オーチャード・グレイヴヤーズの伝説
尾崎滋流(おざきしぐる)
オーチャード・グレイヴヤーズの伝説
よし、いいだろう、そういうことなら、あんたに今からオーチャード・グレイヴヤーズの話を聞かせてあげるよ。
ちょっと聞いてる? そこのあんた、そう、今そこでシケたカクテル飲んでるそこの冴えないあんただよ。
何だよその顔。もうちょっと感謝してもらってもいいくらいだよ。今から冴えないあんたに
だからその、そこで流しっぱなしにしてるクソくだらない
まずはオーチャード通りの話から始めなきゃいけないかね? その頃のオーチャード通りはまだ前世紀のメガ・モールが、露店やら寄生建築やらゲリラ市場やらに浸食されながらまだけっこう残ってた。お城みたいな
オーチャードはそんな大伽藍に囲まれた2キロちょっとの通りで、夕方になるとでっかいレインツリーに止まったオオハッカの声がハウリングしたみたいに谺して、その中をフェラーリと人力車が一緒に走ってた。
ある時、その通りの一角に古代ギリシア風の円形劇場が現れて、そこでいろんな人がパフォーマンスを始めたんだ。その劇場を作ったやつは表舞台に出て来なかったけど、なんでも健康産業で巨万の富を築いたらしいね。スパイスとハーブと神経生理学で大金持ちの寿命を0.5%ほど伸ばして集めた金が、海峡でいちばんクールで尖った現場を作り出したってこと。じっさい、そいつのさりげないキュレーションにはみんなが舌を巻いてた。不満を持ってるやつには反逆のエネルギーを、現状維持したいやつには心地よい逸脱を、アカデミックなやつには魅力的なパズルを常に供給してた。そいつが最後まで素顔を隠し続けた話は、これはまた別の叙事詩だね。
とにかく、そのオーチャード通りの円形劇場にある時現れたのがオーチャード・グレイヴヤーズってわけ。
メンバーは三人で、ギターとベースとドラムの、まあオーソドックスな3ピースの
まあ今じゃなんでも音で鳴らせるようになっちゃったから、何がスゴかったのかピンと来ないかもしれないけど、とにかく想像してみてよ。あの頃、世界のいろんなところで同時多発的に、土地そのものをアンプリファーに、エフェクターにするやつらが現れた。まあざっくり言えば人文主義地理学と精神分析と認知科学の原始的な合わせ技なんだけど、新しいジャンルが出てくる時の、まだ洗練されてない、それぞれの要素が剥き出しのゴリっとした感じが、当時はまだあったんだよ。今みたいに何もかもがシームレスに出力されて部品も構造もちょっと聴いただけじゃわからない感じとは違うわけ、わかる?
そもそも地霊がわからないって? だからさあ、例えばあんたがいるこの場所、この街、この通りには、この場所固有の時間と空間があって、あんたがまだ物体としての肉体を持って生きている以上、必ずこの時空間の影響下にあるっていうのはわかるだろ。その時間と空間、歴史を孕んだ実体としての場所、トポス、
まったく、あんたがぼんやりしてるから話が進みやしないよ。だから大事なことは、オーチャード・グレイヴヤーズというのはまさにオーチャード通りでパフォーマンスするためにいる樂團だってこと。だから名前もそのまんまなの。さてここからはものを知らないあんたのために歴史の授業をしてやるけどさ、なんで
街ができてしばらく後、だんだん郊外のその通りに墓地が作られていった。出身地や民族別にね。中国人墓地、ユダヤ人墓地、ベンクーレンから来たスマトラ人の墓地もあったそうだよ。中国人墓地には三万人もの遺体が眠ってて、その上にメガ・モールをおっ建てる時にはずいぶん
ねえ、あんた、想像できるかい。ヨーロッパの連中がスパイス欲しさに命がけの航海をして、どうにかこうにか熱帯の島々に辿り着いた頃のことをさ。世界で初めての株式会社が生まれ、大量生産と大量輸送が始まった時代さ。それから二百年くらいして、小さな漁村がひとつふたつあっただけの小島に大英帝国の港ができた。インドと中国を結ぶ海峡、アジアとヨーロッパを繋げる海峡の港だよ。砂糖にカカオ、錫とゴム、そしてアヘンが蒸気船に載って世界をどんどん加速させた。一山当てようといろんな人がやってきて、出身地別に固まって住み始める。
それを、やつらは鳴らしたんだ。
そりゃあ任意の場所の情報を
そしてもう一方で、今言ってるような情報の中には、まだ解析しきれないものもいろいろ含まれる。たとえば
まあ御託はいいよ。あんたもあの場所にいられればよかったのに。あの場所で、あれを聴くことができたらよかったのに。崩れかけたオーチャード通りの円形劇場で、あの三人が鳴らした音、イメージ、そしてアレゴリー。もちろん教育プログラムじゃないんだから、受け取るものは人それぞれだよ、その人の知識とかにも依存するしね。でも、優れたパフォーマー、最高にクールなアーティストというのは、人々がそうとは知らずに共有してる概念とか構造に訴えるんだ。いや、ユングが言ってるようなあれ、人類に普遍的ななんやかやの話じゃないよ? そういうのもあるかもしれないけどさ。ごめんそっちはよくわかんないからここでは置いとくけど、今言ってるのはもっと目に見える世界からみんなが受け取る構造のことだよ。あんたたちみんなが生まれて食って歩いて、種々の
そう、もしあの場所であれを聴いていたら、あんたも痙攣するような振動と押し寄せるイメージと概念の混沌の中に、スパイスの香りを嗅いだような気がしたはずさ。最初の植民者たちが血眼になったあのスパイス。でももっと幽かに、ほんの一瞬だけ、つかの間ひらめく稲妻のように、あんたは果物の香りを感じたかもしれない。海を越えることができなかった香り。女王陛下が求めても得られなかった、マンゴスチンの香り。
今でも思い出すよ。あの円形劇場で、オーチャード・グレイヴヤーズが鳴らした音。あの場所そのものをアンプリファーに、エフェクターにして、その歴史、地球をぐるりと回る空間、そして地と時間の底で眠る、死者たち、死者たち、死者たちを空気の振動に乗せて大音量で響かせた音。あの三人はそれを淡々と演奏してた。その時みんなわかったはずだよ。自分たちはこのことを理解できない。死者たちのことを決して理解できない。決して理解できない死者たちが足元いっぱいに埋まっていて、あらゆる感情と意味を凝縮したアレゴリーとなって
さて、まあだいたいこんなところだよ。どうだい、まんざら退屈でもなかっただろ? ぼんやりした顔してるけど、途中からわりと真剣に聴いてたのはわかってるんだよ。でもまだ他人事みたいな顔はしてるね。そうだな、ちょっと耳をすませてみなよ。このリズムがわかるかい、ほら、いまこの靴底で床を叩いてるリズムだよ。それにこの波の音。折り重なった波のノイズ。そしてこの声。聴こえてくるだろう、この場所の歴史が。あんたがいま海に沈む夕日を見ながらカクテルを飲んでるこのテラス、海賊が行き交い、スルタンたちが君臨し、はるか西からやってきた植民者たちが要塞を建てたこの古い街でいったい何が起こったか、このムラカの地霊が、あんたにそれを語りかけるはずさ。
それで、ここで提案なんだけどさ、あんた、自分でそれを鳴らしてみるつもりはないかい。というのもね、さっきから気になって仕方ないんだ。あんたのその指、長い爪に海の底みたいに青いエナメルが光ってる、ちょっと節くれだったその指で、アンプリファーに繋いだギターの弦を爪弾いたらどんなものが聴こえるんだろうってね。それにあんたの目だよ。ちょっと濃すぎるシャドーの下の、光のないその目。そこにいながら、でも何も見てないような。持論なんだけどさ、音楽をやるやつは、目が死んでなきゃいけないんだ。あんたみたいな目をしてるやつが、音楽をやるべきなのさ。だから、そう、ちょっとさ、適当にでいいから、そこにあるギターを弾いてみてくれないか?
オーチャード・グレイヴヤーズの伝説 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo
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