黄昏時のオリフィス
家に帰るまでが遠足です。
だから、わたしは何度でも巻き戻す。最後にしあわせだった一日を。
「ねえ! あのひこーき雲って、追っかけっこしてるみたいじゃない?」
ポニーテールを元気よく揺らしながら蘭が指さした、夕焼けに染められていく空。二筋の白線がぐんぐん伸びていく。
二機の自衛隊の哨戒機がランデブーしていただけだったけれど。子どもの目にはそう見えていたんだ。
二つにくくったおさげの舞も、「ほんとだー」とほんわか言って、わたしたちは誰が言い出すともなく、飛行機雲を追いかける。いつもの帰り道、西日に照らされる川沿いの遊歩道を、お揃いのスニーカーで駆けていく。
クラスで一番体育が得意な蘭が先頭を走る。ポニーテールを右左に跳ねさせて、時折空を走る雲を見上げる。遠足帰りだというのに元気そのものだった。
にこにこしながら蘭を追いかける舞。遠足に着ていくTシャツをお揃いにしよう、と言い出したのは舞だった。
蘭と、舞と、わたし。4年生まで、3人とも同じクラス。背の順もほとんど仲良く順番。
学校でも休みの日でも、何をするの3人いっしょだった。
夕日に染まる二人の背中が遠ざかるのを疲れた足で追いかけながら、わたしは、学校で解散する前に先生が言ったことを思い出していた。
おうちに帰るまでが遠足です。
だから、このまま3人がばいばい、また明日、と家に帰らなければ。
黄昏時の遊歩道のかけっこが永遠に終わらなければ。
この遠足は終わらない。
ずっと、仲良し3人でいられる。
この先の変化は、いらない。
進級して、同じ男の子を好きになることも。
蘭が抜け駆けをしてその子とつきあって、舞がおかしくなることも。
学校に舞がこなくなって、蘭がいじめられることも。
二人が離れていくのを、何も出来ず黙って見ていることしかできなかった、わたしも。
一人だけ生き続けて、みじめな思いをして年を重ねていくことも。
だから、わたしは巻き戻す。何度でも。
笑いあう二人の背中が小さくなると、わたしはハーフパンツのポケットから金色の砂時計を取り出した。中のきらきら光る砂を止めているストッパーを外して、一回転させる。
硝子のくびれ――蜂の腰を通って、きらめく砂粒が流れ落ち、
セピア色に染まる、わたしの幸福が動きを止め、巻き戻る。
「ねえ! あのひこーき雲って、追っかけっこしてるみたいじゃない?」
ポニーテールを元気よく揺らしながら蘭が指さした、夕焼けに染められていく空。二筋の白線がぐんぐん伸びていく。
――ある日この砂時計を手に入れて、何度も遠足の後の出来事を変えようとした。でもダメだった。
抜け駆けをしたのが舞になったり、蘭が屋上から飛び降りたりしただけだった。
だから、わたしは諦めた。何度も繰り返して、最後に幸福だった光景を繰り返す。
二つにくくったおさげの舞も、「ほんとだー」とほんわか言って、わたしたちは誰が言い出すともなく、飛行機雲を追いかけていつもの帰り道、西日に照らされる川沿いの遊歩道を駆けだしていた。
夕日に染まる二人の背中が遠ざかるのを疲れた足で追いかけながら、わたしは、学校で解散する前に先生が言ったことを思い出していた。
おうちに帰るまでが遠足です。
だから、このまま3人がばいばい、また明日、と家に帰らなければ、
「――そうやって、いつまでも過去に浸ってるつもり?」
まだ時計をひっくり返していないのに、景色が固まった。
冷たく厳しい声だった。
その声の主は、黒くて、白かった。
夕日を拒むような黒い髪と、輝くような白いパーカーとプリーツスカート。
セピア色の中に浮かび上がる、異質なモノクロの、高校生くらいの少女。
引き締められた美貌の中で、そこだけが赤い瞳が、小学生の姿をしたわたしを見つめている。
咎めるように。裁くように。
背筋に冷水を浴びせられたようだった。本能的に分かった。
この人は、砂時計を壊しに来たんだ。ささやかな幸せを繰り返すわたしの永遠を、終らせに来たんだ。
「だったら、何がいけないの。わたしたち3人、一緒にいられた時間はこのときが最後だったの。わたしの人生、このときから先はいいことなんてなかった……だから、この砂時計を使って巻き戻して、繰り返す。それの何がいけないの!? あなたに、何がわかるの!?」
叫んでいた。砂時計を両手で庇って後退りする。
「何もいいことがなかった?
それを決めるのはあなたじゃない。
あなたと未来で出会う人よ。
ええ、分からないわね。
少なくとも、せっかく未来があるのに目を背けて後戻りしかしないあなたの気持ちは、
分かりたくないわ」
冷たい刃物のような声だった。わたしは嫌々をするように頭を振る。それなのにまっすぐ見つめてくる赤い瞳から逃げられない。
わたしは必死に、何度も砂時計をひっくり返した。わたしの過去に紛れ込んだ黒白の彼女から逃れるために。けれども、常に決まって遠足の日の朝まで戻してくれていた輝く砂が下に落ちていかない。それどころか、硝子のくびれたところがひび割れ、砂のきらめきが漏れ出していく。
「ウソ……どうして……」
狼狽え、固まったセピア色の風景を見る。砂のお城が波に崩れていくみたいに、見慣れた通学路が儚く消え失せていく。
「その砂時計の使用限界が来たわ」
彼女の言葉が意味するところは分からない。けれど、砂時計を握りしめるわたしの手が、指先から細かい粒になって風に飛ばされていくのを見て、声にならない叫びが出た。
「時間がないわ。悪いけれど、選んで。このまま過去の時間と一緒に消えるか。どんな形であろうと未来を生きていくか」
いつの間にすぐそばまで来ていた彼女が、そっと囁いて、右手を差し出す。
思ったよりも小さい手の平。
巻き戻す砂時計と、わたしを連れ戻す手。
手の中のそれと、目の前のそれ。
選びたくなくて、蘭と舞のいる時間から離れたくなくて、でも本当は分かってて、わたしは目をつぶって――自分の手に任せた。
一方を手放して、一方を掴む。
――ごめん、蘭、舞。でも、忘れないからね。
さく、と。何か柔らかいものを切るような音がして――わたしの意識は途切れた。
目が覚めると、小学生の私の娘が泣きながら抱き着いてきた。
数日眠り続けていたらしい。
あれが全て夢だったとは、私には思えない。
確かに私は、この腕の中の娘を――小学生だったわたしには想像もつかなかった未来を、希望を一度捨てて、遠い過去に逃げて、巻き戻したのだ。
ごめんね、と何度も言って、娘のぬくもりを精いっぱい抱きしめた。
蘭と舞。二人のことは、忘れてはいない。けれど、今はそれだけじゃないんだ。
そして、名前も知らない黒白の少女に感謝して。
私は生きていこうと思った。巻き戻らない時間を。
黄昏時の砂時計 地崎守 晶 @kararu11
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