アリとキリギリスの道は交わらない

間川 レイ

第1話

 0.

「ねえ、そこのお嬢さん。名前を教えてよ。」


「……。そうね、私は『アリ』よ。毎日せっせと生きるために働くちっぽけなアリ。」


「あはは!そりゃいいね!じゃあ、あたしは『キリギリス』だ。歌うしか能のない、一匹の夢見る哀れなキリギリスだ」


 1.

「アリ」は、小さなころから優等生でした。お父さんやお母さんのいうことはしっかり守りますし、先生の言いつけにだって一度も背いたこともありません。宿題を忘れたことだってありませんし、日々の勉強だって自ら進んで行います。クラスでは皆がやりたがらない学級委員にだって率先してなりましたし、合唱コンクールや文化祭だって、時にはさぼろうとする級友を叱咤激励しつつ、成功へと導いてきました。


 それを見た周りの大人たちは言います。「アリ」はなんとできた子なのでしょう。これは将来が楽しみだ。君たちも「アリ」を見習いなさい。


 そんな称賛の声を受けても、「アリ」は決して驕り高ぶりませんでした。むしろ、その称賛の声に応えるように、周囲の期待を力にするように、日々頑張り続けました。それは、「アリ」が中学、高校に入っても変わりませんでした。誰もが口々に言います。「アリ」は本当にできた子だ。行く末は博士か総理大臣か。「アリ」が娘なら親御さんも鼻が高いだろう。


 称賛の声は日々高まるばかり。それでもやっぱり「アリ」は懸命に努力を続けます。決して図に乗ったりなんていたしません。周囲の友人がたまには遊んだら、などといってもいつも黙って首を横に振るばかり。「私、ちょっとやることがあるから。」それが「アリ」の口癖。「アリ」の友人も彼女のそんな性分は知っていますから、しょうがないなといつだって肩をすくめるばかりです。


 そんな努力屋さんの彼女は、努力の甲斐あって有名な大学への進学を果たします。それこそ、名前を出せば多くの人が、「ああ、あそこか!」と思わず羨望の声を上げるような、立派な大学です。


 そこでも彼女は頑張りました。授業の予習復習は欠かさず行いますし、授業の前後に毎日のように教授に質問する「アリ」の姿は一種の風物詩といっても差し支えの無い程でした。ゼミではゼミ長を務め、いつだって議論を牽引してきましたし、定期試験もしっかりと対策をこなし、評価は優ばかり。大学に入った途端やる気をなくしたり、急速に失速する学生もいる中で、彼女の頑張り屋さんぶりは、ひときわ群を抜いていました。やはり彼女は将来大学院に入り、名だたる業績を上げ、あるいはひょっとしたら歴史に名を遺すような偉大な発見をするかもしれない、なんて。彼女を知るものは冗談半分、期待半分に語り合いました。


 だからこそ、彼女が大学院に進学しないらしいとのうわさが広がった時は誰もがびっくりしましたし、ましてや、彼女が中堅どころの、知る人ぞ知ると言ったクラスのIT企業への就職を決めたときは誰もが不思議がったものです。もっといいところにだって就職できただろうに、いったい何故?と。「アリ」は黙って微笑むばかりで、その質問には決して答えませんでした。


 2.

「キリギリス」は、小さなころから歌を歌うのが大好きでした。なぜ、歌がそんなにも好きになったのか。それは「キリギリス」でさえもう、覚えていません。ですが、本当に歌が好きで好きで仕方がなかったことだけは覚えています。暇さえあれば「キリギリス」は歌っていました。お風呂の中、トイレの中、それこそ食事中や家族でどこかに車でお出かけするときだって。


 あまりにいつでも歌ってばかりいるものですから、「うるさい!」と家族から怒られることだってしばしば。怒られればすぐにシュンとなって歌うのをやめるのですが、根っこの歌いたい気持ちは誰にだって抑えることなんてできません。数分もすれば、つい先ほど怒られたのが嘘のように元気いっぱいに歌いだします。家族もしばしば注意はしていたのですが、あまりにも「キリギリス」が楽しそうに歌を歌うものですから、見ている周りまでなんだか楽しくなってきて、しまいには注意するのも随分と減ってしまいました。


 そして、「キリギリス」には音楽の天賦の才があるようでした。ピアノを習わせてみれば見事に弾きこなしますし、ギターやバイオリンだって見事に奏でることができます。それでも、キリギリスが一番好きなのは歌でした。そして歌こそ、「キリギリス」の才能の最たるものでした。「キリギリス」が弾き語りをするとき、誰もがうっとりと耳をそばだてたものです。


 そんなにも音楽が、歌が大好きな「キリギリス」。そんな「キリギリス」は当然のように、歌手を目指すようになりました。私の歌声をいろんな人のもとに届けたい。私の歌声でいろんな人を元気づけたい。そんな思いもありました。勿論、心の奥底にあるのは、歌が好きだからということでしたが。


 当初、「キリギリス」の両親は娘のその夢を聞いたとき、それはそれは猛反対しました。確かに娘には音楽の才能があることは両親だって知っています。だからと言って、その道で食べていけるかと言われれば話は別です。だからこそ、「キリギリス」の親御さんは言葉を尽くして説得しました。今からでも遅くはない、考え直せ。ですが「キリギリス」の歌手になりたいという思いはあまりに強固でした。強固に過ぎました。それこそ、夢をかなえられない人生に意味などない。そう涙ながらに語るぐらいには。


 その「キリギリス」の剣幕に両親はついに根負けしました。もしこのまま「キリギリス」の夢を妨げていては、本当に自害するかもしれない。そう秘かに危機感を募らせたからでもあります。


「キリギリス」は念願かない、音楽学校に通うことができました。それこそ、名門と名高い、この国に住まうものならだれでも名前ぐらいは知っているような有名な音楽学校です。


 ですが、そこでの生活は「キリギリス」にとって期待外れでした。厳しい学則、厳しい上下関係もさることながら、学べるのはオペラや合唱等お堅いものばかり。ポップな歌詞に慣れ親しみ、ポップな歌詞の作り方を学びたがっていた「キリギリス」にとって、そこはあまりに窮屈でした。それでも、最初の内は我慢して勉強を積み重ねていきました。いつかこの経験が将来の歌手デビューに役に立つ日が来ると信じて。それに、さんざん親にねだってこの学校に通わせてもらいながら、方向性が違うなどという理由でこの学校を去ることなど許されない。そんな良識も彼女にはありました。


 だから、「キリギリス」は頑張ります。来る日も来る日もボイストレーニングに励み、難しい技法に取り組みます。それが夢につながる唯一の方法と信じて。


 でもある日、「キリギリス」は歌が歌えなくなっていることに気づきます。以前ほど歌を楽しく歌えなくなっていることに。思っているような声も出せません。「キリギリス」は悟りました。ああ、私はここでやっていくことはできない。そう、理解した「キリギリス」は、ありったけのお金をもって、寮を出ました。両親にも、友人にも、その行方を告げることなく。


 3.


「アリ」と「キリギリス」が出会ったのはそれから数年後のことでした。何時もの激務に、身も心もくたくたにした「アリ」。終わりのない残業に、厳しい指導。昼休みなんてものはありませんし、中休みなんてものも当然ありません。いつだって体は鉛のように重かったですし、心の内には、泥のように冷たく濁った疲労感がひしひしとたまっていきます。


 何とか時間を工面して睡眠時間を増やしても疲労は回復することなく、頭の中はぼんやり曇っている、そんな毎日。そんな毎日を歩んでいた「アリ」は、会社からの帰り道、ふと澄んだ歌声を耳にします。その歌声は、まるでガラスのように澄んでいながら、その奥底にどことなく悲しみをはらんだような、そんなどこまでも透き通った歌声は、疲れ切った「アリ」の心を微かに揺さぶりました。


 そして、その歌声に誘われるように人波を逆行し路地裏を通り、橋を渡ってたどり着いた先にいたのが「キリギリス」でした。「キリギリス」は独りぼっちで歌っていました。せわしなくサラリーマンたちの作る流れのたもとで、一人寂しく歌っていました。そんな「キリギリス」を「アリ」は見ていました。最後の一曲まで歌い終わり、誰も彼女を気にも留めない大河へ向かい一礼して去るその背中を、何も言わずにずっとずっと眺めていました。


 翌日も、その翌日も「アリ」は昨日の彼女―「キリギリス」のもとへ向かいました。そして彼女はいました。誰も自分の歌に足を止めることがなくても、彼女は、「キリギリス」は一人寂しく歌っていました。そして、ほとんどおひねりの入っていないギターケースを担いで帰るその背中を、「アリ」は黙って見送っておりました。


 そんな日が何日続いたでしょう。何時ものようにギターケースを担ぎなおした彼女―「キリギリス」はぽつりと言いました。まるで呟くように。歌うように。


「ほんとは、こういうのあんまり良くないんだけどさ。」


「ねえ、そこのお嬢さん。名前を教えてよ。」


 4.

「アリ」と「キリギリス」はそれからぽつりぽつりと話すようになりました。話すといってもがっつり話すわけではありません。橋の欄干にもたれかかり、「アリ」はエナジードリンクを、「キリギリス」は煙草をもてあそびながら話すだけ。それでも、二人は多くのことを話しました。これまでの半生。今の仕事がつらいこと。歌えるようにはなっても夢に届かないことがつらいこと。


 様々な事を話しました。それはなんて事の無い日常の一幕。ほんの些細な触れ合いでしたが、それは日々の激務に心身を酷使された「アリ」にとって、蜜のように甘い時間でした。


 また、「キリギリス」がいい聞き手であったこともあるかも知れません。「キリギリス」は適切なタイミングで分かる、分かると相槌を打ち、適宜当意即妙な返事を返してくれました。それは、話しているだけで胃の底から痛くなってくるような会社の上司との会話や、この苦しみを訴えてもまるで理解してくれない両親との会話とはまるで違っていました。何時しか、「アリ」は「キリギリス」と会うことを楽しみにするようになりました。


 そうやって、来る日も来る日も橋のたもとで会っては黙って歌を聞き、歌い終われば話をするそんな毎日。観客は、いつだって「アリ」1人でした。「アリ」1人きりでした。それでも「キリギリス」は毎日のようにやって来ては歌います。何処までも澄んだ歌声で、どことない悲しみを乗せて。それは風がだんだん冷たくなってきてからも変わりませんでした。


「アリ」は、そんな「キリギリス」を応援しておりました。いつか「キリギリス」の良さを分かってくれる人も現れるはず。そう信じて。でも、いつも観客は「アリ」1人きり。そんな日々が続くうち、「アリ」のうちにある思いがふつふつと湧いてくるようになりました。


 5.

 その日はいよいよ冬も近づき、夜風が骨にしみ入るほど寒い日でした。いつもの様に一人きりのコンサートを楽しんだ後、二言三言言葉を交わします。


 ふと、ポツリと「アリ」はいいます。


「ねえ、あなた。『いつまでも夢を追って』とは思わないの?悪いけどあなた、その生き方に先はないわよ。」


 言ってしまってから「アリ」は、すぐにしまったと思いました。明らかに踏み込みすぎの発言です。所詮、話すようになったとはいえ「アリ」と「キリギリス」は本名すら知らぬ赤の他人。他人が踏み込んでいい領域ではありませんでした。「アリ」は「キリギリス」を怒らせてしまったのでは無いかと思わず顔色を伺います。


 果たして「キリギリス」は怒りませんでした。


「キリギリス」はその歌声と同じぐらい儚い笑顔を浮かべると「わかってるよ。」と呟きました。


「わかってるんだ。」


「キリギリス」は繰り返します。


「だったら……!」


「アリ」は思わず声を荒らげます。「アリ」は、「キリギリス」の歌声が大好きでした。ですが、今の現状をみるに、「キリギリス」がプロに慣れる可能性はありません。何せ、固定の観客と言えば「アリ」ぐらいしか居ないのですから。今はまだ本格的な冬が来ていないからまだいいでしょう。ですがもっと寒くなれば、薄手の服しか持たず、その日のご飯が食べられるかも怪しい「キリギリス」がこの冬を越せるとは思えませんでした。それこそ童話のキリギリスの様に。


「アリ」は「キリギリス」の歌声が大好きでした。そんな「キリギリス」がこんな所で無惨に野垂れ死ぬというのは耐えられません。それに、最近「アリ」は「キリギリス」を見ていると奇妙にムカムカしたものを感じるのです。「キリギリス」だってこの生活の先に未来はないことは分かっているのに、どうしてそんな生活を続けるのかと。もしや気づいていないのかと思わず零せば、明らかに「キリギリス」も限界に気がついている様子。


「アリ」は我慢の限界でした。現実に気づいていながら、なぜそれでも夢を追おうとするのか。なぜ諦めないのか。「アリ」には理解できません。だからこそ、さらに言い募ろうとして、片手をあげた「キリギリス」にその先を制されました。


「キリギリス」は言います。


「君の言いたいことは分かるよ。」


 と、ポツリと。


「そう、夢を追い続けることができるのは期間限定なんだ。その期間を過ぎたら誰しもが現実と折り合いをつけなければならなくなる。」


「その点いつまでたっても夢を追い続けているあたしはどこがおかしいんだろう。」


「でもね。」


 自嘲するようにキリギリスは小さく笑うと続けます。


「その期間を過ぎたって夢を追い続けることはできるんだ。」


 そう、呟くように続けます。


「その代わりに何かを犠牲にしてね。あたしは夢を追うためにいろんなものを切り捨ててきた。もう私には夢を追うこと以外残っていないんだよ。」


 そう笑顔で言ってのける「キリギリス」。表情こそ笑顔そのものでしたが、「アリ」にはその笑顔はとても空虚なものに見えました。やはり彼女は。「アリ」は内心歯噛みします。やはり彼女は夢を諦めて現実を見るべきです。現実に即さない夢など見ても、虚しいだけなのですから。それに、「キリギリス」がここで死ぬのはあまりに勿体ない。だからこそ「アリ」は何とかして翻意させようと口を開きます。


「そんなこと……」


「無いって言えるかい?」


 ですが、鋭く切り返した「キリギリス」。その語気の強さに思わず「アリ」は口をつぐみます。そこで「キリギリス」はふっと表情を和らげると微笑んでいいます。何かを見透かすような目をして。


「それに、あたしには夢をあきらめて現実と折り合いをつけた先にあるのが幸せかどうかなんてわからないんだ。」


 ドキリ、と「アリ」の心臓が嫌な音を立てて飛び跳ねます。汗が額をつたい、息が荒れそうになるのを必死に抑えます。声が振るえないように細心の注意をはらいつつ、「アリ」はいいます。


「どうして?」


「キリギリス」は小さく微笑みます。その程度の欺瞞はお見通しだぞというように。


「あんたを見てるとさ。あんたはずっと周りの期待に応えて生きてきたんだろう。」


 ドキリ。再度心臓が飛び跳ねます。


「それでいてずっと堅実に人生を生きてきた。夢なんて見ずに。何がしたいかではなくて、今の自分に何が出来るかだけを考えて。」


 ドキリドキリ。心臓が五月蝿くはね回ります。煩い、私にだって夢はあった。そう言おうとするも、口の中が乾いて言葉が出てきません。


「あんたはあたしに現実を見ろっていう。違うね、あんたは夢を見れないんだ。だから夢を見て生きるあたしに苛立っている。違うかい?」


「違う」


 そう言おうとして、やはり言葉は出てきませんでした。「アリ」は内心歯を噛み締めます。だってそれは図星だったから。


 それは誰にも言ったことの無い「アリ」の本心でした。


「アリ」はずっと誰かの期待に沿って生きてきたのです。夢なんて見ずに、何をしたいがではなくて、何ができるかを選び続ける人生でした。


 つまらないとは言わないけど、大きな喜びもない人生。冒険をするよりは、と自分の実力で余裕で入れそうな企業に就職し、結果として社会の歯車としてすりつぶされつつある自分。そんな自分にとって、夢を追い続ける「キリギリス」の姿は眩しくもあり、疎ましくもありました。


 自らが到底なれない生き方を、まざまざと見せつけられる感覚。それは、酷く苦痛でした。確かに「キリギリス」の歌声は大好きです。プロとしてデビューして欲しいと願う気持ちも本物です。でも一方で、夢を見たのが間違いだったと、夢見る愚かしさを自覚する「キリギリス」を見てみたかったのもまた事実。そうしてはじめて、現実的な選択肢を選び続けた自分自身の正しさは証明されるのですから。


 そう、「アリ」が「キリギリス」に現実を見なよとアドバイスしたのはそんな下心もあったから。自分自身見ないようにしていた内心をすっかり見透かされた「アリ」は黙り込んでしまいました。


 そんな「アリ」を見てやっぱりというように頷くと、「キリギリス」は続けます。


「そんなあんたは幸せそうには見えないな。」


「だったらどうしろって言うのよ。」


「アリ」の声はすでに涙声でした。もう、プライドなんてあったものではありません。そして、本当に分からなかったのです。自分は一体どうすれば良かったのか、と。だからこそ重ねて問います。


「夢を追っても幸せにはなれない。現実を見ても幸せにはなれない。だったらどうすればよかったのよ。」


 ですが「キリギリス」はピシャリと答えます。


「知るもんか。」


「あたしは『キリギリス』だ。夢を追って追って追いかけて、追いきれなくなったらそこで死ぬだけさ。」


 そう、1分の迷いも見せずにいい切った「キリギリス」。やはり、その姿は憎たらしいぐらい眩く見えました。


「だったら私もつれてってよ。」


「アリ」の顔は涙でぐしゃぐしゃでした。自分がめちゃくちゃなことを言っていることを「アリ」だって自覚しています。歌声に惹かれながらも内心見下して、それでいてその心中を見透かされれば、私も連れて行けだなんて。


 それでも、「アリ」から見て「キリギリス」の生き様は本当に眩しかったのです。夢を追って、追って、追いぬいて、叶わなければそこで死ぬという価値観は、一筋の雷光のごとく映りました。そんな生き方もあるだなんて。


 それに、死ねばもうこれ以上頑張らなくていいのです。終わりのない残業に苦しむ日々も、厳しい叱責に怯える日々も終わりを告げるのです。それはたまらなく魅力的に映りました。


 だから、「アリ」は必死に口にします。ごめんなさい、さっきの態度は謝るから。お願いだから私も連れて行って。


 ですが、


「やめときな。」


「キリギリス」は苦笑すると煙草のパッケージを「アリ」に押し付けながら言います。


「アリはキリギリスにはなれないよ。キリギリスがアリになれないように。」


 そしてそのまま「キリギリス」はギターケースを背負いなおすと、立ち去り間際、ふとポツリと言います。


「あたしはね、ずっと『アリ』に憧れてたんだ。夢なんて、見なくて済むなら見ない方がいい。現実と折り合いをつけて、堅実に生きていけるならずっとそっちの方がいい。だって。安心して生きていけるから。明日のご飯だって、明日の電気代だって心配せずに生きていけるから。」


 そういう「キリギリス」の表情は伺えませんでしたが、その語尾はどことなく震えているようでした。「キリギリス」は続けます。


「夢なんて呪いだよ。どこまでいっても届かなくて、それでいてどこまでも心を焦がし続ける。燃やすものなんて何もなくても。」


 そう言って振りかえることなく「キリギリス」はいいます。


「だからさ、あたしは『アリ』、好きだよ。」


「キリギリス」は続けます。二度と振り返ることなく。


「『アリ』にだって幸せになる方法はあるよ。生きていればいいことはあるかは知らないけど、努力はきっと報われる。そうじゃなきゃ、救いがなさすぎるでしょ?」


そういうと彼女はもう、一言も発さずに立ち去っていきました。もう二度と、「アリ」の顔を見ることもなく。


 6.

 それから。


「アリ」が翌日また同じ場所に行っても彼女は現れませんでした。翌々日になっても、またその次の日になっても、彼女は現れませんでした。季節が変わり、秋から冬に、冬から春になっても彼女は現れませんでした。場所を変えたのか、それとも。それは分かりません。ひとつだけ確かなことは、きっと、「キリギリス」とはもう二度と会えないだろうこと。


「アリ」は「キリギリス」と別れた橋の欄干にもたれ掛かりつつ、最後に受け取ったタバコをふかします。慣れない煙に思わず咳き込み視界が滲みます。


 それでも、「アリ」としては願わざるを得ません。この同じ空の下、「キリギリス」が無事にメジャーデビューを果たせることを。


 それはかつての「アリ」であれば考えもしなかったことでしょう。夢を見るのは「キリギリス」の専売特許。「アリ」はキリギリスにはなれません。でもキリギリスに憧れることはできるのです。


「アリ」は再度彼女と同じ香りのする煙草をくゆらせます。優しい桃のかおりが漂います。「アリ」は小さく旋律を呟きます。それはかつてここで「キリギリス」が歌っていた歌のワンフレーズ。でも、それは記憶にあるそれとは似ても似つかなくて。


「アリ」は、煙が目にしみたのか、浮いてきた涙をそっと拭いました。

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アリとキリギリスの道は交わらない 間川 レイ @tsuyomasu0418

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