダイアナザーデイ。何度もイった後の身体に触れられるのは痺れたつま先に触れられるのと同じ感じなんだけどそれって気持ちがいいと思う? ぜんっぜん気持ちよくなんてないから。それまでの気持ちよさが台無しだから。唐突にそんなわたしの記憶があふれ出す。痺れるって、死体が感じる最後の感覚だって、何かで読んだな。そういう時ちょっとくすぐったいだろう。だから死体の表情にはほんの少しだけ、笑顔が混じってるんだってさ。最後につきあった男が言っていたっけ。嫌だ嫌だ。今のシーン、脳みそからこそげ落としたい。でもたぶん、脳みそだけじゃないんだろう。指にも舌にも背中にもクリトリスにもまんこにも尻にも肩にも、思い出は沁みついていて、なにかの折に再生される。シャワーを浴びたい。目の前のミヤコを見つめる。ミヤコの背中は、遠くの高いところから真っすぐに落ちている滝みたいだ。無音ですべてが静止しているようでいて実は爆音で片時もとどまることなんて無い名瀑。ねえ真実の口ってまんこみたいじゃない? ナナコはまったく姿勢を変えないまま呟いた。これは答えを求めていない声だ。口には歯が生えてて、まんこには歯は生えてない。進化論の適者生存説によれば、まんこに歯が生えてないタイプの雌が生き残ったってことになるんだろうか。男性にとって口とまんこの違いは歯の有無くらいなのかもしれない。男性が凸で女性が凹というスタイルが、すべての性差別の根幹にあると思う。だからまんこには歯は生えてるべきなんだとわたしは思う、進化の方向としては。でも乳歯から永久歯に生え変わるとか親知らずとかと考えると面倒だ。永久歯にならないとタンポンは使えない。だって抜けた歯が奥へ押し込まれて子宮を傷つけるとよくないし。ねえ、天使って絶対全部乳歯だよ。あいつら永遠の乳歯。ダイアナザーデイ。ナナコはラップみたいにそう言って、ペディキュアの小瓶に蓋をすると、ベッドサイドに出しっぱなしのキャリーケースの上に転がした。ナナコは天使なんかの対極にいて、たぶんそれもまた天使のようなものなんだ。いつか出て行ってしまう。だってここは残念なくらいにわたしの部屋だから。今夜ナナコが部屋を出たらもう戻ってこないかもしれない。そして、ナナコが戻ってこなければ、台湾混ぜそばの油とひき肉でベトベトの空き容器ですら記念品になるのだ。ナナコはこの部屋から何ももちださない。この部屋に来た時からキャリーケースの中身は減りも増えもしていない。大きなキャリーケースだけど、わたしが潜り込むには小さすぎる。けどナナコなら、三角に折りたためばぎりぎり入れることができるかもしれない。そしてナナコを入れたキャリーケースくらいの隙間なら、押し入れの下の段にはまだ。

 ミヤコ、何考えてるの? キャリーケースを見ていたわたしを、いつの間にかナナコが見下ろしている。仕事休む、雨だし。雨? そうか。このどうしようもないペシミズムの雰囲気は雨の音のせいだったのか。ナナコ。ナナコが初めてここにきた日の雨の音を覚えてるよ。チーズタッカルビの匂いの雨でわたしは傘ももってなかった。Tシャツが肌にぴったり貼りついていて、唇は真っ青で。兎だか鼠だかのキャラクターのシャツ。よく覚えてるね、あんなのわたし買った覚えなかったけど、どうしたんだろう。上のタンスにしまってあると思うよ。わたしがそう言うと、ナナコは押入れの扉を見たまま首を振る。時々、あるんだ。夏なのに恐ろしいくらい冷たい雨が降る夜って。そんな雨に限って傘も屋根も見つからない。ミヤコ。どこにもいかないでよ。わたしはびっくりした。そして涙があふれてきた。冷たい雨の音が頭の中で大きくなっていった。わたしダメかもしれない。思いがけずそんなことをつぶやいていた。そしてナナコの足にしがみつき、生乾きのペディキュアの匂いのするつま先を全部口に含んだ。ナナコはわたしの髪をなでながら、やさしく蹴ってあおむけにしてくれた。21:02。わたしだって痛いのは嫌いだし、相手が痛がる顔を見るのも嫌だ。だけど痛みは分かりやすいから、分かりやすい印を欲しがる人もいるだろう。そういう人って多分天使が好きなんだろうし、精子もちゃんと飲むんだろう。だから天使はあちこちにスペルマをまき散らすことで快楽を得ている。スギ花粉より迷惑だわ。両性具有なのになんでセックスしないんだろう。天使は天使が嫌いなんだ。第二次性徴を迎えることもなく、無邪気に夢精して、意味もわからず角オナとかしてるわけ。ペニスバンドが入ってくる。ナナコは出ていきたかったのだと思う。だけど今夜じゃなかった。真っ黒なナナコの瞳。苦しい。そしてうれしい。嵐の音が響く。ナナコの匂いのする響きが、わたしを内側から砕いて溶かす。わたしであってわたしでないもの。そしてやっぱりわたしでしかなかったわたしが渦を巻いて流れ落ちていく。ナナコが眠り、わたしの身体の痺れが収まったら、わたしは冷たい雨を小瓶に集め、日付と時間をかいて押し入れの隙間にそっと並べておこう。眠っているふりをしているナナコを絶対に起こさないように。臆病に。そして大胆に。

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