4. Lilien

 夏の盛りもそろそろ終わりを告げようというのに、毎週日曜日に大聖堂の助祭が様子を見に来るばかりで、新しい司祭は一向に派遣されなかった。

「悪魔憑きが出た教会の司祭になりたいやつなんて、見つからないんだろうさ」

 アメリアが他人事でそんな見立てをしていたことを思い出しつつ、イルゼは遠ざかる助祭の背中を見送った。少し急ぎ足のその姿を見ながら、イルゼは夕焼けが影を落とす通りがいつもより賑わっていることに気づいた。大聖堂の方から陽気な音楽が微かに届く。祭りか何かがあるのだろうか。イルゼは人混みが苦手だが、アメリアはきっとこうした催し物には存分に興じる性質である気がした。


 そんなことを思い巡らし人の流れる方へと視線を向けていると、背後に足音、そして蝶番が重苦しく軋む音がした。

「お爺様、今日はもう……」

 よく教会を訪れる、枯れ木に似た小さな老爺が正面扉をゆっくり押し開けた。イルゼは制止したが、彼は聞こえていないのか聞く耳を持っていないのか、おぼつかない足取りを止めず、扉の隙間から薄暗い礼拝堂へと入り込んでしまった。

「罪を犯した私に赦しを、どうか」

 イルゼは嘆息して、いつものように案内した。

「司祭様がいらっしゃいません。誰もおりませんので、祭壇でお祈りください」

「ありがとうございます」

 本当はすぐに正面扉を施錠して、小屋で待つアメリアに街の賑わいを知らせてやりたいくらいだ。しかし、人が来た以上——そしてイルゼがそれを門前払いする術を持ち合わせてない以上、彼の譫言もとい懺悔が終わるのを待つしかない。


 手に持っていたランプを長椅子の端において、それからその脇に腰を下ろすと、イルゼはステンドグラスが彩る外の薄明かりを見遣った。信徒は祭壇の前でひざまづいて、いつもの懺悔を始めた。

 女を傷つけたこと、死に追いやったこと。にもかかわらず妻子をもうけ、大戦や流行病を生きながらえたこと。

 イルゼはもう、この懺悔を耳にしても、彼を司祭に置き換えて虚しい夢想に耽ることはなくなった。アメリアと出会って以降、イルゼにとって彼の懺悔は虫の鳴き声と同義だ。


「お赦しください、私の罪を……彼女を救うことができなかった私の罪を」

 懺悔の言葉が一周し始めた頃、イルゼは青白くなり始めた窓越しの明りから、老爺へと視線を移した。

「日も暮れました。そろそろ————」

「私が愛した彼女の罪が、赦されますように」

 イルゼは丸まった黒い背に声をかけるのを止めた。

 ——馬鹿な信徒にいたぶられた挙句、大事な大事な秘密を明かされてしまった、罪作りの修道女さ。

 川に橋がかかるように、アメリアの吐露と老爺の懺悔が結びついていく。

 ローズの唇が開いて、問いとともに漏れ出る浅い呼吸が震えた。


「彼女の、罪とは」

 目の前の老爺ははっと顔を上げた。しかしイルゼを振り返ることなく、聖母を一心に見つめて、それからまた顔を伏せ必死な様子で語り出した。

「愛を学び、歩み寄ることに臆病な女性でした。怠惰で哀れな罪人である彼女を、荒れ狂う川へ追いやり、更なる罪を背負わせたのは私です」

 心臓が早鐘を打って息苦しい。それを老爺に悟られぬよう、イルゼはゆっくりと深く息を吐いて、重ね尋ねた。

「彼女の名は」

「存じませぬ。ただの修道女です」

 激情が血管を迸り、イルゼを突き動かした。


 跪く男の頭はイルゼの胸のあたりと低く、つまりとても掴みやすい。

 イルゼは禿げ上がったそれを力任せに前方——絢爛な彫刻が美しい祭壇に叩きつけた。岩にレンガをぶつけたような音がして、その拍子に祭壇に立ててあった燭台が倒れる。イルゼはそれを両手で掴み取った。

「何故、何故……」

「黙りなさい」

 ひいひい呻き立ち上がった老爺の頭へと、銀の燭台を振りかぶる。男の上半身が、燭台とともに祭壇に叩きつけられた。月影にぬらりと光る黒い血飛沫が、聖母の彫像に砕け散った。


「彼女の名すら知らずに彼女を傷つけた男の戯言など、一音たりとも耳にしたくありません」

 肩で息をするイルゼは、ずるずると床に崩れた老爺を見下ろし、彼の頭に燭台を叩きつけた。しん、と中が静まり返る。

「ああ、ようやく思いが通じた! ようやく思い通りになった!」


 イルゼの背後で晴れやかな高笑いが響いた。

 イルゼは弾かれたように振り返った。アメリアが、頭巾を振り乱しながら腹を抱えていた狂喜している。

「アメリア、彼は……」

「見てみなよ、懺悔が報われず乙女に鉄槌を下されたこの顔を。ああほら、汚い血で靴が汚れる。こっちへおいで」


 アメリアはイルゼの腕を引き寄せると、背後からぎゅっと抱きしめて踊るように左右に揺れた。その温かさに、興奮に強張っていたイルゼの体がほぐれていく。

「血も唾液もなくたって、お前は私の思いに応えた」

「そうですアメリア。だって私は貴女と同じなのだから。これは、清く従順なだけではなくなった、私の選択」

「……イルゼ、私のい乙女」

 熱っぽいアメリアの笑い声が、まるで賛美歌のようにイルゼを満たした。

「私と一緒に笑っておくれよ」

 イルゼは肩越しにアメリアを振り返る。蒸気した頬は緩み、色づいた唇が血の気のないアメリアの頬に触れた。


「ところでアメリア。外がいつもより賑わっていました」

「ああ、今夜は広場でイェーダーマンが上演されるんだと」

 アメリアがそう言うと、見計ったように大聖堂の鐘の音が響いた。

「劇の演出かね。少し覗いてこよう」

「その前にお召替えと、お片付けを」

「どうせ暗くて見えやしない、片付けは後。ほらほら劇が終わってしまうよ」

 アメリアがイルゼの手を引く。二人は正面扉を少し開けて、くすくすと笑い合って出て行った。外から鍵を掛ける音が、アーチ連なる天井に反響した。

 二人が去った静謐な礼拝堂。ステンドグラスの落ちる遺骸を、血濡れた聖母の彫像が冷ややかに見下ろしていた。        

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シャーデンフロイデは舌の上 ニル @HerSun

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