世界で一番
霜降十月
ほんぺ
雪の降る中、彼女は私を桜の木の下に呼び出した。彼女は艶やかな長髪を風になびかせ、優しい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。桜と、制服の少女。それは絵にかいたような美しい少女の姿であり、それによって彼女の手元にあるナイフがより異質に見えた。
「ねえ、雪乃ちゃん」
私が彼女に近づくと彼女は薄い唇を開き、穏やかな声色で話し始めた。
「次はどこに行くの?」
彼女の質問の意図を飲み込む前に、彼女は再び口を開いた。
「私はね、どこにも行かないよ」
そう言って彼女は手元のナイフを自分に突き立てた。
彼女の白いシャツに濃い赤色が染みわたる。彼女は赤色のついた手を伸ばし、私の目を覆い隠す。
「目、開けててね」
手が離れる瞬間、うっすらと視界に残った赤色が、私の見える世界を覆いつくす。
赤色、そして白色。だんだんと赤く染まっていく雪が、命の色に重なって見えた。それはどんな芸術家でも表現できない、彼女の色だった。残酷なほどに美しく。悲壮な芸術を披露した彼女は満足げな顔でその場に崩れ落ちた。
花のようだった。真っ白な雪のキャンパスが彼女の色に染まる。私はただその場に立ち尽くして、眺めていることしかできなかった。
「……紗季ちゃん」
彼女の名前を呼んだ。何度呼んでも、返事は帰ってこなかった。
私は孤独だ。教室の中、浮かれた子供たちの中に私は浮いている。自分から望んで孤独になったわけでは無いが、孤独はいつの間にか自分のアイデンティティにさえなっていた。居心地のいい、自分を確立する孤独。それは私を青春へのあこがれから遠ざけてくれる。
孤独な人はこの教室に二人いる。私と、もう一人。もう一人の子はきっと自ら孤独を選んだ、孤高の人なんだろう。彼女は私とは違うと思いながら、妙に親近感を覚えてしまっている。それは二人に孤独という共通点があるからであり、その一点が自分にとってどれぐらい大きいかを示していた。
孤独な級友を確かめるために視線を上げる。机と空の椅子をそれぞれ三つ挟んだ先、その先にもう一つ、空の椅子を見つける。彼女はそこにいない。彼女は私の真横にいる。
「ねえ、あなたにはまだ、話しかけてなかったね」
透明。私に向けられた声。
「うん、一度も」
私は単純な事実を答える。それ以上は必要とされていない。
「忘れてた……」彼女は自分に言い聞かせるようにそう言う。
「私のこと、どう思う?」
彼女は艶やかな瞳を私の方に向け、緩やかに質問をする。
「……気に入らない、試されているみたいで」少し間をおいて私は答える。
彼女は私に何かを求めている、その事実が気に入らなかった。彼女は孤高であってほしいという自分勝手な願いが、その感情を生み出したのだろう。
「でも、ちょっと嬉しいんじゃないの? 親近感、別に悪い感情じゃないはずだよ」
彼女が指摘したことも、また事実だ。
「別に、直線上に感情があるわけじゃない」
「中間をとってあの答えになったわけではないでしょ?」
否定的な感情が何よりも先に表に出てしまう、これもまた事実だ。私はそれを自覚している、それが私を人から遠ざけていることも。
「話がそれちゃった、試してるっていうのはあながち間違いじゃないかもね」
彼女はそう言いながら近くの椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「まあ、要は、お友達になりませんかってこと」
合わせた視線は同じ高さになる。
「合格ってこと?」私は少しおどけた口調で言う。
「定員割れだけどね、お友達は」
彼女はそう言って口を斜めにした。
それから彼女と私はよく話すようになり、私が孤独である時間は減っていった。彼女の独特の感性と視点から発せられる言葉は明確な意思をもって、私に届く。私はそれを返す。頭の中で一人で繰り返していた思考を相手に投げかけることは想像していたよりずっと楽しかった。
彼女は想像よりずっと面白い人間だった。私が見ていた優等生で、彫刻のような彼女の美しさは彼女の育ちの良さから出来た殻であり、内面はもっと抽象的な、印象派の絵画のような美しさだった。
「ねえ、花火見に行かない?」
彼女はいつものように私の目の前で私に話しかける。
場所と日時を彼女から聞いた後、わたしは「いいよ」と短く返事した。
私たちは駅で合流し、電車に乗り込む。普段より人の多い電車の中は快適とは言えず、駅のホームも人が詰まっていた。
「あついね」
彼女はいつもどうりの余裕が浮かんだ表情でつぶやく。暑さと人込みの不快感は田舎に住んでいる私には新鮮でもあった。
人の流れに身を任せながら、私たちは河川敷へと向かった。近くの神社には屋台が並んでいたが、その周囲には近づけないほどの人が溢れていた。あの中に入って行くという苦行をしてまで欲しいものはない、というのが私と彼女の意見だった。
「割といい位置じゃない?」
土手の下にある橋の端、そこの小さな段差に私たちは腰掛けた。
「このまま人が来なければ」
ポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。花火が始まるのは一時間後だ。
私たちは時々、思い出したように会話をした。無言の時間も多かったが、それが私にとっては一番楽な会話のペースだった。
だんだんと増えていく人と近づく喧騒が、花火の上がる時間が近づいてきたことを私たちに伝える。船が川の上を走り、私たちの斜め前に止まる。
「いい位置だったね」
「でしょ?」
彼女は自慢げに微笑んだ。周りを見渡すと、土手の一面が人で満たされている。私たちの周りにも人が溢れている。土手の方面が満員電車とするならば、こちらは教室ぐらいの人口密度になる。
笛のようなか細い音と共に、一筋の光が空に浮かぶ。光は音と共に弾け、空に大きな模様を描く。
「風情のない奴らだね」
周りの人が一斉にスマホを構え始めるのを見て、私がつぶやく。
赤、緑、青、様々な色に照らされた空を彼女はどこか違うところを見つめるような、遠い目で眺めていた。
「これって、どう思う?」彼女は唐突に私に問う。
「芸術だなって、思う」私は一瞬の間をおいて答える。
「芸術?」彼女は再び問う。
「非現実感っていうか、刹那的な美しさ」
「非現実感、あれとの違いのこと?」
彼女は町の方を指さす。そこには光が溢れている。
「そうだね」
真っ黒な空のキャンパスに模様が浮かんでは、数秒で消えていく。そして体の底に響くような低音を合図に、再び光が空を彩る。
「……よくわかんないや」
そう言いながら空を眺める彼女は様々な色に照らされながら、静観的な表情を見せた。
私たちは海に行った。田舎を歩いて回った。そのいかにもといった夏の景色を見ることができた。彼女はどこに行っても、人並の楽しみ方をして、楽しそうに笑っていた。そしてふと、彼女はあの静観的な表情を見せた。
私からすると、これ以上ないぐらいに楽しい夏だったと思う。
夏休みが終わり、二学期が始まり、季節は秋になった。学校に行かなければいけないのは憂鬱だったが、彼女がいることによってその憂鬱も小さくなった。八月の暑さがまだ抜けきれない九月の気温も、数か月後には懐かしく思えるのだろう。今は寒さが懐かしい。
教室の席に座ると、自然と彼女が隣に居る。挨拶も必要ないほど自然に。
「もうすぐ文化祭だよ」
いつも通り、彼女は私よりも先に口を開く。
「準備、してるんだっけ?」
「そうらしいよ」
どうやら私たちのクラスは劇をやるらしい。準備などは私たちの知らないところで進んでいて、役も脚本もいつの間にか決まっていた。もしチャンスがあったとしても何もしないつもりではあったが、こうも露骨に輪から省かれるのは気持ちのいいものではない。
「まあ、頑張ってほしいね」私は冷やかしのつもりで言う。
「ちゃんと見に行ってあげよう」彼女は悪戯な笑みを浮かべながら言う。
時間は淡々と、流れるように通り過ぎて行った。暑さはいつの間にか肌寒さにすり替わっている。私が期待していた過ごしやすい気候の秋は姿を見せず、カレンダーと外の景色だけが秋を示している。
今思い返してみると、この二か月はあっという間に感じた。それはただ思い出の密度が低いからそう錯覚しているのだろうことは理解している。変化のない日常の中で様々なことを思い、考えたが、その内容は頭の外に流れ落ちてしまった。きっとどうでもいいことばかり考えていたのだろう。
「さて、帰ろっか」
彼女はいつもどうりに私に声をかける。文化祭の前日だからか、忙しそうに何かをしているクラスメイトを横目に、私たちは帰路に就く。
「秋だね」
彼女は平坦な口調で言う。彼女の視線の先にある山の木々は色付き、今の季節が秋であると視覚から訴えてくる。
「意外と、綺麗だね」
それは、普段無意識に目の中に入ってくる景色だった。
「そうかな……よくわかんないや」
彼女はそう言って笑った。
私たちは近くの公園へと入り、備え付けられたベンチに腰掛ける。目の前の桜の木も例外ではなく、葉を赤や黄色に色付かせていた。
「やっぱ、ここが一番落ち着く」彼女は背もたれにもたれ掛かり、小さく伸びをした
「家は?」
「一人だと落ち着かないかな」
彼女は冷淡な双眸をどこか遠くへと向け、小さく呟いた。
「……そっか」
それ以上の言葉はかけられなかった。彼女の見ている世界を彼女以上の解像度で見ることは、誰にもできない。
文化祭の開会式が終わり、私は彼女と合流した。クラスの劇は昼すぎから始まる。それまでふらふらと校内を歩くことにした。
「盛り上がってるね」彼女は静観的な表情で言う。
「雰囲気は、嫌いじゃないかも」
中に入るのはともかく、外から楽しそうな空気を眺めているのは好きだった。
人が私たちの周りから消えていることに気付くころには、私たちは校舎の端まで歩てきていた。
彼女は「ふぅ」と小さく息を吐き、その場に座り込んだ。
「やだな、やっぱ合わないや」
「大丈夫?」
「別に、体調悪くなったわけじゃないよ」
彼女は口元を緩めて見せたが、目線はどこか遠くを見ているようだった。彼女は考え事をしている時、よくこの目をする。私は何も言わずに彼女の隣に座り込んだ。
クラスの劇はステージで行われた。私たちは端の方の席で劇を見ることにした。脚本は初見の物だったが、出来の悪さからしてオリジナルの物だろう。演技は頑張ってはいたが、褒めればいいのか貶せばいいのかわからないような、感想に困る演技だった。
「まあ、そこそこ」
「微妙」
校舎の端へと戻り、私たちは同時に口を開く。どうやら意見は一致したようだ。
「で、どうする?」
珍しく私の方から話題を振った。この後についてだ。
「残るよ、後夜祭」彼女は即答した。
「何かあったっけ?」
「キャンプファイヤー、どう?」
「いいね」
私はキャンプファイヤーというものを直接見たことがなかった。それはあと数時間ここで座っておく理由に十分成り得た。
彼女と過ごす時間はあっという間だ。一人でいるときはただ零れ落ち、誰にも認識されることのない私の思考も空虚ではないことを実感できる。結局、会話した内容も覚えてはいないけれど。
五時間が過ぎた。そろそろ火が上がる時間だろうということで、私たちは五時間ぶりに重い腰を上げた。
外は完全に日が落ちており、校舎の中もどことなく異様な、浮かれた雰囲気で満ちていた。
「少し、楽しいかも」
「そう?」
彼女は私の方に一瞬目を向ける。意見を求められているのだろう。
「まあ、新鮮さ、かもね。花火とも似たような感じ」
「そう……」
彼女は一瞬考えるような素振りを見せた後、そう呟いた。
短くも新鮮な移動を終え、グラウンドにたどり着く。街頭に集まる蠅のように、火のついてないキャンプファイヤーの周りに人が群がっている。私たちは何も言わずとも人気のない場所に移動し、火が付くのをじっと待った。
少し遠くから歓声が上がる。弾けるような音をたてながら、赤い炎がグラウンドの中央に立ち上り、煌めく火の粉を星空に舞い上げている。
「どう?」
彼女は顔を私の方に向けて話す。彼女は何かを見たり聞いたりすると、必ず私にそう尋ねる。
「綺麗」
私はその言葉を選んだ。どこか安心するような、暖かい美しさだった。
「そう……」
彼女は涼しげにそう言った。彼女の双眸はどこか遠く、キャンプファイヤーの向こうの星空を見ているような遠い目をしていた。
「……踊ろうか」
彼女は立ち上がり、唐突にそう言った。
「フォークダンスだよ、知ってる?」
「知識では」
「じゃあ」
その声と共に差し出された手に恐る恐る触れる。柔らかく、力を籠めれば折れてしまいそうなほど細い指が私の指に絡む。
引かれるがままに、腕を動かす。パチパチと音をたてながら焼ける木に合わせてステップを踏む。それが傍から見た時にダンスとして成立しているかは些細な問題だった。そこには彼女がいて、息遣いをも伝わる距離に私がいる。ただ二人きりの世界がそこにはあった。
「どう?」
彼女はいつもどうり私に尋ねる。
即答はできなかった。どこか気恥ずかしいような気がして、出かけた言葉が喉元で留まる。
「私はね、楽しいよ」
私が言葉に詰まっていると、彼女はそう言った。
「……私も」
絞るように言葉を紡ぎ、ゆっくりと俯いていた顔を持ち上げる。
彼女は笑っていた。年相応の、清々しい笑みだった。
今年の冬休みは彼女と過ごした。
と言っても、出かけたのは三度だけだ。クリスマスと初詣、そしてもう一日、特に何もない平日に、唐突に彼女から誘いが来た。
要件は伝えられなかったが、とりあえず指定された時刻に学校の最寄りの駅へと向かう。五日ぶりの電車はやけに新鮮に見え、ただ外を眺めながら時間を過ごした。
「おはよう、五日ぶり」
彼女は今日の気温に対して過剰とも思える防寒具を着ていた。それは周囲から少し浮いているように見えたが、その姿がやけに様になっているのは、単に彼女が美人だからだろうか。
「何? こっち見つめちゃって」
「いや……どこ行くのかなって」
「北、ずっと北」
彼女はあっさりと言い切った。北に行くということで、彼女の防寒具についての疑問はなくなったが、同時に新たな疑問も芽生える。
「ちょっと思い出があって」
彼女は私の考えることが分かったのか、聞く前に疑問に答える。
「そう……じゃあ、いこっか」
たとえどこに行こうと、私に異論はなかった。それは彼女とならどこに行っても楽しいだろうという一種の信頼のこもった感情だった。
二人で電車に乗り込み、空いた席に並んで座る。彼女はぼんやりと窓の外を眺めながら、ぼんやりとした表情を浮かべていた。それは初めて見る表情で、どこか儚げなように思えた。
電車に揺られている二時間の間、私たちは一言も会話をしなかった。居心地の悪さはないものの、特別無口というわけでは無い彼女が一言も話さないという事実で、今日の彼女はどこか違うと実感させられた。
だんだんと人の少なくなっていく電車の中、彼女は「次」と呟いた。窓の外に視線を向けながらではあったが、その声が私に向けられているというのは明確だった。
先に席を立った彼女に続いて電車を降りる。時代を感じさせる木の駅舎に、取ってつけられたように近代的な機械が置かれている。それに手元のカードをかざし、駅から出る。視界を包んだのは白色だった。一面の雪景色、画面越しにしか見たことのないような風景が目の前に広がっていた。
彼女はついて来いとばかりに一瞬こちらに視線を向け、無言で歩き出す。疑問は多いが心の中に留めておく。口に出すのは無粋だろう。
彼女は慣れた足取りで雪道を進む。雪化粧を施された古めかしい街並みはノスタルジックな雰囲気をまとっており、眺めているだけで一日過ごせそうなほど新鮮な景色だった。
彼女が立ち止まったのは、何でもない公園だった。近くのベンチの雪を払って、そこに腰掛ける。目の前には一本の木が佇んでいた。葉は全て落ち、雪をかぶった木。どこにでもあるような木を、彼女は見つめていた。ぼんやりとした表情を浮かべながら、どこか遠くを見つめるように。
私は木に見入る彼女の横顔を見つめていた。彼女は私の視線に気づいたのか、そのままの表情を私の方に向ける。
「どう?」
彼女はいつもどうり、私に問いかける。
「綺麗でしょ?」
いつもどうりなんかではなかった。彼女は同意を求めるように私の目を見つめた後、すぐにその視線を逸らした。
「まあ、だよね」
彼女は自嘲的に呟く。
彼女は立ち上がり、コートを脱ぎ捨てて目の前の木に近づいていく。十分近づくと、彼女は確かめるように木の幹に触れた。
「綺麗だったんだよ」
風で揺れる髪が振り返った彼女の穏やかな表情を一瞬覆い隠す。果てもなく立ち込めた灰色の空の下、葉の落ち切った木の隣に少女が一人。その光景は絵画のように完成されており、私はそれにどうしようもなく引き込まれていた。
「見ててね」
瞬きをした一瞬、視界の中央に黒々とした赤が浮かぶ。その位置は彼女の腹部と重なっていた。数秒、時間が凍り付いたように世界が動きを止める。唯一動いているのは赤色のみ。
私は立ち上がる。混乱した頭の中、本能的に体が動く。数歩、それだけで彼女との距離は目前まで詰まっている。彼女の方に手を伸ばしかけるも、その手は空を切る。
ふと、重さが正面からのしかかる。踏ん張ろうとした足は言う事を聞かず、つつかれたドミノのように簡単に後ろに倒れ込む。重さはそのままだ。小さな笑い声が耳元から聞こえる。
「どう?」
笑い声の正体が絞り出すように声を出す。息遣いすら聞こえてくるような距離で、彼女は優しく問う。だんだんと彼女の力が抜けていくのがまじかに感じられた。重なった腹部には何か温かいものが触れる。それはきっと彼女の生命の証であり、彼女がどうしようもなく執心していたものの正体なのだろう。そう考えると緊張しきった精神が緩み、張った筋肉が緩むのを感じる。
安心しきると、この状況ですら心地よく感じられた。
目を閉じる。悲鳴が聞こえる。遠ざかる。遠ざかる。
大人から様々なことを聞かれた。ぼんやりとした思考の中、起きたことを淡々と話す。何度も、聞かれるたびに答えた。
話の雰囲気から推測するに、彼女は生きているようだ。
訪れた医者は、私の身体に異常はないと言っていた。
話をしなければいけない。私の思考を支配したのは単純な使命感だった。おぼつかない足取りでベッドを降りる。カウンターのような場所に行き、彼女の名前を伝える。
結果として、彼女と会うこと自体は思いの外簡単にできた。しかし彼女は眠ったままで、一向に起きる気配を見せなかった。私はしばらくベッドの脇に座り、彼女を眺めていた。そうしていると、あの木の下での出来事がまざまざと脳裏に浮かぶ。あの時見た彼女の表情、動き、声、全てがベッドで眠る彼女に重なって見えた。あの赤色さえも。そんな考えをする自分が怖くなった。自分はすでに赤色に魅入られているんじゃないかと思うと、もうこの場に留まることができず、私は逃げるように病室を抜け出した。
翌日、懲りずに彼女の病室に向かう。彼女は何事もなかったように体を起こし、涼しげにこちらを見た。
「……ごめん」
永遠に続くかのような沈黙を破り、彼女が口を開いた。
「君は、あの子に似てて、違うのに」
それは悔いるような、どこか遠く、それこそ彼女が言うあの子に向けた言葉だった。彼女の声は震えている。
「そう……」
口から出たのはそんな言葉だった。気の利いた言葉も優しい言葉も、思いついた全ての言葉が嘘のように感じた。
再び沈黙が世界を包む。眺めた窓の外には雪が舞っており、画面の中のような世界がガラス越しに見えた。それは何が違うのだろう。ちょっとした違和感だった。
「でも、ちょっとすっきりした」
そう言った彼女は付き物が落ちたような表情をしていた。
「うん、深くは聞かない」
それでいい。他人の気落ちを理解するのは不可能だ。彼女がいいならそれでいい。それが私の精一杯考えた言葉だった。
「で、次はどこに行くの?」
「やっぱ似てる」
彼女は笑っていた。彼女のほほを伝う涙も、こんなにも気持ちよく笑う彼女も、全てが始めて見る、彼女の等身大の少女の姿に見えた。
「その子、私の目の前で死んでね。それがきれいだったっていうか、まあ、そんな感じ。……あの子の気持ち、一瞬分かった気がしたんだけどね」
青空の下、私の隣に座る彼女は笑いながら話す。まだ肌寒さの残る季節ではあるが、だからこそ日光が心地よく感じられた。
「違った。私、そもそも死ぬつもりはなかったから。……あの子は心臓を刺した」
彼女は私が求めずとも自身の気持ちを語ってくれた。目の前で友達が自殺し、それが美しく見えたこと。赤色に心を打たれ、その光景以外が陳腐に見えるようになったこと。そして、彼女は共感者を求めていたこと。
「仲間が欲しいなら、自分が死ぬことはないもんね。ほんと、わかんないや」
そう語る彼女は頭上にも負けずとも劣らずの晴れやかな表情をしていた。「君はあの子とは違う。でも君といると、どこに行っても楽しかった」そう彼女は言っていた。私をその子と同一視していた彼女は、今回の件ではっきり別物だと認識し、それでもいいと言った。むしろ私のほうが良いと、彼女は自分勝手に語る。
静かな台所に立ち、包丁をふるう。今日は家に誰もいないので、夕食はカップ麺で済ませる予定だったが、何の気の迷いか料理がしたくなった。
「……っ」
案の定失敗する。食材を切ったはずの包丁は指に掠り、視界に赤黒い液体が混入する。だんだんと膨らんでいく血の粒をただ眺めていた。誰も気づかない、私だけの傷。それはまるで光の粒のように眩く浮かんでいた。
人差し指に浮かんだ血の粒を親指で磨り潰し、指に血が拡散する。
浮かぶ。あの日の雪に彩られた木が。彼女からあふれる赤色と、それに付随する体温が。
その時、自分の中でどこか納得がいってしまった。
「罰?」
「……同義じゃない?」
昼休み、教室の隅で彼女と話す。周囲と乖離した、私たちだけの空間。
「うーん……やっぱ、人それぞれなんじゃない? 捉え方」
彼女は私があの光景に何も感じず、普通の感覚で生きていると考えているだろう。だからこそ彼女の言うあの子と別物として認識できるのだろう。
「あなたにとっては?」
「許し」
「なるほど……」
だからこそ言えない。私が同じだと知った彼女はどうなるのだろう。彼女が認めた私との乖離が起こるのだろうか、それとも単純に喜ぶのだろうか。
「私は、みつ」
「ずるだよ、それ」
彼女は静かに笑う。つられて私も笑う。この時間を壊したくないからこそ、囚われた本心は隠しておくことに決めた。
彼女の隣に座り、心地の良い日差しを浴びる。見上げた先にあるはずの空を淡く咲いた桜が覆い隠し、何処か幻想的な春の景色を演出している。
彼女はそれをぼんやりと見つめていた。それはあの冬の日と同じ表情だった。あの時と違うのは時折顔をこちらに向け、穏やかに微笑んでいることだ。
私はというものの、微笑む彼女を横目に桜に見入っていた。彼女の表情の理由もわかる気がした。
家に持って帰った桜の花びらを自分の血に浸し、口に運んだ。鉄の味がする。
私は何をしているのだろう。
夏になった。半袖は着れない。
今年の夏はどこに行くこともなかった。もうどこに行く必要もない。そう彼女が結論を出したからだ。私がどこかに行きたいと言えば、きっと彼女も付いて来てくれるだろう。だがその必要はない。
ただ彼女と一緒に居た。
秋になった。今年は積極的ではないにしろ、文化祭の準備にも参加した。私は何も変わっていない。周囲が少し優しくなったのだろう。
あまり楽しくはなかった。
冬になった。
「冬桜が見たい」私はそう言った。彼女は快く了承し、案内するとも言ってくれた。
電車に乗って、北へと進む。観光地などの栽培種を見るつもりで来たが、どうやら野生種を見に行くらしい。外の景色を眺めながら、私たちはぽつぽつと会話をした。心地よい沈黙と電車の揺れに吞まれ、私の意識は沈んでいった。
彼女に起こされ、駅へと降りる。ぼんやりとした頭を冷たい空気が洗っていく。彼女に手を引かれながら深く積もる雪を踏みつけ、寂れたバス停の前に立ち止まる。バスの時刻表を確認した後、彼女と顔を合わせて苦笑いをした。
仕方がなく何とか形を保っているベンチに腰を掛け、白く彩られた景色を眺める。
「あっちの方」
彼女が指さした方面には雪に彩られた山がどこまでも続いており、それに沿って道路も続いていた。
「遠いね」
「別に、問題ないでしょ?」
返事の代わりに一瞬彼女と目を合わせ、景色に視線を戻す。視界の雪は量を増し、視界を包んだ。
人気のないバスに30分ほど揺られ、終点までたどり着いた。そこは、なぜバスが通っているかもわからないような僻地で、運転手の人は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「雪、強いね。どうする?」
「行く」
即答だった。目的地はバスの窓から一瞬見えている。あの桜は既に私の思考を覆いつくした。
少し冷えた体を動かし、白色の地面に少しづつ足跡を刻む。並び立つ木々を躱し、定めた方角を見失わないように淡々と進む。風が冷たい。
どれだけ経っただろうか、私たちは小さな小屋にたどり着いた。
「少し休んでいこうか」
という彼女の一言もあり、しばらく休んでくことにした。
私たちは出入口であろうドアが開かないことを確認した後。窓から中を覗き込む。昭和の風景をそのまま持ってきたような古風な土間には乱雑に物が置かれていて、人の気配はない。
彼女と顔を合わせ、同時にうなずくと、私はドアを蹴破った。
震える手で燃えそうなものを片っ端から集め、火をつける。彼女はほっとしたような表情で火に当たっている。
「さて、どうする?」
彼女は確かめるように言う。
「とりあえず、今日はここで」
窓の外から見える外の空は少しずつ赤らんでいる。日が沈む。体力的にも、今日はこれ以上歩けないだろう。
「ねえ、大丈夫?」
「うん」
腰を下ろすとどっと疲れが押し寄せてきた。眠気と疲労感に体を任せ、どこまでも沈んでいく。最後に考えたのは、バスの窓から一瞬見えた桜だった。
靄のかかった思考は倦怠感に支配されている。目覚めるのを拒否している脳を叩き起こし、視界を確保する。
石で固められた地面には炭と青白い彼女が転がっている。窓の外の雪が視界に入ると、思い出したように体が寒さに包まれた。
行かなきゃ。
目的を思い出す。
震える体を動かし立ち上がる。
彼女はまだ眠っているようだった。
仕方がないので背負っていくことにした。
目指すべき場所は感覚で分かった。身体も、彼女も重い。
歩いた。
歩いた。
重い。なんで背負っているのだろう。
「紗季ちゃん……」
呼ばれた気がした。ああ、彼女だ。思い出した。
目的を再確認する。進まなくては。
桜の花びらが視界に入る。美麗なそれは風に舞い、雪の中に差し込む光芒のようだった。途端に体の不快感が消えていく。歩ける。
私は彼女が妬ましかった。一人で感情に蹴りを付けて、私のことは考慮せず。二人だけど、一人で、私じゃない何かを見ているようで。ずるいと、思ってしまった。憧れかもしれない。
しかし、彼女に対する表向きの感情も本物だった。一緒に居ると楽しいのも、壊したくないのも。
……だから。精一杯の、愛を。
目の前には桜が群生している。ふわふわとした感覚も相まって、幻とも思える光景だった。風に吹かれて散る花弁は雪と混じり、頭上に降り注いだ。
芯の抜けた彼女を支えながら、正面から向き合う。
「ねえ、雪乃ちゃん」
彼女は目を開けない。そんなことは関係なかった。
「着いたよ、次はどこに行く?」
彼女は何も答えない。そんなことは関係ない。
「私はもう、難しいかも」
彼女は雪のように冷たかった。関係ない。
「……ねえ」
崩れていく思考の中、ただ彼女に話しかける。
暑い。コートを脱ぎ捨てた。
透明だ。体が感じていた不快感は消え去り、頭の中にはもう何もない。
どこまでも気分がいい。彼女と、私がいる。……今なら。
「…………」
声にならない言葉を口にした。
世界で一番 霜降十月 @apdgpennam
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